2023年4月30日日曜日

〈藤原定家の時代346〉正治3/建仁元(1201)年7月6日~8月23日 後鳥羽院が和歌所再興(俊成・定家ら寄人) 定家、後鳥羽院の熊野御幸の御供を命じられる「南山御共ノ事、已ニ催シアリ。面目過分ナリ。」 「甚雨、午の刻大風。郷里屋を穿ち、江浦船を覆う。鶴岡宮寺の廻廊・八足門以下、所々の佛閣塔廟顛倒す。凡そ万家一宇も全き所無しと。下総の国葛西郡海辺の潮人屋を牽く。千余人漂没すと。」「国土に於いては五穀を損亡し、庫倉に於いては一物も納めずと。」(「吾妻鏡」) 

 


〈藤原定家の時代345〉正治3/建仁元(1201)年6月1日~29日 後鳥羽院から賞讃され感激する定家「心中甚ダ涼シク、感涙ニ及ブ。生レテ此ノ時ニ遇フ、自愛休ミ難シ。」 後鳥羽院の和歌に感激する定家「金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルベキ人無シ。毎首思義スベカラズ。感涙禁ジ難キモノナリ。」 より続く

正治3/建仁元(1201)年

7月6日

「残暑焼けるが如し。晩涼を待ち、御所に於いて百日の御鞠を始めらる。」(「吾妻鏡」同日条)。義時(39)らが頼家の百日鞠に見證(判定役)を務む。

7月10日

・豊嶋朝経を土佐国守護職に任命。佐々木経高の後任。

7月26日

・後鳥羽院、和歌所(和歌の撰集を行なう所、村上天皇天暦5(951)年設置)を再興、二条殿に置き、和歌所寄人11名、和歌所開闔(かいごう、書記役)として醍醐源氏の源家長を指名。寄人は九条家から良経とその叔父慈円、土御門家から源通親、子の通具。御子左家系から釈阿(俊成)、定家、寂蓮、家隆、隆信。六条藤家から有家。そのほか源具親(源師光子息で院女房宮内卿局の兄)、飛鳥井雅経、鴨長明(47)、藤原秀能。後、藤原清範・同隆信・鴨長明・藤原秀能を寄人に加える。

「七月二十六日。巳ノ時許リニ参上ス。此ノ間、右中弁奉書到来。明日、和歌所ノ事ヲ始メラルベシ。寄人トナス。酉ノ刻ニ参仕セシメ給フベシト。追ヒテ仰ス。初メテ和歌ヲ講ゼラルベシ。松月夜涼シ、ヲ以テ題トナス。風情ヲ凝ラシテ参入セシメ給フベシ。人々布衣ナリト。今此ノ事ニ遇フ。堯倖卜謂フベシ、人々ノ説ヲ聞ク。寄人十一人卜云々。左大臣殿・内大臣・座主・三位入道殿・頭中将・有家朝臣・予・家隆朝臣・雅経・具親・寂蓮卜云々。」

7月27日

・定家、良経邸に参向。今夜の歌の事を承るためである。御供して院参。

和歌所歌会。講師は定家。通具読師。良経と御製を読み上げる。

次いで当座歌会、良経題を書き進める。「暮山ノ遠雁」。講師家隆。

和歌所は、弘御所の北面である。図を書き入れる。

鴨長明:

和歌所寄人に選ばれ歌人としての現世的栄誉を獲得。この後、下鴨の摂社河合社の禰宜(下鴨正禰宜への出世コース)が欠員となり、後鳥羽院も長明を任命しようとするが、社家内部の抵抗により頓挫。時の正禰宜鴨祐兼が子の祐頼を推挙。祐兼の父祐季は、院政期下鴨社領の拡大に辣腕を振う。


8月3日

・定家、和歌所影供歌合。俊成判者。五番院の勝。一番持。

8月5日

・源家長を以て、和歌所の年預かりと衆議によって決定。

8月7日

・定家、院参。明後日、未練の歌人等三題を詠進すと。作者十人。

良経邸に参向。撰をされたのを見る。後撰・拾遺両集より百首を撰び、院に進められる。その出入を共に撰ぶ。

8月9日

・定家、院の熊野御幸の御供を命じられる。過分の面目であるが、病弱にて気がかりである。御供人は、通親・大理・仲経卿の公卿三人と、殿上人、保家・定家・隆清・親兼・長房・忠雅・有雅の七人で、皆以て清撰の近臣である。定家もついに、近臣の中に加えられ自愛。

「南山御共ノ事、已ニ催シアリ。面目過分ナリ。」。供(とも)は、「皆以テ清撰ノ近臣ナリ。俗骨独リ相交ハル。争(いかで)カ自愛セザランヤ。」

8月11日

・諸国大風。

「甚雨、午の刻大風。郷里屋を穿ち、江浦船を覆う。鶴岡宮寺の廻廊・八足門以下、所々の佛閣塔廟顛倒す。凡そ万家一宇も全き所無しと。下総の国葛西郡海辺の潮人屋を牽く。千余人漂没すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月13日

・定家、15日の撰歌合の和歌を進上

8月14日

・定家、和歌を撰定すべしとのこと、重ねて催しあり、雨を凌ぎ、いたわりて院参。右の方を撰すとて、定家・読み、慈円・通親評定。雅経・具親召し加えらる。先ず三十首。かさねて左の方の歌、殊によろし。五十首撰み出すべき由、仰せ事あり、よって又これを撰す。

通親の歌、大略入れられるか。みずから以てこれを挙ぐ、極めて以て泥々たり。今度、定家の歌、殊に以て心を得ず。四首入り存外に思う。撰び終り、右中弁につけ、院御所に進められる。左の方、和歌所にて撰す。良経出席。寂蓮も候す。

8月15日

・定家、重ねての催しにより、良経の御供をして、和歌所に参ず。寄人等を召す。和歌所撰歌合。ただし左の方の人、本より数少ない上、有家不参。よって、右の方人雅経を以て、左の講師とする。右の方、頭中将これを読む。定家、紙硯をたまわりて、又判・評定の詞を書く。此の役極めて堪え難し。評定の詞、流るる如し。しばらくもとどまらず。惣じて左の方が勝つ。硯を取って本座に復る。

ついで当座の題あり。作者を隠して書き連ねる。その歌に、上・中・下の品帳を付ける。

8月15日

「鶴岡放生会延引す。廻廊顛倒に依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

「甚雨大風、去る十一日の如し。雨度の暴風に依って、国土に於いては五穀を損亡し、庫倉に於いては一物も納めずと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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