2023年9月6日水曜日

〈100年前の世界055〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑦ 2日夜〈間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事〉 2日夜 千歳烏山 「椎木は誰のために」(『九月、東京の路上で』より)  

 

千田是也

〈100年前の世界054〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑥ 殺害された朝鮮人の数、吉野作造、布施辰治 戒厳令施行(軍隊・警察・民衆から朝鮮人を殺害することへのためらいが払拭される) 第2次山本権兵衛内閣成立 東京衛戍司令官森岡守成中将「万一、此ノ災害ニ乗ジ、非行ヲ敢テシ、治安秩序ヲ紊ルガ如キモノアルトキハ、之ヲ制止シ、若シ之ニ応ゼザルモノアルトキハ、警告ヲ与ユタル後、兵器ヲ用ウルコトヲ得」と、訓令 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑦

2日夜〈間違えられた日本人 「千田是也」を生んだ出来事〉(『九月、東京の路上で』より)

2日夜、演劇青年伊藤国夫(19歳)は、軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にした。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いないと、彼は二階の長持の底から先祖伝来の短刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、隣家の人とともに家の前で杖を握って「警備」についた。

だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やし、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登ってみると、闇の奥から「鮮人だ、鮮人だ」という叫び声が聞こえてきた。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくる。彼は、挟み撃ちにしてやろうと、提灯の方向にまっしぐらに走り出した。


「そっちへ走って行くと、いきなり腰のあたりをガーンとやられた。あわてて向きなおると、雲つくばかりの大男がステッキをふりかざして「イタア、イタア」と叫んでいる。

登山杖をかまえて後ずさりしまがら「ちがうよ!・・・ちがいますったら!」といくら弁解しても相手は聞こうともせず、ステッキをめったやたらに振りまわしをがら「センジンダア、センジンダア!」とわめきつづける。

そのうち提灯たちが集まって来て、ぐるりと私たちを取りまいた。見ると、わめいている大男は、千駄ヶ谷駅前に住む白系ロシア人(ロシア革命時に日本に亡命してきたロシア人)の羅紗売りだった。そっちは朝鮮人でないことは一目でわかるのだが、私の方はそうは行かない。その証拠に、棍棒だの木剣だの竹槍だの薪割だのをもった、これも日本人だか朝鮮人だか見分けのつきにくい連中が、「畜生、白状しろ」「ふてえ野郎だ、国籍をいえ」「うそをぬかすと、叩き殺すぞ」と私をこづきまわすのである。「いえ、日本人です。そのすぐ先に住んでいるイトウ・クニオです。この通り早稲田の学生です」と学生証を見せても一向ききいれない。そして薪割りを私の頭の上に振りかざしまがら「アイウエオ」をいってみろだの、「教育勅語」を暗誦しろだのという。まあ、この二つはどうヤら及第したが歴代の天皇の名をいえというにはよわった。」


この直後、自警団のなかにいた近所の人が彼に気づき、伊藤は怪我もせずにすんだ。彼は後に、この日の出来事にちなんで「千田是也」という芸名を名乗るようになる。千駄ヶ谷のコリアンという意味である。千田是也はその後、俳優座を立ち上げるなどど、演出家、俳優として成功し、90歳で亡くなった。

当時、朝鮮人に間違えられて殺された日本人や中国人は数多くいる。

司法省の報告では、朝鮮人に間違えられて殺された日本人は58人だが、これは犯人が逮捕され、司法手続きの対象となっているものを数えただけそもの。実際にはもっと多くの人が殺されているだろう。

日本人殺害事件で最も有名なのは千葉県で起きた福田村事件である。香川県から薬の行商にやってきた親族集団が、朝鮮人と間違われて襲撃を受け、鳶口や棍棒で刺されたり殴られたりしたあげく、8人が利根川に投げ込まれて溺死させられ、逃げた1人が斬り殺された事件である。1923年11月29日付の東京日日新開は「被害者、売薬商人の妻が渡船場の水中に逃げのび乳まで水の達する所で赤児をだきあげ『助けてくれ』と悲鳴をあげていた」と報じている。

浦安では「日本語がうまくしゃべれず殺された」沖縄県人がいたという証言もある。

もうひとつ、千田是也のエピソードで見落としてはならないのは、彼はそもそも短刀や杖を武器に、倒すべき「不逞鮮人」を求めて走っていったということだ。たまたまぶつかったのがロシア人であったために(そし知人が居合わせた)笑い話に終わったが、ぶつかったのが本物の朝鮮人だったらどうなっただろうか。千田は語る。

「あるいは私も加害者になっていたかも知れない。その自戒をこめて、センダ・コレヤ。つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである」

2日夜 千歳烏山

「椎木は誰のために」(『九月、東京の路上で』より)

鳥山の惨行(「東京日日新聞」1923年10月21日付)

9月2日午後8時頃、北多摩都千歳村宇鳥山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビロ、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。

この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具をどとともに内地人(日本人)1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それにおもむく途中であった。

朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともをく雪崩れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。

時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)

加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。


朝鮮人労働者たちは、京王電鉄笹塚車庫の修理のために向かっている途中だった。命を落としたのは洪其白、35歳。ほかに3人が病院に送られた。

震災後、旧甲州街道では都心から脱出して西へ向かう避難民の列がえんえんと続いていた。力尽きて路上に倒れる人もいたという。そうしたなか、夜ふけの道を反対に都心へと走るトラックを見たとき、自警団の人々はさぞ怪しいと決めつけたに違いない。

10月に入り、各地で自警団による朝鮮人殺害事件が立件されると、鳥山村にも検事が入り、50人以上が取調べを受ける。12人(13人という資料もある)が殺人罪で起訴される。なかには大学で英語学を教える教授もいた。

世田谷区発行『世田谷、町村のおいたち』(1982刊行)の中で、

近所(粕谷)に住んでいた徳富蘆花(1868~1927)の随筆『みみずのたはこと』が事件に言及していることを紹介し、

「今も烏山神社(南鳥山2丁目)に13本の椎の木が粛然とたっていますが、これは殺された朝鮮の人13人の霊をとむらって地元の人びとが植えたものです」

と記している。

荒川河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」が纏めた資料集にある烏山事件を報道した東京日日新聞の府下版の記事には、烏山事件の全被害者名が列挙されており、死者は洪其白1人となっている

殺人罪で起訴された被告に同情する椎の木という事実

1987年発行『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』によると、

「このとき(12人が起訴されたとき)千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。十歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがが大きく作用したことは厳粛な事実だ」

椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、被告の苦労をねぎらうために植えられた可能性が濃厚である。

この文章には、殺された朝鮮人への同情の言葉も盛り込まれてはいるが、それ以上に殺人罪で起訴された被害たちの「ご苦労」への同情が強調されている。


つづく





〈参考〉

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