正治2(1200)年
10月26日
・頼家、従三位に叙せられ、政所を設置できる資格を得る。
「京都の使者到着す。去る月二十六日の除書を持参す。中将家左衛門の督に任じ、従三位に叙し給う。また挙し申さるる所の安達源三郎親長・山城の次郎行村等、少尉に任ずと。」 (「吾妻鏡」11月7日条)。
10月26日
・定家、正四位下に叙任。
今日、京官の除目といえども、冷然。病を扶け参院。夜沐浴、精進を始める。
「四旬ノ衰鬢、病ヒ愁ヒト許リ合フ。旦暮ニ世路ヲ営ム。弾指スベシ」
(40歳にして病身に鞭打ち、世路を営む身を、自ら弾指する)
10月27日
・定家、宜秋門院丹後より祝の消息がある。
「此ノ条、今ニ於テハ沙汰ノ限リニアラズ。又所存アリテ、本望無シ。然レドモ、内外ニ冥顕。一言ノ望ミヲ出サズシテ、朝恩ニ預カル。叡慮ノ趣、極メテ以テ忝ナシ。御好道ノ間、述懐ノ歌、猶憐愍アルカ。事ニ於テ存外。是レ又運ナリ。咳病ヲ相扶ケテ参上。大臣殿ニ見参ス」
正治2年は、百首詠進、昇殿、位階上昇と、吉事がつ続き記念すべき年だった(体調は絶不調だが)。良経の弟良輔も、従三位に叙せられた。
ついで、八条殿に参向、女房を以て申す事あり。
「寒風咳病ナス方無シ。朝恩ニアラズバ、扶ケ出デ難キ者ナリ。年来沈淪、出仕極メテ厚顔ナリ。是レ身ニ過ギタルニ依ルナリ。人ヲ恨ムベカラズ。而レドモ今忽チ望ヲ出サズシテ、一階ニ預ル。旧労空シカラズ。極メテ心忝シ。之ヲ以テ争(いかで)カ奉公ヲ励マザランヤ。中将ノ四人ハ嬰児ナリ。然レドモ皆悉ク禁色ノ人。還夕様替リタル事ナリ。尤モ以テ面目トナス。前世宿報ノ拙キナリ」。
10月29日
・定家、連日窮屈、病身まことに以て辛苦す。巳の時許り、たちまち振い出す。身体冷えきって、少し発熱、発汗。夜に入って少しよくなった。忠弘を以て、明日の御幸に参向出来ぬ由、八条殿に申す。
11月1日
・定家、今日明日、事発らず。ただ咳病なお以て術なきの上、心神窮屈、なす方なし。
11月2日
・定家、心神なお悩むにより、明日の御幸、供奉出来ない旨、院蔵人の許に示す。
11月3日
・定家、病悩辛苦のため、以経・敦直等が、加階を祝うために来訪したが、逢えない。
11月7日
・定家、院より召しあり。所労日来より術なき由、康業が許に示し送る。なお扶けて参ずるようしかるべきかの由、重ねてこれを示す。よって秉燭以後、参上。
今夜、行幸。弘御所に入る。寂蓮・家隆・具親等と題を給わる。詠吟風情尽く。有家、今夜題を給わり、歌を献ず。今夜の歌、皆負ける。御製一首、師光の女(宮内卿)一首持。伊勢の女房一首。
11月8日
・定家、病気いよいよ増し、なす方なし。
通親影供歌会、題を送り責める。先日不参の意趣かの由、凶人沙汰すという。戌の刻許りに重病を扶けて、権門に向う。人々前後に群衆す。定家、勧盃すべしと。片腹痛きこと極まりなし。老若を分つ。定家は若き方に入る。40歳を以て境となすと。しかれども家隆もまた若き方に入る。若き方多く勝つ。
盧に帰るに「心中已ニ以テ、有リテ亡キガ若シ。今夜ノ歌、小侍従ニ合フ、二番勝チ、存外ノ面目ナリ」。
11月9日
・定家、良経家作文歌会。良経方にて詩歌。
11月10日
・定家、日吉社参詣、11日帰京
11月15日
・この日の五節に、通親の命によって広元が参議藤原公国の舞姫に付き従う童女を献じ、「毎事華美殊勝」との評を得た(『明月記』11月14日、15日条)。広元が童女を献じたのは、彼の娘が公国の室であった縁によると考えられる。
11月16日
・定家、院参。女房に謁し、五節の櫛少々を志す。式子邸参向。
11月17日
・定家、良経方に参向。女房に櫛少々を志す。
11月18日
・定家、日来窮屈により、嵯峨に行き保養。路次、姉竜寿御前の宅に行き、病を問う。竜寿御前は、式子内親王に仕えていた。19日帰京。
11月19日
・定家、後鳥羽院地蔵講・九条御堂例講に参仕
11月20日
・定家、伶人の中に加えられる。「面目極マリ無シ」。東宮守成親王昇殿を聴される
11月22日
・定家、院参。中嶋宮に於て家長が『正治初度百首』の歌を読み上げる。定家・寂蓮・家隆3人、聴聞すべきの仰せにて聞く。御製まことに秀歌。良経も出席。
11月23日
・定家、安楽寿院の仏事に参仕。26日にも。
11月25日
・定家、式子邸参向。
春宮に参じ、はじめて陪膳を勤める。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