大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑨
〈1100の証言;板橋区〉
板橋警察署
管内に流言の行われしは、9月2日の午後なりしが、就中鮮人暴行の蜚語最も盛んにして民心これが為に撹乱せられ、自警団の勃興を促すに及び、本署は鮮人に対して外出の中止を慫慂(しょうよう)し、以てその危険を予防せしも、民衆の感情は次第に興奮し、遂に鮮人の住宅を襲撃するに至りしかば、専ら保護・検束の手段を採り、是日10余名を本署に収容せり。かくて同3日に及び、千葉歩兵学校より派遣せられたる一部隊は管内警備の任に当る事となりたれば、相協力して自警団の取締に従い、かつ警視庁の指示に塞き、民衆の携帯せる戎・兇器の押収・領置に着手せしが、同4日署長自らを管内巡視の際自警団員はこれを途に要して訊問を試むる等、行動漸く常規を逸するものあり、更に翌5日に至りては流言・蜚語益々喧伝せられ、自衛団体のこれに対する警戒弥々(いよいよ)峻烈を加うるに及び同6日本署は陸軍中隊本部に交渉して兵員の派出を促し、署員と共に貨物自動車を駆りて、志村・赤塚・練馬・上板橋の各村を巡察してその非違を戒めたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;江戸川区〉
長倉康裕〔当時29歳〕
流言蜚語の問題 - 深川清澄庭園に避難中の事柄、2日目に立ち寄りし一在郷軍人の話によれば、小松川方面よりの途すがら鮮人十数人を殺傷してきたといいながら外被を開ければ、返り血を浴びて凄くそのときの無残な様子が思われた。
(「”鮮人”十数名を殺した在郷軍人」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
湊七良〔労働運動家〕
〔2日夜、平井駅で夜を明かしていると〕その夜半だ。俄かに半鐘が鳴る。火事かな、もう沢山だと思っていたら、津波だという声がある。津波ではない朝鮮人の襲撃だ、という。私のまわりには朝鮮服の男女が大勢いた。つづいて、ご丁寧にも東京襲撃しつつある朝鮮人は、横浜刑務所を脱獄して、社会主義者と合流し、東京を荒らしまわっているというわけで、かような想定の下に流言蜚語を流したわけだった。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』1963年7月号、労働旬報社)
小見川役場報
〔2日夜?〕市川橋上の避難者は陸続として殺到し見るも悲惨の極み、加うるに軍隊の戒厳物々しく騎馬の馳せ交いただならず、人々は鮮人の暴挙を叫びて喧喧囂囂(けんけんごうごう)たるの状態である。
されどこのままにては救済の途も覚束ないので、何とかして前進の策をとまず市川警察署で状況を尋ねたが、依然として不明なりとのこと、通信機関はと言えば電話も電信も不通だとのこと、止むを得ず更に軍隊の屯所で問合せると途中の危険は保証しかねるが、小松川ならば警備も稍々(やや)整っているからとのことに活路を得て直に出発して荒川放水路に停船した。
しかしここもまた向うの葦の中、この方の橋の上等死人夥しく鮮血は付近を染めて戦慄せざるを得なかった。
(『大正大震災の回顧と其の復興』千葉県罹災救護会、1933年)
高梨輝憲〔深川区猿江裏町30番地(現・猿江2丁目2番地)で被災〕
〔2日〕この日大鳥町から行徳まで来る間に、どこからともなく妙な噂が人びとの口から口へと伝えられた。それは朝鮮人暴動説である。その説によると、在日朝鮮人がこの大震災を好機とし、集団をもって日本の各所を襲撃しているというのである。昨夜、夜中に聞えたあの爆発音は、朝鮮人が爆弾を投じたものであると、まことしやかに伝えられた。しかし、人びとはこの話しに対し、それを否定する材料がないので、なるほどそうかなと、その話しを信ずる者もいた。私も実は半信半疑でこれを聞いた。
〔略〕その夜何時頃のことであったか、兎に角真夜中のことである。行徳町の人びとによって次のような情報が伝えられた。それは「今、朝鮮人が大勢、今井の橋まで押し寄せて来たので、在郷軍人が防戦のために出動して交戦中である」というのであった。折角ここまでのがれてきた人びとも、この情報には驚いた。しかし、在郷軍人が出動しているというのでそれほどの動揺もなく、案外落ちついていた。朝になってから、夜中の朝鮮人来襲説はまったく虚報であったということがわかった。
(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)
陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
①9月2日午後11時半頃、南行徳村下江戸川橋際で朝鮮人1名を射殺。
②9月4日午後4時頃、南行徳村下江戸川橋北詰で朝鮮人2名を射殺。
③9月4日午後5時頃、②と同所で朝鮮人5名を射殺。〔なお殺害者はすべて習志野騎兵一五連隊の兵士である〕
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)
〈1100の証言;大田区〉
御手洗辰雄〔評論家〕
