2023年9月16日土曜日

〈100年前の世界065〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑰ 〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近、本所被服廠跡辺〉 「殺されたのは朝鮮人ばかりではなく、奄美・琉球・鹿児島の人もいた。自分も捕まった。〔寺島〕警察署の前、寄席の原っぱに切られた死体がゴロゴロしていた〔玉ノ井から日本刀をもった人がきた〕。蓮華寺に葬ったという話を聞いたこともある。軍隊は9月2日あたりから来て、国府台野戦重砲に朝鮮人を連れていった。連れていかれたのはまだいい方だった。」

 


〈100年前の世界064〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑯ 〈雨宮ケ原の虐殺〉 〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近、鐘ヶ淵周辺、白鬚橋付近〉「夕刻に到り鮮人来襲暴動の噂あり、猶海嘯(つなみ)起りたりとの声あり。次で夜八時頃には原公園付近にて警官の鮮人を多数殺傷すを見受けたり」 「とにかく震災時には、朝鮮人が数多く殺されたが、それに劣らず、狂乱状態に陥った自警団や与太者に日本人も殺されたことは記憶しておかなくてはならない。」(「ガギグゲゴをいってみろ!」) より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑰

〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉

殺されたのは朝鮮人ばかりではなく、奄美・琉球・鹿児島の人もいた。自分も捕まった。〔寺島〕警察署の前、寄席の原っぱに切られた死体がゴロゴロしていた〔玉ノ井から日本刀をもった人がきた〕。蓮華寺に葬ったという話を聞いたこともある。軍隊は9月2日あたりから来て、国府台野戦重砲に朝鮮人を連れていった。連れていかれたのはまだいい方だった。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)


朝鮮人を救う

遠藤慶吉〔当時東向島4丁目20番地(向島百花園裏)在住。業平製油勤務〕

(略)その2日の午後3時頃、小倉邸〔遠藤氏の自宅より50メートル先〕に隣の町の自警団が押しかけてきて、もめているというので、早速駈けつけました。町内では私が一番先きにかけつけた。行って見ると、手に手に棍棒や竹槍、さては日本刀まで持った50〜60人が小倉さんをかこんで、怒鳴ったりわめいたりしている。なかには抜き身の日本刀をもったものもいる。たすきをかけたり、はちまきをしたり、さまざまないでたちをした連中が、朝鮮人をここへ出せ、と要求している。金さんという朝鮮人を引渡せ、と言うのです。この町内の人たちではなく、玉の井や墨田あたりからやってきた連中でした。

小倉さんは一人で対応して頑張っておられた。具体的な言葉は忘れましたが、 - 「うちにいる朝鮮人は、そんな悪いことをする人間では、絶対にない。それは私が保証する。私が責任をもつから、どうか、お引き取り願いたい」 - というようなことを、繰返し話しておられたが、押しかけてきた連中はなかなか承知せず、殺気立った空気でした。

私も小倉さんに加勢して、こちらの金さんという朝鮮人は、この町内でも可愛がられている人間だから、絶対に大丈夫だ、となんとか説得しょうとしたが、どうしても承知しない。なかには日本刀をふりまわしたり、竹槍をしごいてみせたりするものもいる。小倉さんも私も困っていると、町内の人たち、鳶職や庭師や植木職などが十数人、応援にかけつけてきた。これら町内の人たちも小倉さんに味方して、われわれも保証するからと頼んでくれた。結局、小倉さんの言うことを信用するか、というようなことになり、その代わり、なにかあったら責任をとってもらうぜ、ということで、連中は引揚げて行きました。

(奥田英雄『小倉常吉伝』小倉常吉伝刊行会、1977年)


曺仁承

〔1日夜、荒川土手四ツ木橋上で自警団に捕えられ、2日朝に寺島腎察署へ連行された〕寺島驚察署までくると、門の両側には日本刀を抜いた巡査が、ものものしく立っていた。彼らの白い制服も同胞の血で染まっていた。警察の門脇には、血走った数百名の消防団がたむろしていて手に持った鳶口や日本刀をふりかざして、私達を殺そうととびかかって来た。だがさすがに巡査等はそれをとめさせ、私達は署の中に入る事ができた。

