正治2(1200)年
2月7日
・定家(39)、良経の許に参ずると、明後日詩歌の会があるとのこと、定家は、今度の詩歌成らず。心中冷然、この事殊に堪え難し。夕、北殿に渡られたが、甚雨のため、御供出来ず。騎馬で退下する。昨日、囲碁の興ありと。堪えざるにより参入しなかった。為家の乳母が来て、梶原景時滅亡の事を語る。其の余等、追捕するの間、京幷に辺土、多く騒ぎがあった。
「三名(為家)の乳母来たり語る。梶原滅亡の事等、その余党等追捕するの間、京並びに辺土多く以て事有りと。」(「明月記」同日条)。
2月8日
・定家(39)、昏に参上し、南殿にて、明日の詩歌会の良経の作をいただいて退下。今日所有の葦毛の馬と、右京権大夫の黒い糟毛の馬と交換する。小馬といえども、尾髪尋常なれば、請いて替えたのだった。
2月9日
・良経家作文歌会。文人等集まり、詩の講が讐る。「皆以テ才子ナリ。一人極メテ見苦シ」。式部大輔・親通朝臣・資光朝臣・有家・長兼・宗業・為長・成経・高範・知範の面々である。資光朝臣秀句あり、満座感歎す。講師成信、読師式部大輔。次に和歌あり。季経卿・隆信朝臣・保季朝臣・業清等である。宗業・高範は和歌を進めず。保季講師をするよう仰せられる。代って、長兼奉仕。季経読師。読了って退下。「尋常ノ歌無シ」。
・この日付けの『明月記』。院中では雑遊(乱痴気)がたびたび催され、院の不興を買った近臣に理不尽な仕打ちが行なわれるなど、院の御気色次第で事が左右されるといった有様。刑部卿顕兼が鬼になったとき、皆は「手毎ニ大杖ヲ以テ、之ヲ張リ伏スト云々。」定家、「内府(通親)之ヲ見、今ニ於テハ吾ガ力及バザルノ由、相示スト云々。世上ノ体、只運ナリ」(『明月記』)
2月10日
・定家(39)、前日の作文歌会の作を資実に送る。
また、この日、中宮任子侍始の職事として参仕。
2月11日
・定家(39)、妻子を相具し、三条坊門に行き向う。次に式子邸に参向。退下してまた坊門に行き、妻子と共に帰宅。夜になって、良経から召されるが、風雨深泥、術無きゆえ、所労の由を申して参上しなかった。後に聞くと、長兼伺候して詩を賦せられたと。
2月12日
・定家(39)、吉夢を見る。
12日、14日、17日、19日、御堂懺法に参仕。
2月15日
・寒く、夜は雪になる。定家(39)、広隆寺に参詣、法輪に赴こうとすると、風のため船に乗れず、空しく嵯峨に帰る。中院に入りて沐浴。宿泊。
2月12日
・定家(39)、法輪寺に参詣し、中院に帰り、小浴の後帰洛。
2月18日
・後鳥羽院、九条兼実の子の左大臣良経(籠居5年)を謁見(「玉葉」)。
2月19日
・定家(39)、藤原忠通忌日仏事に参仕。
2月20日
・鶏鳴以後、兼実が嵯峨に行くと聞き、定家(39)、御供に馳せ参ず。遅明、嵯峨の小御堂に入り給う。即ち、能季朝臣と共に、定家はわが山荘に行き、相具した信光・清美も共に沐浴させ、小膳を供した。
2月20日
「親長京都より帰参す。囚人播磨の国惣追捕使芝原の太郎長保を具し下る。これ景時が與党なり。佐々木左衛門の尉廣綱、郎従を相副えこれを送り進す。親長御所に参り、申して云く、去る二日入洛し、同七日、廣綱・基清相共に、先ず景時が五條坊門面の宅を追捕し、郎従を縛す。その白状に就いて、近江の国富山庄に於いて長保を生虜ると。長保に於いては、義盛が宅に遣わさるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月21日
・定家(39)、九条家仏事に参仕。
姉の五条尼上(八条院三条、俊成卿女母、53)、夜前すでに入滅。
「世上ノ無常、驚クベカラズト雖モ、同胞ノ中、未ダ此ノ事アラズ。次第、道理タリト雖モ、長兄先ズ此ノ如シ。殊ニ哀慟ノ心ヲ催ス」(長兄とあるのは長姉のこと、当時は両様で使われていたらしい)
2月22日
・定家(39)、除服(姉八条院三条の喪)。父俊成が時行(伝染病)で一時危篤となる。大炊殿式子に参ず。経房に逢う。仏事を修せざるの条、甚だ奇体、更にあるべからずと語る。御所に参ず。良経は、良輔の御宿所にいる(良経・良輔作文)。俄に出題あり。「今日ノ詩筵、極メテ深恩ノ事卜雖モ、興無キニ似タリ。叉、不堪ノ由、表スベン。仍テ座ヲ立ツニ応ジテ諷吟ス」。
2月23日
・定家(39)、八条院の美福門院月忌仏事に参仕。
また、召しにより良経に参ず。和歌の事を仰せられる。定家、風情なし、更に成らず。今日、構え出し、書きて進ぜる。三人を選ばれる由。俊成所労の間、講序の交わり、頗る病み思うの由、今朝申す事を言上する。良経は、申すところ頗る道理、ならば延期すべきか、これを計り申し上ぐべしと。それは恐れ多いことゆえ、御定に従いますと申し上げる。
2月24日
・定家(39)、御堂修二月会に参仕。
2月25日
・定家(39)、召しにより良経邸に赴く。中書と右の歌を撰び終え、御供して御堂に参ず。隆信朝臣・寂蓮入道召しに依り参入す。右の歌を撰び終えて、昏に御前に参ず。和歌あり。読み上げ終り退下す。十題歌合にて、左は良輔(実は兼実)・隆信・保季・宗隆・寂蓮・業清。右は、資実(実は良経)・能季・有家・定家・顕昭・丹後。深更に帰参し、良経の御供をして法性寺に参じ、定法寺に宿る。
2月26日
・頼家、鶴岡八幡宮参詣。大江広元・親広(ちかひろ)父子、御後衆(ごこうしゆう)をつとめる。
2月28日
・定家、早旦に参上し又南殿に参ず。歌合の間の事、御使となって往反し、夕に退下。此の間に雨雷。夜に入り、坊門に行き沐浴。経房、去る22日より重悩の由、見舞の文を送る。資経の返事には、万死に一生の事と。
2月30日
・定家、早旦、式子に参向。一昨日より、御足、又薬を休まれたと聞いたので驚いて参上したのだった。経房の病重く、時を待つばかりと。「今ニ於テハ天下ノ古老ナリ。惜シムベク、痛ムベシ」
つづく
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