大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑳
〈1100の証言;中央区〉
蛯原詠二〔当時『いはらき新聞』記者〕
「草の中へ首を突込み窒息を免れた恐ろしい一夜」 (京橋三十間堀本社在京記者姥原詠二氏遭難談)
〔2日、浜離宮で〕夕刻になると、大井町方面に集まった2〜3千人の鮮人が離宮の倉庫を目がけて襲来するという噂が伝わった。離宮を護っている近衛兵が喇叭で警戒信号をする、女、子供は悲鳴を挙げる、まるで戦場の騒ぎ。男達は兵士と一緒に門を護ることになったが、突然裏の濱手にときの声が上ったので、「それ鮮人だ!」と騒ぎ出したが、それは月島を追われ大川へ飛込んだ鮮人200〜300名の中の10名ばかり離宮の石垣へ這い上ったのを撃退した声とわかってようやく胸をなでおろした。それからは鮮人襲来の防禦に疲れ切り〔略〕。
(『いはらき新聞』1923年9月8日)
小笠原吉夫
「鮮人の爆破に月島忽ち全滅」
〔月島3号地の鉄管置場で〕翌朝〔2日朝〕に至って警視庁より「鮮人は爆弾を所持して工場その他を爆破し又井戸に毒薬を投じている。鮮人を見つけたならば直に捕縛せよ」との達しがあった。これで対岸の火災の原因もわかり又島内の爆音の正体も明になった訳だ。
〔略〕鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になってあった。
(『山形民報』1923年9月7日)
"〈1100の証言;中央区〉
高瀬よしお
当時私は東京の月島二号地に住んでいました。家は新築したばかりでつぶれませんでしたが、外の空き地に避難した私たちは、火災を逃れる群衆におされて三号地へ逃げました。
三号地の土管材料置場の小屋の中で一夜を迎えた翌日〔2日〕、水を求めて外へ出ると、5、6人の裸の男が針金でしばられて、周りに刀や鉄棒を持った作業衣の男数十人がこづきさながら歩いているのが見えました。やがて石炭の焼け残りの火のところにくると針金でしばられた男の両手足を持って火の中に投げ込みはじめました。私はびっくりして逃げ帰り、母に告げたことを覚えております。
同じ日、岸壁にいくと、これも針金でしばられた裸の男10人ぐらいが、次々と海に投げ込まれているのが見えました。
[当時一〇歳]
(『赤旗』1982年9月3日→姜徳相『関東大震災 - 虐殺の記憶』青丘文化社、2003年)
吉本三代治
翌朝〔2日朝〕から埋立地〔月島〕を中心に朝鮮人の暴動デマ騒ぎで目の当り斬り殺された姿を見て、むごい、と顔を覆ったのが当時旧制三中の中学3年生(両国高校)に在学の時だった。
(『抗はぬ朝鮮人に打ち落す鳶口の血に夕陽照りにき ー 九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六〇周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)
〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
内田良平〔政治活動家〕
2日午前11時頃〔略〕3名の日本大学生の服装をなしたる鮮人ありて〔略〕付近の避難民等はこれを捕えんとし追い駈けたるに招魂社裏門より社内に逃げ込みたるを2名はこれを撲殺し1名はこれを半殺しにしたる儘、取調の為め陸軍軍医学校に入れたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・秉洞縞『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
正力松太郎〔政治家、実業家。当時警視庁官房主事〕
次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。
大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして1日夜ごろから朝鮮人が不穏の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不逞鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。
