大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑯
〈雨宮ケ原の虐殺〉
虐殺は9月1日の夜に始まった。
「9月1日は早く逃げて夜は雨宮ヶ原という原っぱに行きました。東武線の小村井駅の近くの大きな蓮田で、東洋モスリン(東京モスリン亀戸工場)の女工さんたちも何千人だか全員避難していました。そのとき、朝鮮人騒ぎがあったんです。・・・・・朝鮮人狩りみたいなことが始まったんです。朝鮮人も蓮田に逃げた。その蓮田で朝鮮人を竹槍で殺したんです。二人か三人殺されるのをみました。・・・」(鈴木[仮名])
「私たちは最初、いまの錦糸公園のところの原っぱに逃げ、亀戸天神まで行きましたが、火の粉が飛んでくるのでおおぜいの人たちと小村井の雨宮ケ原に逃げて行きました。そこであtらしい板で四畳半くらいの小屋を建てて住みました。
そして9月1日の真夜中に朝鮮人騒ぎがありましたよ。『オーイ、オーイ』と呼び合って、逃げないように取り囲み、丸太ん棒や鉄棒で殴り殺していました。・・・・・」(宮沢[仮名])
『大正大震火災誌』の亀戸警察署報告では、
9月2日午後7時ころ「鮮人数百名管内に侵入して強盗、強姦、殺戮等暴行至らざる所なし」という流言が流れ、古森署長は軍隊の援助を求めるとともに、署員を二分し、一隊を平井橋方面に出動させ、自らは他の一隊を率いて吾嬬町雨宮ケ原に向かった。
雨宮ケ原に避難している約2万の群衆は流言に驚いて朝鮮人を探し、至る所で闘争・殺傷が行われ騒擾の地と化していた。
避難してきた朝鮮人同士が朝鮮語で話しているだけで、まわりの避難民に疑いの目で見られ、軍隊・警察に逮捕された。
亀戸事件で亀戸警察署内で殺害された吉村光治の弟で、当時、原公園(雨宮ケ原の西700m)近くに住んでいた南巌氏の証言。(亀戸事件の真相追及のため関係者や遺族が自由法曹団の弁護士に話した「聴取書」)
9月2日「夕刻に到り鮮人来襲暴動の噂あり、猶海嘯(つなみ)起りたりとの声あり。次で夜八時頃には原公園付近にて警官の鮮人を多数殺傷すを見受けたり」
〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉
吉河光点〔検察官〕
2日午後7時頃亀戸警察署に避難民風の男と在郷軍人の提燈を掲げた男が出頭し、「自分達は避難者であるが、自分達の避難場所から約10間位離れた雨宮ケ原には、鮮人が40〜50名集まって朝鮮語で良く判らぬが、何か悪事を相談している模様である。危険であるから早速保護してもらいたい」という申出をした。
そこで同警察署勤務の警部補が右2名の男と同道して亀戸停車場に赴き、同所に駐屯中の軍隊にこの申出を通じるや、軍隊においては時を移さず、某中尉が26名の兵卒を引率して雨宮ケ原に向うこととなった。あたかもこの時該軍隊に対し、戒厳本部から左の如き命令があったと伝えられている。即ちその命令は、唯今不逞鮮人約200名多摩川溝之口村方面より襲来し、煙草屋を襲撃しつつあり、目下討伐隊派遣中、軍隊は一層緊張せよとの趣旨であったとのことである。かかる命令があったという事実が伝えられるや、前記の如き「鮮人は悪い奴である」との風説に点火してたちまち不逞鮮人襲来の流言となり、江東方面一帯は同日午後7、8時頃、この種流言を以って蔽われるに至った。
(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府特別審査局、1949年)
〈1100の証言;墨田区/鐘ヶ淵周辺〉
江原貞義
