建久10(1199)年
2月14日
・この日、頼家の雑色が、前年没した親鎌倉派・一条能保・高能の郎党だった中原政経・後藤基清・小野義成の左衛門3人を捕らえ、院御所に拘引(三左衛門の変)。
騒動に関連があると見られた者への追及が始まり、17日、頼朝に近い西園寺公経・藤原(持明院)保家・源隆保の出仕を止められ、幕府の帰依あつい僧文覚を検非違使庁に拘禁。
26日、中原親能が上洛し騒動の処理を行い、左衛門3人を鎌倉に護送。
3月5日、後藤基清は讃岐守護の地位を剥奪、19日、僧文覚を佐渡に流し、逮捕者の所領を没収。通親の陰謀は成功し在京幕府勢力は弱体化。幕府は大江広元が中心となって通親支持。
源隆保は5月21日土佐へ配流。西園寺公経は一条能保の女婿、持明院保家は一条能保の従兄弟で能保の猶子。源隆保と源頼朝は夫々の母が姉妹であり従兄弟。
これら一連の処置は、すべて新鎌倉殿頼家の諒解のもとに行われた。頼家に妹乙姫を入内させたいという希望があったため、通親の方針を受け入れざるをえなかったといわれる。その結果、頼家は鎌倉御家人と親幕派の公卿たちの権益を保護することができないという失態を犯したのである。
「能保入道・高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに(後藤兵衛)基清、(中原)政経、(小野)義成など云三人の左衛門の尉ありけり。頼家が世に成って梶原が太郎左衛門の尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか。それを又かく是等が申候なりと告たりける程に、ひしと院の御所に参り籠て、只今まかり出でば殺され候なんずとて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又廣元は方人にてありけるして、やうやうに云てこの三人を三左衛門とぞ人は申し、是等を院の御前にわたして、三人の武士給わりて流罪してけり。通親公うせて後は、皆めし返されてめでたくて候き。」(「愚管抄」)。
(処罰の対象となったのは文覚を除くと、公経が能保の娘婿、保家が能保の従兄弟で猶子、隆保が能保の抜擢で左馬頭に登用された人物、基清らは能保の郎党であり、いずれも頼朝の妹婿・京都守護として幕府の京都における代弁者の役割を担っていたが、2年前に死去した一条能保の関係者である。『愚管抄』によれば能保・高能父子が相次いで没し、最大の後ろ盾だった頼朝を失ったことで主家が冷遇される危機感を抱いた一条家の家人が、形勢を挽回するために通親襲撃を企てたという)
「京中また騒動す。左衛門の尉三人(基清・政経・義成)、新中将雑色これを召し取り参院す。先ず惟義が許に向かい、武士守護し院の御所に渡さる。武士三人を給うと。」(「明月記」14日条)
2月16日
「近日この近辺の門々戸々、資財を運び東西南北に馳走す。相互に我由を知らずと称すと雖も、心中皆臆病か。」(『明月記』) 。
2月17日
・この日払暁、高雄山神護寺の文覚、二条猪熊の里坊において検非違使に逮捕される。
これについて定家は、
「年来、前の大将(頼朝)の帰依に依り、其の威光天下に充満し、諸人追従するの僧なり。」(『明月記』)と述べている。文覚は、庇護者である頼朝の虎の威を借り、横暴な振舞いが多く、人々の反感を買っていたらしい。
「今暁宰相中将公経卿・保家朝臣・隆保朝臣出仕を止めらると。巷説に公卿七人滅亡すべし。誰人を知らず。文覺上人(年来前の大将の帰依に依って、その威光天下に充満す。諸人追従の僧なり)、夜前検非違使守護すべきの由宣下せらると。別当官人を相具し参院す。夜半ばかりに廷尉三人これを承ると。」(『明月記』)
「宰相中将公経卿」(西園寺公経)は定家の妻の弟
3月19日、文覚は『院の勘当』と言う罪科で、佐渡国に配されることが決定。
文覚の流刑は、維盛の遺児・六代丸の運命にも影響を及ぼすに至る。
〈文覚配流 → 庇護を受けていた六代(維盛の遺児)斬殺 ; 平家嫡流の滅亡、『平家物語』の終結〉
これより先、建久5年(1194)4月、平維盛の遺児・六代丸(出家して妙覚)は文覚の書状を携えて鎌倉に入り、大江広元を介して異志なき旨を申し述べた。頼朝は、平治の乱後における重盛(妙覚の祖父)の芳恩を想い、妙覚を処罰せず、暫らく関東に止住するよう指示した。6月15日、頼朝は妙覚禅師に対面し、もし異心がないのなら然るべき寺の別当に補そうと告げた(『吾妻鏡』)。
その後の生活は不明。没年、処刑場所などについても諸説あり確定できない。
〈物語世界では、、、〉
その後、妙覚は、鎌倉を後にし修行を重ね、父・維盛の菩提を弔っていた。
この年(正治元年)、文覚が捕えられたことを聴き、急いで神護寺に戻ったところを、命をうけた検非違使左衛門尉・安倍資兼により逮捕される。身柄は直ぐ関東に送致され、命をうけた駿河国の住人岡部権守こと藤原泰綱によって斬られる。斬首された場処は覚一本(流布本)『平家物語』や『北條九代記』によると田越川(多古江河、逗子市)畔とみなされている。
重盛・維盛と続く一流が担わされた平家嫡流という肩書きは、妙覚(六代)の死=平家の断絶という意義付けをもって『平家物語』を結ぼうとする意図と不可分な関係にある(巻12「六代」「泊瀬(はせ)六代」「六代被斬(きられ)」)。
2月22日
・定家(37)、奈良に下向し春日祭勤仕。前々から、当日の摺袴が各方面から贈られていた。その行装の費用も大変である。翌日帰京。
2月24日
・定家(38)、日吉社に参詣。越部荘の地頭からとどいた馬一頭を、日吉社の親戚宿禰に贈る。
2月26日
「親能今朝入洛す。天下の事決すべしと。また云く、夜前入洛すと。」(「明月記」)
2月28日
「健御前(定家の姉)、今日遂ニ以テ退出ス。日来喧嘩。更ニ驚クベカラズ。但シ女院仰セテ云フ、灸治を企ツベキニ依り、退出スルノ由、披露スベントイヘリ」(「明月記」)(八条女院は健御前の肩をもち、灸治を理由に一時的退出ということにする)
但し、6月20日には、「健御前又八条殿ニ参ゼラル。次第、尋常ノ儀ニアラズ」と歎く。
(喧嘩しては院を出てくるが、また、けろりとして戻って行く)
健御前は12歳から高倉天皇の母である建春門院に仕え、老後には回想録「建春門院中納言日記」を書いている。
2月30日
・定家(38)、妻と嵯峨に行き、釈迦堂に詣でて後、沐浴。嵯峨には山荘を持っていて、入浴の設備もあった。
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