折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。私は直ちに警戒打合せのために司令部に赴き参謀長寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。
その後、不逞鮮人は六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどの報告が大森警察署や品川驚察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。
(正力松太郎『正力松太郎 - 悪戦苦闘』日本図書センター、1999年)
野村秀雄〔当時『国民新聞』記者。二重橋前に遭難して「天幕編集局」を設置〕
2日の夜に荒木社会部員が飛んできて、「いま各所を鮮人が襲撃しているから、朝日新聞で触れ回ってくれと警視庁が言っている」と急報した。一同はこれを聞いて、「よしッ」とばかり小高運動部長ら5、6人と自動車に乗って全市の要所へ「鮮人が襲撃するから用心せよ」と触れ回ったものだ。この朝鮮人騒ぎというものは、実は、通信が途絶えたため警視庁にも正確な情報が集らず、あわてたものだ。流言の因は当時六郷の郊外電車の架橋工事に多数の朝鮮人工夫が働いていたが、震災にあって飯がないので付近の民家へ入って飯を食ったということが誤り伝えられたものらしい。また朝鮮人が井戸へ毒薬を入れたという風説もあったが、これはその2、3日前に牛乳配達だか新聞配達だかが、月末にお得意先の家に白ボクで○印を付けて歩いたのを地震になってからこれを見た人々が勘違いして朝鮮人の毒薬投入説をふり撒いたものらしかった。
(有竹修二『野村秀雄』野村秀雄伝記刊行会、1967年)
平島敏夫〔政治家、満鉄副総裁〕
面白い例がある。「時は9月2日の朝、場所は丸ビル正面、前日から餓に苦しんでいた避難民は丸ビル地階の明治屋を襲撃して窓ガラスを破壊して食料品を略奪せんとした。警備の憲兵が来てこれを制したが群集は聞かぬ。憲兵は剣を抜いて群衆を切りつけた」
これは直(すぐ)向うの東京駅ホテルの窓から見ていた人の実見談である。由々しき大問題としてかなり宣伝されかけていた。明治屋襲撃の群衆の一人であった人の実話はこうである。
「2日の朝、明治屋は表の避難民に同情してビスケットの数箱を提供した。群衆は先を争って集ったが箱が大きいのでなかなか開けられぬ。憲兵が剣を抜いて箱を開いてくれた。群集は明治屋の好意に感激し又憲兵の臨機の処置を賞賛した」
この2人の実見者は僅かに1町しか隔てていなかった。しかも事実の相違は百里や千里の問題ではない。怖ろしい事だ!
(「帝都震災遭難記(16)」『満州日日新聞』1923年10月4日)
松浦幾蔵〔当時正則英語学校学生〕
「竹槍を振って鮮人2名を刺殺 鮮人の暴動鎮圧に参加した学生の帰来談」
〔宮城前広場で〕警備団の組織された2日から僕もその団員の一人に加入し竹槍を握って鮮人2名を突き殺した。此奴は獰猛な奴で市中を暴回って来たものらしい。鮮人の暴動がないなどというのは全然嘘だ。現に僕の如きは竹槍党の一人として奮戦したのであるから決して間違いはない。
(『山形民報』1923年9月6日)
三宅敬一
私が9月2日午後丸内を通った時、某新聞社は盛んに鮮人襲来を宣伝していたが、これは警視庁から頼まれてやったものとのことである。
(『東亜之光』19巻1号(1924年1月新年特大号)、東亜協会)"
麹町日比谷警察署
9月2日の夕、鮮人暴行の流言始めて管内に伝わるや、人心の動揺甚しく、遂に自警団の組織となり、戎・兇器を携えて鮮人を迫害するもの挙げて数う可からず、本署は未だその真相を詳かにせざるが故に、敢て警戒と偵察とを怠らざりしといえとも、しかも種々なる現象より観察して真なりとの肯定を与うる能わざるの状況なるを以て、不取敢(とりあえず)民衆の軽挙妄動を戒むると共に、将に迫害を受けんとする鮮人60名を本署及び仮事務所に収容して保護を加えたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
「鮮人十数名を銃殺 いずれも爆弾の携帯者」
2日夜東京駅付近にて朝鮮人十数名警備隊の為銃殺せらる。鮮人は爆弾携帯者ならん。
(『北海タイムス』1923年9月5日)
つづく
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