大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑬
〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉
『読売新聞』(1923年10月17日)
「五反田の自警団9名収監さる ○○外2名を半殺にし」
大崎町字五反田自警団消防小頭高山虎吉、森田元吉外7名が9月2日の夜同町多数の自警団と自警中半鐘を乱打し、横浜方面から〇〇2千名来襲の旨を宣伝したので通り掛った○○を乱打人事不省に陥らしめ、更に日本人2名を殴打人事不省に陥らしめた事件は〔略〕16日早暁前記9名を殺人未遂罪として起訴し続いて池田予審判事の令状で市ヶ谷刑務所に収監した。
〈1100の証言;渋谷区〉
岩崎之隆〔当時麹町区富士見小学校6年生〕
〔1日夕〕その内に誰言うともなく、○○人が暴動を起こしたとの噂がぱっとたち、それで無くてさえびくびくしている人達は皆ふるえあがって、そして万一を気づかって多勢の人が竹槍を持ったり、鉄棒を握ったり、すごいのになると出刃包丁を逆手に持って警戒をし始めた。而して〇〇人だと見るとよってたかってひどいめにあわせる。前の通りでも数人ひどいめにあわされたと言うことである。その暮れのものすごい有様は、今でも思いだすとぞっとする。
〔略〕裏の門田の叔母さんが、今夜の11時頃と、明朝の3時に又大地震があるから気を附けなさい、と交番に警告してあったと告げて下すった。〔略〕1時頃になると代々木の原の側の半鐘が急にヂャンヂャンヂャンヂャンヂャンと激しく鳴り出した。〔略〕そして話を聞けば今すり番をならしたのは、〇〇人が代々木に再び入った為、非常召集をやったのだそうだ。
〔略。2日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に「かねてから日本に不安を抱く不逞〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなことを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押し寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう怖くて怖くて生きた心地もなく、近所の人と一つ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意していた。
午前10時とおぼしい頃、坂下の魚屋や八百屋の小僧等が、わいわい騒ぎながら僕の家の前へ入っていった。何事かとこわごわ聞いて見ると、「前の家に〇〇人が入ったようだというので皆で探しに来たのだ」と言う。どうか早く捕まってくれればいいとびくびくしながらも、こわいもの見たさに門の所に出て見ていた。その中に段々人も大勢きて前の家を包囲しながら中を探し出した。けれどもそれは何かの間違いだったのだろう。幾らさがしても出ないので、皆はどんどん帰ってしまった。それで僕はほっとした。
余震は中々ひどく揺すってまだまだ安心出来ない。東の空を見ても火事はまだ消えないと見えて真赤である。その中に町内の若い人達が来て「今度は〇人が井戸に毒を入れ、又爆弾を投げるから用心して下さい」と警告してくれた。皆は又々震え上ってしまった。時々グワウガラガラ・・・と耳をつんざくばかりの音が聞こえる。皆あれは〇人が爆弾を投げた音だとか、或は火事と地震で物の崩れる音だとかいろいろ噂し合っていた。
(東京市学務課「東京市立尋常小学校児童震災記念文集」1924年→『新版・千代田区史・通史資料編』千代田区、1998年)
大岡昇平〔作家〕
〔中渋谷716番地で2日〕午(ひる)すぎ、横浜の朝鮮人が群をなして、東京へ上って来るという流言が伝わって来た。二子玉川まで来ているということだった。
縁側に坐っていると、騎馬の兵隊が家の前の坂をギャロップで降りて行った。小石が蹄ではじき飛ばされ、板塀に当って、パチといった。駒場の奥の近衛騎兵連隊からどこかへ伝令が行ったのだろう。あご紐をかけた兵隊の頭が、塀の上に見えたので、私はパチという音のもとが小石であることを知っていたのだが、茶の間へ行ってみると、誰もいない。母も姉も弟たちも、鉄砲の音と早合点して、裏庭の隅の納屋にかくれていたのだった。
〔略〕まもなく朝鮮人が三軒茶屋まで来たといううわさが入った。それから弘法湯まで来たということになるまでに、5分とかからなかった。ラジオもない頃で、情報がどうして入ったのか、覚えはない。誰かそんなことを表を怒鳴って歩く人がいたような気がする。もう少し北の富ヶ谷の方では騎兵が乗り廻して、朝鮮人が来るから警戒せよ、とふれ廻っていたという。〔略〕女たちと弟は毛布を持って、鍋島侯爵の庭へ避難した。その晩から自警団が結成された。
(大岡昇平『少年 -ある自伝の試み』筑摩書房、1975年)
