2023年4月20日木曜日

〈藤原定家の時代336〉正治2(1200)年8月1日~19日 定家、父俊成の訴えにより後鳥羽院百首(『正治初度百首』)の歌人に選ばれる 「二世ノ願望、已ニ満ツ」 大雨 「八月九日。去ル夜、今日、雨沃グガ如シ。聊カノ隙無シ。河水大イニ溢ル。田畝、又水底トナルト云々。、、、終日終夜、湿損スルカ。堪へ難シ。諸方、已ニ水損ノ聞エアリ。毎年旱水。貧人奈何。誠ニ哀氏ムベシ。」    

 


〈藤原定家の時代335〉正治2(1200)年7月15日~29日 定家、後鳥羽上皇が企画した『正治初度百首』作者に漏れる 就業に出る慈円について良経も出奔を企てる 定家の心神不快続く 「暁以後、腹病忽チ発ル。苦痛為方無シ。痢、数度ニ及ブ。又心身甚ダ悩ム。頭病ミ。手足傷ム。、、、心中殊ニ違乱ス。」 より続く

正治2(1200)年

8月1日

「羽林比企新判官能員が家に入御すと。」(「吾妻鏡」同日条)、

8月1日

・定家(39)、騎馬で北野に参詣、「別ニ祈請シ申ス事アリ。」(後鳥羽院百首のこと)

この日夜半、家司の「忠弘ノ宅ニ群盗入リ、払底シテ雑物ヲ取ル。僅ニ存命ト云々。」(信乃小路高倉近辺)

8月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事の参仕

8月3日

・定家、兼実不予を聞き、驚いて参上。御脚腫れ、夜前悩まれた由。歩行困難と。宜秋門院もまた、御風邪の疑いあり、顔に湿疹あり、医家を召す。御中風の気あるの由にて、桑を焼き宛てるという。

8月4日

・源通親の妻範子(中宮在子の母、元能円の妻)、没。

以降は、その妹兼子(けんし)が「卿二位(きょうのにい)」と呼ばれ、後鳥羽院のそばで権勢をふるう。

8月4日

・定家(39)、法性寺に参向。良経は御墓所の由にて、有家としばらく談話するの間、帰られ、来る18日、一品経を修するから、定家もその人数に入るよう仰せられる。

河内護良の庄に、斎宮用度の木柴(薪)があてられていたが不納の由にて、その沙汰をする。更に、三崎の地頭横暴について鎌倉へ折紙(略式の申請)を良経に託さねばならない。この日は良輔家作文。又良輔方に参ずる。深更に及び、俄に良輔、宜秋門院台盤所の辺りにて詩会あり。只二人であった。『万寿元年高陽院行幸和歌』を書写する。

8月8日

・定家の家の西の方、湯殿の辺りが壊れた。いささか雨中に於いて引き直し、竹の柱を抜き、木の柱を立てる。この事、西の方は王相の方であるゆえ、これを思い出し、定平(陰陽師か)に尋ねて、本の如くに竹をさし入れる。この日籠居。

「終夜、雨注グガ如シ。又洪水カ。」(『明月記』)

8月9日

・藤原定家、父俊成の訴えにより後鳥羽の百首歌の歌人に選ばれる。

作者が老者のみに変更されたと聞いた俊成は、かたくるしい漢文を避け、和語で記した「和字(仮名)奏状」を院に送り、その措置の不当を訴えた。この奏状は六条藤家を批判する一方、定家や家隆らの優秀さを称揚するなど、かなり激しい内容のものであった。後鳥羽院の歌の師としての87歳の老俊成にしてはじめて許されるもの。

「尚歯会と申す事をこそ、年老いたるものばかりは仕る事にて候へ、百首にはしだいさらに候はぬ事候」、百首先例にはろうじんばかりということはないことを述べ、六条家の暗躍、謀略を猛烈に攻撃した。

これを受け取った院は即座にその申し入れに従い、定家・家隆・隆信らに題を賜っている。そこで定家は、院が「親疎を論ぜず、道理を申された」ことを高く評価するとともに、「二世の願望すでに満つ」と喜ぶ。

こうして撰ばれた作者は院を含めて23人。各人がそれぞれ百首を提出することになる。

六条藤家から正三位季経・正三位経家、御子左家とその門下から沙弥釈阿(俊成入道)・沙弥寂蓮・散位正四位下藤原隆信・従四位上藤原定家・上総介藤原家隆。但し、この後の歌合には六条家の季経・経家はお召しがなくなる。   