〔2日夜〕枕橋は既に落ち東武橋を渡って寺島村に入るその時大島町、亀戸は盛んに燃えていた。白髯に出て鐘紡の工場の所まで行くと最早夜の8、9時の頃だったろう。ここで野宿をすることにして桜の木の下にモーフを引いて一同はねた。
余りの騒ぎにフト眼を醒ますと「この水の具合では来るよ、イヤ来るもんか - 」と十数人の工場の人と役場の提灯を持った人達が大騒ぎをしている。海嘯(つなみ)の騒ぎであることを知った。
こうした騒ぎをしている間に鮮人に強迫される - と土堤つたいに遁げくる人達が沢山いる。それ若者行け! と竹槍を持った若者が20〜30人飛んで行く、ピストルを乱射する音がきこえる、ここかしこにトキの声が上る。さながら戦場の様な騒ぎ。父も義兄も姉も一同が 「ここまで遁れてきて鮮人のために命をとられるのは残念だ」といっていた。倉庫に火をつけていたところを捕えてきたと堂々たる紳士の鮮人を自警団の5、6人が護衛してくる、2人3人、9人と一網にしてつかまえてくる。
刺し殺せ! と誰かがいう、ヤレヤレという声がすると鮮人の身体に穴ボコが出来る、何等手向うことなく彼らは死んで行く。如何に鮮人とはいえ、如何なる故あるか知れないが人類相愛から見れば暴に報いるに暴、血に報いるに血を以てせざる態度はまた尊くも思われた。
丁度真夜中の3時頃だったろう、こうした恐々たる所には長くもいられないので、一刻も早く安穏の地へと密行自警団の強者5、6人に護衛されて千住の町へと入った。梅島村に入ると小菅の囚人が逃げ出して狼籍をするというのでここもまた在郷軍人、青年団の人達が竹槍姿で隈なく警戒していた。
〔略。3日、埼玉の田舎で〕時しも鮮人の襲来というので警鐘乱打されて人心は戦々兢々としている、私達一行が寺橋という所まで来ると早速と誰何された。「日本人です」と丁寧に返答すれば、さすがは田舎の人達である、「失礼しました」と丁寧なものである。(1923年9月25日記)
(『若人』第4巻第10号、1923年11月「大震災記念号」、時友仙治郎)
田播藤四郎〔当時寺島警察署管内墨田交番勤務〕
〔寺島署から〕9月2日には自分の交番に帰った。このときにはもう騒ぎはおさまりがつかない。流言蜚語で住民が極限状態になってるんだ。〔略〕交番にずっといた相棒の巡査は流言を信じこんでいて、自分で朝鮮人を引っ張ってくる。そしてこれを持っていたからって、役者が持つような刀を見せるんだ。「こんなもの切れるわけじゃない。おもちゃじゃないか」って言っても、「とんでもない、刺せば切れる。お前は朝鮮人の味方か」って夢中になってる。
〔略。その朝鮮人を寺島警察署に連れて行く途中で〕 いつのまにか鳶口を持ったりなんかして、あっちからもこっちからも集まってくる。〔略〕まわりを取りかこんで、一間もある鳶口でやられるでしょ。だから防ぎようがないんだよ。引っ掛けられて引っ張られて、結局死んじゃった。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
和智正孝
避難した隅田川畔にともった荷足舟は糞尿運搬船であった。1日の夜半であった。
朝鮮人が押しかけてくるから男は皆んな舟から上がれ!! 大声で奴鳴る声にハッと目が覚めた。合乗りの友人金敷君の弟がガタガタ震えている。
私達は糞で汚れているムシロを頭からかけてねたふりし上がらなかった。人びとは朝鮮はドコダドコダといいながら白鬚橋の方向へ行った。
向島の土手方面からダンダンと2、3発の銃声らしい音が聞こえた。夜明けちょっとまえ白鬚橋方向から多声の「万歳!!」 「万歳!!」という声が聞こえた。