〔略〕 この日〔2日〕この警察署に連行された朝鮮人の数は360人余であったが、その内には負傷者が大変多く、そのまま放っておけば生命にかかわる者もいた。

〔略〕しばらく眠ったであろうか、耳のあたりをひどくけられて、ちぎれるような病さに思わず目を覚ましたが、いつのまにかあれほど多勢の人々が一人も見えなくなっていた。実は私が眠っている間にも、地震が続きあちこちで窓ガラスがこわれたり、ひどい騒ぎ声がワーワーと庭の中に聞こえてきたので、同胞たちは又殺しにくるのだという恐怖感で、いっせいに逃げ出したのである。

私もこのままおとなしく殺されてなるものかという気特で、無我夢中外にとび出そうと警察の塀にとび乗った。すると、外には自警団の奴らが私を見つけて喚声を上げてとびかかって来た。私はそのまま警察の庭の方に落ちて助かった。私は外に出ることも出来ず、そのままそばの杉の木に登りかじりつくようにしていた。

30分程して、私はそつと杉の木を降り、庭の中の方へ行ってみた。するとその時私の目の中に入った光景は、巡査が刀を抜いて、同胞たちの身体を足で踏みつけたまま突き刺し無残にも虐殺しているのであった。只、驚祭の命令に従わず、逃げ出したからという事だけで、この時8人もの人が殺され、多数の人々が傷ついた。

(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)


寺島警察署

9月2日午後5時「不逞鮮人等四ツ木橋付近に集合し、放火その他の暴行を為さんとす」との報告あり、ただちに署員を派遣したるに避難せる鮮人160人を発見せしかばこれを検束して保護を加えしも、民心の動揺甚しく、鮮人にして自警団の為に本署に同行せらるるもの同3日既に236名に上れり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


本所向島署

9月2日の夕に至り、鮮人が変災に乗じて放火・掠奪・強姦等の暴行を逞(たくまし)くせりとの流言始めて管内に伝わり、自警団の組織を促せしが、翌3日益々拡大して午前零時には「飲料水中に毒を撒布せり」と云い「請地町の油問屋硲文七の倉庫に放火の計画あり」と称せるのみならず、午前3時に至りては「避難者の収容所たる大川邸を襲えり」「既に寺島署管内大畑方面を掠めて漸次吾妻請地方面より本署の管内へ襲来の途にあり」と伝え、人心兢々として其堵に安んぜず、而も万一の変を慮り、署長は署員を率いて現場に急馳せしに、徒らに群集の喧躁せるを見るのみにして何事もなかりき。同日正午頃に「海嘯将に来らんとす」の流言ありて、人心は倍々動揺したるもその無根なるを喧伝して鎮撫に努め、幸にしてこれを安定せしむるを得しが、鮮人襲来の流言は民衆を刺戟して彼等に対する迫害は至る所に演ぜられ、これが為に同胞の奇禍に罹れるものまた少なからず、鮮人と誤解せられたる護謨風船行商人某が請地町自警団員の包囲暴行を受け、同所巡査派出所詰巡査の救護に依りて漸く免れしが如きはその一例なり。かくて本署は各種の報告と実地の踏査とに依り、鮮人に関する流言が全く訛伝に過ぎざる事を認めたれば、民衆に対してその信ずるに足らざるを戒諭すると共に管内の有力者と議り、自警団の取締と指導とに鋭意する所ありしにより、9月中旬に至りて流言漸く其跡を絶ち、人心また平静に帰せり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


『報知新聞』(1923年10月4日)

「寺島署を襲った一団も検挙された」

暴行の最も猛烈であったのは寺島方面で、多数の被害者を出したばかりでなく、同地在郷軍人分会幹部岡田某中村米蔵外数十名の自警団が、去月2日夜の混乱最中に各自兇器を携えて寺島署を襲い、同署勤務の某警部補が○○である事を知り隠匿してあるだろうといって菅野署長以下に暴行を加えた事実があり〔略〕。

〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉

堀晴雄

私の父(堀紫朗、震災当時30歳)は、震災の翌日から数日間、東京市内の被害状況を見て回ったそうで、その様子を私が小・中学校の頃に色々と話してくれました。話の中に朝鮮人虐殺がありました。その話の内容を以下に報告いたします。父が実際に見た状況です。正確性を重視して、文章でなく箇条書きと致しました。

時:震災直後

場所:本所被服廠近傍

加害者:日本人の、自警団員を含めたグループ

犠牲者:朝鮮人男子(人数不詳)

虐殺方法:荒縄で犠牲者の右手首、左手首をそれぞれ縛り、2人の男が荒縄を左右に引っ張り、一人の男が犠牲者を数回刺して虐殺した。 以上。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第79号、1997年)


つづく


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