2023年4月17日月曜日

〈藤原定家の時代333〉正治2(1200)年4月1日~5月28日 北条時政従五位下遠江守 「其ノ名ヲ知ラザル童法師ノ会ニ詠ジ送ル歌、自由ニ番ヒテ結バルルノ条、見苦シキ」(『明月記』) 「「羽林念仏の名僧等を禁断せしめ給う。これ黒衣を悪ましめ給うが故と。」(『吾妻鏡』)  頼家、境相論に際し「所ノ広狭ハソノ身ノ運否ニ任スベシ」(『吾妻鏡』)と裁断    

 


〈藤原定家の時代332〉正治2(1200)年3月2日~29日 定家(39)心神殊に不快 病悩 終日病臥 子の為家、水痘に罹る 雨降って「荒屋漏湿、林宇ニ異ラズ。事二於テ貧乏、生涯憑ム所無シ」(『明月記』) より続く

正治2(1200)年

4月1日

・北条時政、従五位下、遠江守に叙任。

頼朝の生存中、国司に任命された者はすべて源家一門であったから、時政が国司に任命されたことは、かれが源家一門に準ずる立場を与えられたことを意味した。しかも、当時、五位以上が政所別当の有資格者であったのだから、従五位下に叙せられたことの意味も大きい。

4月6日

・定家が六条家の季経が判をする歌合せに参加しないとの書状を出したところ、「季経等ガ如キゑせ歌読ミ判ノ時、堪ヘ難キ」と書いてきたと季経は大いに怒り、これを聞いた良経もまた怒った。良経の妹・宜秋門院は切々定家に歌をだすよう良経に言う。しかし、定家は「其ノ名ヲ知ラザル童法師(わらはほふし)ノ会ニ詠ジ送ル歌、自由ニ番(つが)ヒテ結バルルノ条、見苦シキ」として受け付けない。「更ニ痛ムベカラザル事ナリ。」

「四月六日。天晴。知範来謁シ、語リテ云フ、季経卿大イニ怒りテ、訴へ申スコト有り。予、歌合ノ作者ヲ辞スル仮名ノ状、季経等ガ如キエセ歌読ミ判ノ時、堪へ難キ由、之ヲ書クト云々。此ノ事、力及バズ。皇太后宮、切々予ガ歌ヲ召シ出スベキ由、左大臣殿ニ申サル。仍テ其ノ責メアリ。歌合ノ交衆、堪へ難シ。結番、誰人ゾヤ。又近代ノ判者、軽々。更ニ其ノ事ニ交ハルベカラザル由、且ツ庭訓アルニ随フ。此ノ御辺ノ事ニ於テ、興ニ入ラザルノ条、恐レアルニ依り、是非ヲ顧ミズ之ヲ詠ズ。他所ノ事ニ於テハ、尤モ以テ堪へ難キノ上、猶然ルべキ人々ノ事、此ノ限リニアラズ。其ノ名ヲ知ラザル童法師ノ会ニ詠ジ送ル歌、自由ニ番(つが)ヒテ結バルルノ条、見苦シキ由、大臣殿ニ申シ入ルル所ナリ。其ノ状ヲ以テ旧後ニ献ゼラル。狂気ノ間、季経卿ノ許ニ遣ハサルルカ。更ニ痛ムベカラザル事ナリ。次第希有ナリ。実詮ガ弟子ノ童法師、歌合卜云々。病気ノ由ヲ称シテ、指シ出デズ。」

4月9日

・良経、病悩して籠居。

定家は、歌合のことにつき、「身命ヲ惜シマズ、忠節ヲ存ズルト雖モ、大小ノコト内外存ズルニ似ズ」とまた痛恨し、雨を凌いで歩き廻る。

4月10日

・大江広元、若狭保季の殺害人処分につき北条義時(38)の意見を求む

4月15日

・後鳥羽上皇、第3皇子守成親王を土御門天皇皇太弟に立てる。幕府には通知せず(幕府軽視が露骨になったくる)。

4月26日

・安達盛長(66)、没。

安達盛長(1135~1200):

安達氏一門の祖。源頼朝の伊豆の蛭が小島の配流時代からの側近。文治5年(1189)の奥州征伐や頼朝の2度の上洛にも従軍。頼朝没後、将軍・源頼家の下で13名の合議制の一員として幕政の中枢で活躍。梶原景時の弾劾にあたって子・景盛とともに弾該状に名を連ねる。現在の甘縄神社は安達氏の屋敷跡。

5月1日

・鶴岡臨時祭。流鏑馬の時、馬場で見物人同士の喧嘩。1人~2人が殺害された。

5月12日

・幕府、念仏宗を禁じる

伊勢の称念という念仏僧は、「およそ今の政治のなされ方は、仏法・世法が共に滅亡の時を迎えたというべきでしょう。」と抗議して逐電。

「羽林念仏の名僧等を禁断せしめ給う。これ黒衣を悪ましめ給うが故と。仍って今日件の僧等十四人を召し聚め、恩喚に応ずるの間、比企の彌四郎仰せを奉りこれを相具す。政所の橋辺に行き向かい、袈裟を剥ぎ取りこれを焼かる。見る者堵の如し。皆弾指せざると云うこと莫し。僧の中伊勢称念と云う者有り。御使いの前に進み申して云く、俗の束帯・僧の黒衣、各々同色を為し用い来たる所なり。何ぞこれを禁め給うべきや。凡そ當時御釐務の躰を案ずるに、佛法・世法眞に以て滅亡の期と謂うべし。称念の衣に於いては更に焼くべからずと。而るに彼の分の衣に至り、その火自ら消え焼けず。則ちこれを取り元の如く着し逐電すと。」 (「吾妻鏡」同日条)

5月25日

・北条義時(38)の妾、男子(有時)を出産

5月28日

・頼家、陸奥国葛岡郡新熊野社領の境相論に際し、提出された絵図中央に自ら筆で墨線を入れ、「所ノ広狭ハソノ身ノ運否ニ任スベシ」(「吾妻鏡」同日条)との裁断を下す。相論での所領の大小は、当人の運次第という、頼家の暴走ぶり。しかし、側近の僧侶大輔房源性を現地に派遣してる記事もある(正治2年12月3日)

これは供僧が坊領の境界争いをし、双方が証拠の文書を提出して、葛岡郡惣地頭である畠山重忠の裁決を申請していたが、重忠はその裁決を辞退し、新熊野社は葛岡郡内にあるとはいうものの、藤原秀衡が管領していた時代には、朝廷の祈禱をもつとめた名社であり、現在も、鎌倉幕府の御願寺となっているから、自分が専断することはできない、といって、問注所執事である三善善信を通じて、頼家の決裁を求めたもの。


つづく


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