「八月九日。去ル夜、今日、雨沃(そそ)グガ如シ。聊カノ隙無シ。河水大イニ溢ル。田畝、又水底トナルト云々。早旦、相公羽林(公経)、夜前百首ノ作者ニ仰セ下サルルノ由、其ノ告ゲ有リ。午ノ時許リ、長房朝臣奉書到来ス。請文(うけぶみ)ヲ進ジ了ンヌ。今度加へラルルノ条、誠ニ以テ抃悦(べんえつ)。今ニ於テハ渋ルベカラズト雖モ、是レ偏ヘニ凶人ノ構フルナリ。二世ノ願望、已ニ満ツ。巳ノ時許リニ、女方三条坊門ニ向フ。昨日ヨリ懺法卜云々。予写経二依り出デズ。夜ニ入り、雨ヲ凌ギテ御堂ニ参ズ。中将殿ニ謁シ奉リテ退下ス。御匣殿ノ料卜称シテ車ヲ召サル。終日終夜、湿損スルカ。堪へ難シ。諸方(荘園)、已ニ水損ノ聞エアリ。毎年旱水。貧人奈何(いかん)。誠ニ哀氏ムベシ。

(朝早く「相公羽林」公経から作者に選ばれたという知らせがあり、次いで、藤原長房の奉ずる院宣が到来した。それに了承する旨の請文を提出するとともに、俊成・定家二世の願望が満たされた)

8月10日

・定家、父俊成の奏状のことを知り、家隆・隆房との3人の若手が入ったことを知る。21歳の上皇が、「親疎ヲ論ゼズ、道理ヲ申サルト云々。」

為家が痢病を病む

8月13日

・定家、北野社に参詣、『正治初度百首』作者に選ばれたことをうけ、自歌一巻を奉納。心中の祈願満額の御礼である。大雨の中、式子訪問。百首詠の悦びの為か。

8月14日

・定家、法輪寺に参詣、同日帰京。

8月15日

・定家、成菩提院の仏事に参仕。宜秋門院丹後も、百首の題を賜った。この人は、定家・良経の新風から見れば古風を歌人である。

8月16日

・良経、輿にて嵯峨に行く。定家、騎馬にて供奉。法輪寺・釈迦堂に灯明を供して後、思いがけず御輿を定家の山荘に昇き入れられて、内を御覧になり、景勝の地なりと仰せられる。定家は不意のことにて、面目でもあり、恥ずかしく思う。良通の御墓所に行く。定家は山荘にて沐浴。国行・信光も入浴す。しかし不意のことゆえ備えなく食膳は出さない。昏になって帰洛された。

「八月十六日。天陰。雨聊カ灑グ。夜ニ人リテ晴。鶏鳴ノ程、御堂ニ参上ス。程無ク御輿出デオハシマス。予・資実・国行・信光、騎馬シテ供奉ス(布衣打梨)。七条大宮・四条大路ヲ経。西京ノ田中ヨリ広隆寺ノ西ノ門前ニ出デ、大井河ニ出ヅ。御船無ク、渡ランメ給ハズ。信光ヲ以テ小舟乗セ、灯明ヲ供セラル(法輪寺)。即チ嵯峨ノ釈迦堂ニ参ゼシム。又大門ニ於テ御輿ヲ居(す)ウ。予ヲ以テ灯明ヲ供セラル。即チ還リオハシマス。御輿ヲ中院ノ草庵ニ昇キ入レラル。面目恥辱計リ会フ。蔀ヲ上ゲシメ、内ヲ御覧ジ、勝地ノ由、仰セラル。即チ、故大臣殿ノ御墓所ニオハシマス。大原ノ尼公、此ノ所ニ参ゼザルト云々。入リオハシマスノ後、各々退下ス。予、私盧ニ入リテ沐浴ス。国行・信光来タリ、同ジク浴ス。但シ食無シ。未ノ時許リニ帰参ス。少将相共ニ遊行ス。昏ニ臨ミテ還リオハシマス。穀倉院ノ辺リニ於テ(路、此度、大内ノ西南ヲ経。普通ノ如シ)。日入ル。七条壬生ノ辺りニ於テ秉燭。入リオハシマシ了リテ退下ス」

8月18日

・定家、故良経室五七日仏事、一品経・捧物を送る。

8月19日

・定家、「詠歌ニ辛苦シ、門ヲ出デズ。」


つづく

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