正治2(1200)年
1月20日
・定家(39)、兼実男良通月忌仏事に参仕。
1月23日
・大江広元、景時追討の記録を頼家の御前で読み上げる。
1月23日
「三浦の介平の朝臣義澄(年七十四)卒す。三浦大介義明が男。」(「吾妻鏡」同日条)。
1月24日
・大江広元、景時残党の捜索を在京武士の大内惟義・佐々木広綱に命じる頼家御教書を書く。
1月24日
・幕府、斉藤源三こと源親長を派遣、景時誅殺を奏上させる。
2月1日、上洛、報告。
先に、後鳥羽院は、景時上洛の報を聞き、院中で五壇の御修法を始める(景時の無事を祈願)。大江広元・三善康信は、頼家に対し、「是れ尤も怪しむべき事なり、景時逐電の由、誰人の申す所ぞ」(「吾妻鏡」2月22日条)と言上。
「掃部の頭廣元朝臣並びに善信等申して云く、景時関東を逐電するの由、去る一日京都に披露す。而るに仙洞即ち五壇の御修法を始めらる。その故を知らずと。これ尤も怪しむべき事なり。景時逐電するの由誰人の申す所ぞや。兼ねて奏聞を経て、上洛せんと欲するの條異儀無きかと。晩に及び長保を推問す。長保申して云く、播州守護たるに依って、彼の吹挙に就いて奉公を致すと雖も、敢えて叛逆に與せずと。今日長保を小山左衛門の尉朝政に召し預けらるるなり。」(「吾妻鏡」2月22日条)。
(予め奏聞を経て上洛しようとしていたことは疑いないだろう)
1月25日
・良経家作文歌会が企画される
1月25日
・駿河国の住人などに景時追討の勲功賞が与えられる。
「今日美作の国守護職已下景時父子の所領等を収公せらる。駿河の国住人等、今度合戦の忠節を竭すの輩、各々勲功の賞を蒙る。また比企兵衛・糟屋兵衛同じく賞を蒙る。未だ到らざる以前に景時誅せらるると雖も、追罰使の賞に依って此の如しと。晩に及んで、景時弟刑部の丞友景降人として北條殿の御亭に参る。工藤の小次郎行光に付け兵具を献ると。」(「吾妻鏡」同25日条)。
「糟屋籐太兵衛の尉有季、安房判官代隆重を生虜り進す。これ景時が朋友なり。日来一宮の城郭に加わり、即ち相具し駿河の国に至り、合戦の刻聊か疵を被る。その夜樹上に昇り、翌日軍士等分散するの後里辺に出ずるの処、有季が郎従等これを獲ると。」(「吾妻鏡」同26日条)。
1月25日
・定家(39)、兼実男良輔拝賀に奉仕。
1月28日
・『吾妻鏡』が述べる景時叛逆の理由
「二代将軍家ノ寵愛ニ誇リ、傍若無人ノ威ヲ振ヒ、多年ノ積悪ツヒニソノ身ニ帰スルノ間、諸人向背(きようはい)ヲナスナリ。、、、日来ノ芳約ヲ恃(たの)ミ、源家ノ旧好ヲ重ンジテカノ武衛ヲ以テ大将軍ニ立テントス」(『吾妻鏡』正治2年1月28日)
(景時は親頼朝派の中心として、王朝勢力との提携を推進しようとしていた可能性も否定できない。景時はその敗走にさいし京都を目ざした)
「夜に入り、伊澤の五郎信光甲斐の国より参上す。申して云く、武田兵衛の尉有義景時の約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、その告げを聞くに依って、子細を尋ねんが為彼の館に発向するの処、遮って中言有るかの間、兼ねて以て逃げ去り行方を知らず。室屋に於いては敢えて人無し。ただ一封の書有り。披見するの処、景時が状なり。同意の條勿論と。凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。多年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。仍って逆叛の思いを挿み、且つは奏聞を経んが為、且つは鎮西の士を語らんが為、上洛せんと擬すの刻、日来の芳契を恃み、源家の旧好を重んじ、彼の武衛を以て大将軍に立てんと為す。送る所の書札、自然旧宅に落し置くなりと。」(「吾妻鏡」同28日条)。
1月29日
