大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺㉙
山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」(「大原社会問題研究所雑誌」668 2014.6)①
■「虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着」(「やまと新聞」1924.02.10)
関東大震災から約半年後の1924(大正13)年2月10日、震災時に朝鮮人を虐殺し海に放棄した遺体が、暴風により子安の海岸にたどり着いた。神奈川警察署は、これら虐殺遺体の処理を何もせずそのまま放置した。
この時、2月8、9日と暴風雨があり市電が止まるほどであったという。暴風による海流の動きから察すると、遺体は横浜港の方から流れてきたと考えられる。震災後、弾圧に屈せず調査した「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」の調査では、子安から横浜にかけて多くの朝鮮人が虐殺されているが、詳細までは明らかになっていない。神奈川鉄橋で500人、子安から神奈川停車場まで150人、新子安町で10人、神奈川警察署で3人、御殿町付近(神奈川警察署がある所)で40人、浅野造船所で48人の朝鮮人が虐殺されたと言われている。また、それ以外の地域でも虐殺証言はいくつもある。
その頃、遠い親戚にあたる海軍の軍人から、横浜が大変という話を聞いたことがあります。横須賀から横浜に来てみたら、あの辺の東京湾には殺された朝鮮人の死骸が沢山浮かんでいて、死骸の上を歩いて渡れるくらい多くの朝鮮人が殺されていたと言う話でした。
(大内力「埋火(うずめび)」)
■横浜での流言は9月1日に発生している
山手本町警察署管内で「午後7時頃鮮人200名襲来し、放火、強姦、井水に投毒の虞ありとの浮説壽警察署管内中村町及び根岸町相澤山方面より伝はるとて、部民の一部は武器を携帯し、警戒に着手し、該浮説は漸次山手町及根岸櫻道方面に進行伝播せり」(「大正大震火災誌」神奈川県警察部)とある。また、鶴見方面では浅野中学校から「三八式歩兵銃五十挺あり。九月一日朝鮮人襲来の噂ありし際、同地青年会員に氏名を控えて貸与せる」(「横浜市震災誌」)と、流言が伝わるとすぐ武器の調達にはしっている様子がうかがえる。
■警官が自警団を組織(横浜、高島山)
9月2日(避難地 高嶋山デノ体験)
(略)コノ日午後吾々ガ陣取ッテイル草原ヘ巡査ガ駈ッテ来テ皆サン一寸御注意ヲ申マス、今夜此方面ヘ不逞鮮人ガ三百名襲来スルコトニナッテ居ルサウデアル 又根岸刑務所ノ囚人一千余名ヲ開倣シタコレ等ガ社會主義者ト結託シテ放火強奪強姦井水ニ投毒等ヲスル。(略)十六歳以上六十歳以下ノ男子ハ武装シテ警戒ヲシテ下サイ。
(略)午後四時過ギ向フノ山上デ喚声ガ起ッタ 一同ガ振リ向ヒテ見ルト白服ヲ着タ者ガ幾十人カ抜剣シテ澤山ナ人ヲ追カケテヰル 基ヲ見タ者ハ異口同音ニ不逞鮮人襲来ダ白服ノハ日本ノ青年団ダト騒グ(略)各町ノ青年団衛生組合ノ人々ガ腕ニ赤布ヲ巻キ向フ鉢巻腰ニ傳家ノ寶刀ヲ佩ビ或ハ竹槍ピストル猟銃其他鉄ノ棒ナド持ッテ避難地草原ヘ集合シタ。(略)
夜ノ十時過頃カラ各方面デ銃声ト喚声ガ聞ヘ始メ提灯ノ火ガ幾ツトナク野原ヲ飛ンデヰル。折々武装シタ青年ノ傳令ガ駈ッテ来テ「御注意ヲ願ヒマス只今怪シイモノガ数十名此方面ヘ這入ッタ形跡ガアリマス」等ト入替リ立替リ報告シテ来ル。
此夜鮮人十七八名反町遊郭ノ裏デ惨殺サレタ。
(八木熊次郎「関東大震災日記」横浜開港資料館保管)