〔2日夕方〕途中で池上街道に出てみると、陸軍の兵隊が逓伝連絡をやっているのにであった。一列に数十メートルおきに兵隊が並んで、川崎の方から送ってくる情報を、東京の方の兵隊にどなって伝えている。数分おき位に、「異常なーし、今、先頭はどこそこにおる」と次々にやっている。私が兵隊に一体諸君は何をしているんだときくと、戒厳司令部からの連絡兵だという。この情報が東京の司令部まで行くのでしょう。兵隊の一人に「朝鮮人の暴動説があるが、そのような情報があったか」ときくと、「今までそんな情報はない」と断言する。私も大いに安心した。その最前線は矢口ノ渡までいっているという。そこで「暴動説があるかたしかめてくれ」とたのむと、前の方の兵隊に「朝鮮人暴動はあるかー」と伝えてくれました。しばらく待つと「その事実なーし」とかえってきた。このときは軍隊という所は大したものだなと感心したのを憶えています。
そこへ行くと警察はいけません。知り合いの警察官なども、朝鮮人が襲ってくると青くなっている。誰からきいた情報かときいても同僚の警察官がみないっていると真相を確かめもせず、民間人と一緒になって右往左往しているだけです。
(「関東大震災が新聞記者に教えたこと」『諸君!』1973年10月号、文藝春秋)
石井光次郎〔政治家。当時『朝日新聞』勤務。宮城前に避難〕
〔2日夕方、大森の〕家に着くと、「朝鮮人が、六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」ということだった。〔略。朝日新聞社の〕下村〔海南〕さんの話を聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。
小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川に集まっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる。〔略〕そのうち、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。
私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが、何事もなく、ときどき、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。
(石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版、1976年)
森亀雄〔判事〕
〔2日、大森山王の森で〕午後5時頃各所の梵鐘一斉に鳴る、伝うらく、不逞鮮人の一隊主義者の一味を加えて約50名ばかり、手に爆弾、銃を携え線路伝いに横浜方面より来るため、只今在郷軍人の狩出し中なりと、その噂の間もなく、付近の避難場なる射的場に鮮人3名現われ婦人に向かいて発砲したりとて、山王の森の避難者は蜘蛛の子を散らすが如く走り出せり。
取り残されし余等の一家族、噂の真偽は判明せざれども、万一を懸念し逃げんとせしもその自由を得ず、漸く付近の住宅に頼み入れて家族をここに移す。かくして夜に入り、梵鐘は絶えず乱打され、銃声頻りに起る。
(「震災手記」横浜地方裁判所編『横浜地方裁判所震災略記』横浜地方裁判所、1935年)
警視庁「災害時下殺傷事犯調査表」
2日午後5時頃、池上村路上で、5人が不逞鮮人と誤信し3人を棍棒で傷害。2日午後6時頃、池上村路上で、一人が不逞鮮人と誤信し8人を棍棒で傷害。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
大森警察署
9月2日午後4時流言あり「鮮人数百名横浜方面より東京に向うの途上、神奈川県鶴見方面において暴行を極め、或は毒物を井戸に撒布し、或は放火掠奪を為せり」と。民衆これを聞きて激昂し、午後5時頃に至りて各戎器(じゆうき)を携えて本署に来り、互に協力して警戒に従わんことを説くもの少なからず。これにおいて署員を川崎警察署に派遣してこれを質し、更に遠く矢口・調布等に赴きて形勢を探らしめしが、遂にその事実を認めず。然れどもなお万一の変を慮り、警備隊2隊を編成して東海道及び六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕なる京浜電車鉄橋並に鉄道省線の各鉄橋その他矢口の渡しを守らしめたり。
この時にあたり民衆は堅く流言を信じて自衛の策を講ずると共に、鮮人に対して迫害を加え、又これを本署に同行するもの多く、同日の夜には既に80余名の収容者を見るに至りしが、翌3日に至りては流言更に甚しきものあるを以て、自衛団体・在郷軍人団、青年団等の幹部に対して軽挙を戒むる所ありしが、形勢は益々不穏にして池上村大字雪ケ谷の民衆と馬込村千束土木請負人等との間に争闘を開かんとしてわずかにこれを鎮撫せるあり。更に鮮人は、民衆の手に依りて本署に拉致せらるるもの頗る多く、重傷2名・軽傷18名の被害者を出したるのみならず、入新井町不入斗の一住民はその住所付近において鮮人と誤認せられて銃殺せられたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
つづく
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