・前天台座主慈円(兼実の弟)、参院し祈祷修法すべき旨、命じられる。翌2月5日後鳥羽院は慈円に北斗法の修法を命じる。
「天下ノ事、不思議多シ」(『明月記』)
・この頃、内大臣源通親、宮廷における影響力の衰えを感じ始める。
後鳥羽院の源顕兼に対する不快感を見て、廷臣達は遊びにかこつけて杖で顕兼を張り伏す(廷臣は権力者内大臣通親の思惑よりも後鳥羽院(21)の気色を伺うようになっている)。通親はこれを見て、「今においては吾が力及ばず」と云ったとある(「明月記」同年2月9日条)。源顕兼の父刑部卿宗雅は九条兼実の父摂政関白忠通の乳母子、顕兼の姉妹は兼実の子良経の乳母でもある。内大臣通親と同じ村上源氏の顕兼は摂関家の九条家と村上源氏の内大臣通親の対立の中で微妙な立場にある。
1月29日
・定家(39)、式子の許に参向。梶原景時、源頼家の勘当をこうむり、逐電したという。「世間頗ル物忩(騒)カ」
「梶原景時、頼家中将の勘当を蒙り逐電するの間、天下警衛すべきの由これを沙汰す。また院に申すと。これに依って世間頗る物騒か。」(「明月記」同29日条)。
2月1日
・良経、作文歌会について語る
2月2日
・囚われた勝木則宗(景時の与党)の証言は、「景時は「鎮西を管領する宣旨を与えられるので、九州の一族に早く京都に来るよう伝えよ」と言ったので、書状を九州へ送った」という。則宗は和田義盛に預けられる。
「今日御所侍に於いて、波多野の三郎盛通に仰せ、勝来の七郎則宗を生虜らる。景時が余党たるに依ってなり。これ多年羽林に昵近し奉るの侍なり。・・・即ち則宗を義盛に給う。義盛御厩侍に於いて子細を問う。則宗申して云く、景時鎮西を管領すべきの由、宣旨を賜るべき事有り。早く京都に来会すべきの旨、九州の一族に触れ遣わすべしと。契約の趣等閑ならざるの間、状を九国の輩に送りをはんぬ。但しその実を知らざるの由これを申す。義盛この趣を披露するの処、暫く預け置くべきの由仰せらるる所なり。」(「吾妻鏡」2月2日条)。
2月2日
・若狭忠季、遠敷・三方両郡内の荘園・公領の地頭に補任。忠季の所領は大飯郡の一部にも及び、若狭における勢力は圧倒的、若狭の国人・百姓たちは、異質な東国人の地頭やその代官と立ち向かわなくてはならなくな。
2月4日
・定家(39)、腹病を病む。良輔の召使う小童は囲碁の上手であると。
2月5日
「和田左衛門の尉侍所別当に還補(げんぼ)す。義盛治承四年関東の最初この職に補すの処、建久三年に至り、景時一日その号を仮るべきの由懇望するの間、義盛服暇の次いでを以て、白地にこれを補せらる。而るに景時奸謀を廻し、今にこの職に居るなり。景時元は所司たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
2月5日
「其後六代御前、文覺上人流罪せられたるよし伝聞ひて、高雄へ帰おはしたりけるを、安左衛門大夫資兼に仰て、二月五日、猪熊の文覺の宿所に押寄て、六代御前を召取て、関東へ下し奉る。駿河国の住人、岡部三郎大夫好康承て、千本松原にて斬てけり。是より平家の子孫は絶果て給ひける。」(「平家物語」)。
2月5日
・後鳥羽院、御読経。僧達、上北面の輩、小弓の興により舞い狂うと、白拍子を召し、舞あり。僧、母屋の簾中に於いてこれを見る。又別曲の童あり。北面の輩、天明の間に、使の童を送る。川原を出る時、笠を懸けた童、実詮法印の房に入る。法印の弟子等、まじりて後車に乗せ送り返すと。
「天下、只此ノ如シ。此ヲ以テ在世ノ魂トナス」と。
定家(39)は、近来の僧の稚児愛玩の世相を嘆く。
6日。雪飛ぶ。連日の風ようやく止む。腹病不快により出でず。沐浴し、倒れ伏す。
つづく
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