同じ所に避難していた者の証言に、「鮮人と見たら皆打殺せと極端なる達しあり依て鮮人と邦人と間違ひなぐり合等にて混雑せり」(「黒河内巌日記」横浜開港資料館所蔵)とある。
上の証言にある「遊廓ノ裏デ惨殺サレタ」朝鮮人は、ここに追い込まれたのであろう。ここは、後ろが高い崖なので追い詰められたら逃げ場がない。この近辺には、朝鮮人、中国人が川沿いや鉄道沿いに住んでいた。この地域に県工業高校があり、60余人が寮生活をしていた。その寮生達は、「不逞鮮人襲来の報一度伝はるや直ちに武装して徹宵校舎内外の警備に寝食を忘れて尽くした」(高橋暢・神奈川県立工業高校校長「震災記念号」)。
■海軍陸戦隊の上陸。「不逞鮮人」は「パルチザン」と
2日23時30分頃、海軍陸戦隊が横須賀から八幡橋に上陸、各警察署と共に市内を偵察
(横須賀鎮守府司令長官野間口兼雄から海軍大臣財部彪への報告、3日)
陸戦隊報告
午後11時半磯子根岸間ノ八幡橋ニ上陸ス
代表者ノ談ニヨレハ市民ノ大部分ハ根岸及磯子付近ニ避難セル由2,300名ノ不逞鮮人附近ノ山地ニ潜伏時々部落ニ出入被害甚シ市民ハ之ヲパルチザント称シ恐怖甚シキ模様ナリ依ツテ本隊ハ先ツ市民に安心セシムル必要ヲ認メ避難民ノ多キ地方及被害大ナル地方ヲ喇叭ヲ吹キツツ行軍ス市民歓呼シテ喜ブヲ見レハ余程不安ニ襲ハレ居リシモノト認ム避難民ノ数5,6万人官憲ノ保護トシテ巡査2,3名ニ過キス主トシテ在郷軍人青年団等警戒ニ任ス 尚流言ニ依レハ程ヶ谷附近ニ於テ悪化セル鉄道工夫鮮人二百名ハ在郷軍人ニ追ハレテ磯子方面ニ潜伏スト又噂ニヨレハ不逞鮮人本部ハ東神奈川ニ在ルモノノ如ク 時々2,300名一隊ヲナシテ襲フト」
①「不逞鮮人」を「パルチザン」と市民は呼んでいると言うが、市民の他の証言には「パルチザン」という語は出てこない。「パルチザン」というのは尼港事件からの連想による軍人の発想だったろう。
②不逞鮮人本部が東神奈川に在ると言われている。この地域に多数の朝鮮人が住んでいたことからの発想であろう。
東神奈川では大規模な虐殺があったと言われているが分からないことが多い。
■東神奈川、浅野造船所の虐殺
「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」の調査では48名,新聞報道では50余名又は80名となっている。浅野造船所がある橋本町付近で埋立て作業をしていた朝鮮人は100余名。
責任者斎藤新次の証言(「横浜市震災誌」)
その次の日の出來事でした。(9月2日です)何せあの大袈沙な朝鮮人騒ぎ,「そんな馬鹿な」とは思ひ乍も,矢張り尠からず恐怖に襲はれて居りました。放火・強盗・毒薬・追ふ人・追はれる人,正に劒戟の巷です。ふと自分達の使つて居た忠實な鮮人達に思ひ及んだ私は,或る不吉な豫想に,思はずぞつとしてしまひました。
「何」つていふ目的ではなかつた様です。慌しく行き交ふ人々の間を,山の内町へと出かけた私は,豫め豫期した恐ろしい幾多の事件に打つ突かりました。恐る可き人間の殘忍性,それは遂に尼港の露助も此處のこのジャップも共通でした。
雑夫一夜に全滅 掠奪を恣にした 神奈川警察署の管内
地震火災で横濱では神奈川警察署だけが唯一つ辛うじて焼け残ったが其の管内の混雑は悲絶を極め二日朝から伝へられた流言で自警団の不統一は言語に絶し日中は横濱倉庫や各商店の掠奪を恣にし,夜は通行の労働者等を惨殺し2,3,4,の三日間に50余名を惨殺し死体は鉄道線路並に其の付近に遺棄されてあった,殊に神奈川方面の某会社の雑役夫80余名の如きは殆んど一夜に全滅するの惨状を呈した。