金子洋文〔作家、政治家。代々木神宮裏の長屋で被災、原っぱに避難〕
翌日〔2日〕から朝鮮人の暴動の宣伝が始まり、代々木の原っぱをよぎって襲来する、住民は神官裏の山内子爵邸に避難せよと、大声でふれて疾走する。しかし私はこの宣伝を信用しなかった。なぜなら、両隣の左方には朝鮮人の土木建者が住んでいるし、右方には朝鮮人の留学生が5、6人住んでいたが、これらの人々はヒソとして音もたてないで日本人の蛮行をおそれて、ひそんでいる。
(『月刊社会党』1983年9月号、日本社会党中央本部機関紙局)
神近市子〔婦人運動家。渋谷豊沢で被災〕
〔2日午後、流言が伝わると〕私どもは半信半疑で、たがいに顔を見合わせた。否定も肯定もできなかった。ありえないことにも思えるし、植民地化された国の人たちが、日本での境遇に不満があることは当然のようにも思われた。夕方になると、町をあげての避難さわざだった。昨日は余震を考えての避難だったが、今日は万一のことがあれば、家が焼き払われるか、屋内が荒らされると考えなければならなかった。〔略。荒地へ避難して〕提案した人の発議で、男子は夜間は交代でその一画を見回るということになり、夫と2人の青年も交代でその任務についた。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)
河合良成〔政治家。当時東京株式取引所勤務。渋谷神山町在住〕
〔2日〕参謀本部では高級肩章をつけた軍人が、部下に指令を与えていた。すでに朝鮮人暴動の話が出ており、その対策を指示していたのである。
〔略〕2日夜、人々は朝鮮人暴動の噂を聞いて、戦々兢々としていた。そのときは誰も嘘とは思わず、真剣そのものだった。私の宅の付近に回ってきた騎馬巡査に聞くと、朝鮮人は唯今渋谷の先の三角橋まで押し寄せてきているという。朝鮮人が井戸に毒を投げ込むというので、その警戒もした。近隣の人々が逃げ出すので、私も代々木の原へ逃げた。が、夜の1時、2時になっても暴動来襲の気配がないので、また家へ帰った。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)
渋谷警察署
9月1日午後4時に至りて説を為すものあり、曰く「管内に接近せる芝区三田三光町衛生材料廠の火災は将にこれと相隣れる陸軍火薬庫に及ばんとす、火薬庫にして若し爆発せむかその一方里は惨害を被るべきを以て速に避難せざるべからず」と。宮澤署長はこれを聞くと共に署員をして偵察せしめ全くその憂なきを確めたれば民衆に諭して漸くその意を安んぜしむを得たりしに、翌2日午後4時頃「鮮人約2千余名、世田谷管内に於て暴行を為し、今や将に管内に来らんとす」との流言あり。これに於て各所に自警団体の組織を見るに至りし為、署長即ち署員を玉川方面に急派せしが、その途上駒沢村新井付近に於て鮮人20名が自警団の為に迫害に遭わんとするを見て直に救助し、一旦本署に護送せる後、更に進みて神奈川県高津村に赴きたれども、事実の補足すべきものなし。然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑わず、遂に良民を鮮人と誤解して世田谷付近に於て銃殺するの惨劇を演ずるに至り、騒擾漸く甚しく、流言また次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云い、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投せり」とてこれを告訴するものありたれども、就きてこれを検するに又事実にあらず、更に同日の夜に及びては或は「鮮人が暴行を為すの符牒なり」とて種々の暗号を記したる紙片を提出し、或は元広尾付近にその符牒を記せるを見たりとて事実を立証するものあり、人心これが為に益々動揺して殆んど底止する所を知らず、自警団の警戒また激越となり戎・兇器を携えて所在を徘徊し、且縄張を設けて通行人を誰何せるのみならず、挙動不審と認めらるるものは直に迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。
〔略〕同8日に至り「鮮人等下広尾橋本子爵邸に放火せり」との訴えあり、これを臨検するに何者かが同邸の便所に放火せしを直に消止めたるなり。尋(つい)て「中渋谷某の下婢が凌辱せられたり」との訴えあり、これを臨検するにその四肢を緊縛せられて同家の玄関前に横わり居しが凌辱の事実なく、又鮮人の犯罪にあらず、尋て同11日、「下渋谷平野某の雇人高橋某鮮人の為に殺さる」との訴えあり。これを臨検するに殺害は事実なれどもその手を下したるは平野にして所持金を奪わんが為に凶行を敢てせるなり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
つづく
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