2023年4月26日水曜日

〈藤原定家の時代342〉正治3/建仁元(1201)年1月1日~1月30日 城長茂(長職)と甥資盛の叛乱(梶原景時追討の余波) 式子内親王(50)没 「ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな」   

 


〈藤原定家の時代341〉正治2(1200)年11月26日~12月28日 定家体調悪化続く(風病、咳病) ほぼ連日式子内親王邸を訪問 後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 頼朝以来の有力御家人の支持を失いつつある頼家 より続く

正治3/建仁3(1201)年

・親鸞、比叡山での修行の後、この年、六角堂参籠の体験をし、法然門に入ることを決意。

1月4日

・北条義時(39)、頼家の使者として鶴岡宮に奉幣す。

1月7日

・仙洞歌会

1月14日

・新田義重、没。

1月23日

・城長茂(長職)と甥資盛の叛乱。

城永茂、軍兵率い上洛。この日、三条東洞院の小山朝政邸を攻撃(「百錬抄」同日条)。朝政は梶原景時弾劾の中心人物、景時没落の因を為した結城朝光の兄、また、景時に代わって播磨守護になった人物。永茂は自分の庇護者である景時に恩義を感じている。あいにく朝政は朝覲行幸供奉のため不在のため、永茂らは土御門天皇のいる仙洞御所の二条東洞院殿に入り、四方の門を閉ざし、幕府追討宣旨下付を請願。土御門天皇(実は後鳥羽上皇)は勅許せず。永茂は本意を遂げぬまま仙洞御所を退去、清水坂辺りに潜伏。京都守護小山朝政が清水坂に向うが発見できず。

下旬には、これと呼応して、城資盛(永茂の兄助永の子)が、本国鳥坂城で叔母坂額(永茂の妹、資国の娘)と叛乱。

頼朝没後の御家人間の葛藤により、正治元年(1199)正月佐々木盛綱が守護を免じられ、挙兵するには絶好の機会。

「平の長茂(城の四郎と号す。越後の国の住人)、上皇の御所に参る。また京守護人左衛門の尉朝政(小山と号す)が宿所に乱入し、郎従等を殺害す。今日朝覲行幸未だ還宮せざるの間なり。院中殊に騒動す。(頭書。事の起こり、関東を追討すべきの由宣旨を申請す。然れども勅許無きの間逐電、誅せられをはんぬ。)」 (「皇帝紀抄」)。

1月25日

・式子内親王(50)没。「新古今和歌集」時代の最高の女流歌人。

「定家は養和の頃に「初参」して以来、約二十年にわたって実に頻々とこの孤独な内親王を訪問している。はじめは「薫物馨香芬馥タリ」と大変な香を漂わせてこの女性は定家を迎え、ときには筝を弾いて聞かせてくれたりしてい、その多くは単に「大炊殿ニ参ズ」という簡単な記述しか明月記にはないのであるが、たとえばその死の前年の正治二年には、ざっと私が勘定をしてみただけでも実に三十六回も訪問しているのである。つまり十日に一回ということになり、そのうちには「夜半許リニ退出ス」ということが二度もある。これでは式子内親王定家伝説なるものが生じ、謡曲『定家』などが出来て来ることも無理はないかもしれない。この内親王は定家より十歳ほど年上であり、定家には彼女の「穢ヲ忌マレズ」、「惣ジテ御祈無し」といった、陋習にこだわらない性格がいつも気になっていたようである。

四十歳代以後、人はかくの如くにして友人知己や愛した者を失って行くのである。定家の側において先に彼女を失ってはじめて伝説は成立する。式子内親王の歌を一首引用しておきたい。


ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな


源氏物語に象徴される一文化、あるいは文明の終焉を、この式子内親王の死に見ることもまた可能なのかもしれない。 」(堀田善衛『定家明月記私記』)。

「斎院うせさせ給にしまへのとし、百首の歌たてまつり給へりしに、「軒端の梅もわれをわするな」と侍しか。大炊殿の梅の、つぎのとしの春ここちよげに咲たりしに、ことし斗はとひとりごたれ侍りし。ひととせやよひの廿日ころに、御まりあそばさせ給ふとてにはかに御幸侍りしに、庭のはな跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうかうの香の華も匂ひに争ひたるさま、御持仏堂の香の香もをとらずにほひいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍き。ものふりたる軒に、忍わすれ草みどりふかくしげりて、あたらしくかざれるよりも中々にぞみえ侍し。御まりはじまりて人がちなる庭のけしきを、さこそはあれ、人かげのうちしてここかしこのたてじとみにたちわかれてのぞく人も見えず。人のするかとだにおぼえて、日のくるるほどにおくふかく鈴のこゑして、打ちならしたるかねのこゑも、心ほそくたうとかりき。いくほどのとし月もへだたらで、ぬしなきやどとみるぞかなしく、涙もとどまらずおぼゆる。

京極へあしたゆふべに参りかへれば、今は馬車よりをりなどすることもなくてすぎありき侍に、つい地のくづれより見いれはべれば、庭のよもぎは軒をあらそひ、一村すすきも所えてぞ見え侍。

ちかきほどなるに京極殿へ参りたれば、玉かがみとみがきたてらるれば、さもかはりたるものかなとおぼえ侍。」(『源家長日記』)

(『明月記』はこの年正月、二月を欠く)

1月28日

・九条兼実(48)、出家。

1月30日

・五十首を早く詠進するよう頻りに仰せあり、定家、家長に付して進上。二首題も詠進。


つづく



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