(「大阪朝日新聞」1923.10.18、「山陽新聞」1923.10.19)
一夜で80余名神奈川で殺さる 鶴見では警察襲い33名負傷さす
…神奈川の某会社の○○○○80余名は無残一夜で全滅した。
(読売新聞1923.10.21)
横濱浅野埋立地で五十余名殺害
…団体的に殺されたのは浅野埋立地の五十余名である。
(福岡日日新聞1923.10.22)
■神奈川鉄橋の虐殺証言(500人虐殺)は殆ど見つかっていない。
「横浜市史」には「鉄道橋における500人の殺害は軍隊が配置されていた拠点であり,組織的殺害をうかがわせる」(「横浜市史」関東大震災と復興事業)と書かれている。
新子安から神奈川停車場まで150人というのは幾つかの証言がある。虐殺遺体を線路に放置したとか、子安を過ぎて生麦だが「路傍に惨殺された死体五六を見た。余り残酷なる殺害方法なので筆にするのも嫌だ。」(長岡熊雄「横浜地方裁判所震災略記」)と。
横浜市内の残虐は別項の通りだが更に子安の自警団員の多くは日本刀を帯びて自動車を走らせ「○○○○○○○○○○」と触れ回った,生麦までこれが傳はり二日から四日まで50余の鮮人は死体となって鉄道線路に遺棄された,これを手初めに或ひは火中に投げ込まれたのも多数で,…
(読売新聞1923.10.21)
いたる所でこれらの自警団に殺された不逞の徒の話を聞いた。軍隊や警察に捕らえられた者も多かった。横浜の帰りに子安付近で軍用電話を切断せんとして捕らえられた2人の不逞の徒が殺気立った群衆の手で手足を縛られた上,燃え盛る石炭の中に生きながら葬られたのを見た。
(桑名三重彦「九月一日・この日を思え」)
滝の川が東海道を横切るあたりでは,不審訊問にかかった朝鮮の人々が後手に縛られ,頸に縄をつけられ放り出されて,橋(二つ谷橋)の欄干に宙づりにされていたそうだ。虐殺されたのは20人位だそうだ。…
(兄が三田の慶応からの帰り目撃した。角田三郎談)
大正12年9月の関東大震災,そのとき私は横浜の旧制中学1年生だった。父は済生会病院に勤めていた医師で,私には母と東京女高師に通う姉がいた。兄と弟は病死していたが私はあの大震災で肉親のすべてを喪った。
東神奈川の自宅から父の病院まで父をさがしに行く途中,がれきのなかからはい上り,横たわったまま私の足をつかんで水をくれという青年がいた。私は,水をお碗に入れて彼に飲ませた。すると,その青年は,私は上海から来ている留学生のワン…とか言った。王さんという名前はそのときにはっきりと聞こえた。
そのとき,私は後ろからいきなり頭を棒で2~3回殴られた。そして,おまえはなぜ中国人を助けるのか,と5~6人の若者に取り囲まれた。私の目の前で,その青年を棒で殴りつけた。それだけではない。職工さんのもっている道具でその青年の腹を…。人間とは思えない光景を見た。
(保阪正康月刊「現代」周恩来の「遺訓」詳しくは「風来記」『わが昭和史1』)」
■横浜駅の虐殺証言
駅に着く駅の右方がガードを越えし處にて黒山の如き群集あり 何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり 頭部と言はず,滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず,殺気満々たる気分の中にありて おそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひおもひ返して神奈川へいそぐ,…
(福鎌恒子「横浜地方裁判所震災略記」)
つづく
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