2日の朝は明けた。
舟上へ恐る恐る立ち上がり白鬚橋をのぞめば、両ランカンには避難者が、その中央を浅草方面から向島方面へゾロゾロと群れつづいている。
8時頃友人と2人で舟から上がり、白鬚橋へ行ってみた。両側のランカンには向こう鉢巻に日本刀、竹槍、猟銃など持った人びとが避難者へスルドイ目を向け、「帽子を取れ!!」と奴鳴っている。
「彼奴が怪しい」
即製自警団の一人が45、6の男を指した。
「なるほど奴の後頭部は絶壁だ!!」
一人がわめいた。
「鮮人に間違いない」
口々にガヤガヤいいながら、日本刀、竹槍、こん棒がこの男に近づき列から引き離した。
男は突嗟に何もいえずブルブル震えている。
「貴様どこからきた」
「…………」
「コラ!!何処へ行くのだ」
「…………」
「返事をせんか。この野郎!!」
「お前朝鮮だろう」
「…………」
「ガギグゲゴをいってみろ」
件の男は絶対絶命、必死になにか東北なまりでボソボソいうのだが、恐怖のあまり舌がもつれて声になりそうもない。
「こ奴、怪しいぞ!!」
「朝鮮人だ!!」"
「やって仕舞え、ヤレヤレ」
いつのまにか男は荒縄で高手、小手にしぼられている。らんかんに押しつけられた男は急に大声で泣きだした。
「コラ、泣いても駄目だぞ。井戸に毒を入れたり、火をつけたり、津波だといって空巣を働いたり、太い野郎だ。勘辯できねえ!!」
「問答無益だ。殺って仕舞え」
「ヤレヤレ」、一同騒然とした。
白服をよごし半焼けの帽子にあごひげをかけ、左手に崩帯をしている巡査が来た。白サヤの日本刀を持った40年輩の遊人風の男がこの巡査に近づき、
「旦那、こ奴、朝鮮の太い野郎です。殺ってもいいでしょう?」
巡査はやれともやるをともいわず、疲れ切った顔で避難民と一緒に行き過ぎた。
号泣する例の男にとって返した遊人風が、「それやって仕舞え」というと、3、4人の与太公が竹槍でこの男の腹を突いたが、手がすべって与太公は橋のらんかんにいやというほど顔をぶっつけた。白サヤの日本刀氏がヘッピリ腰で男のみけんに切りつけた。糸の様に赤いスジがみけんについた。しばらくするとパックリ口があいてダラダラと血が流れた。
半殺しのこの男を2、3人の若者が隅田川へ投げ込んだ。
付近の自警団員が声をそろえて「万歳、万歳」と叫んでいる。
夜半からの不思議な万歳、万歳という声の正体がやっと判った。万歳の声から推して20〜30人の人びとがぎゃく殺されてたのだろう。
川のなかの男はいったんしずんだが浮かび上がってきてプツと水をふき出し、懸命の声をふりしぼり、「俺ら朝鮮でないよ。タタ助けてくれ」
立派な日本語であった。
「まだ生きていやがる」
といいながら舟頭が舟を出し、竹槍の与太公3、4人はふたたび浮かび上がった男に一斉に竹槍で川底へ押し込んだ。
「ほんとに朝鮮かしら」。金敷君の声にハッと我に返った私は無中で帰路についた。
「コラ、待て!」
三、四人が後を追ってくる。
「待てというのに判らぬか」
私の前を立ちふさいだ自警団員の群から次々にスルドイ声が飛んだ。
「お前、何処から来た」
「どこへ行く」
「ガギグゲゴをいってみろ」
もう駄目だ、全身から血が引きへナヘナとその場へ座り込んだ。殺される!
「この野郎、どこからきたというのに判らぬか」
背中をけられた。
「おい、和智君、どうしたのだ」
「なんだお前、この男知っているのか。朝鮮じゃないのか」
人びとは一人去り二人去り気がついた時は私に声掛けてくれた土地の若者が立っていた。腰が抜けて立てない。
これは私の直接の体験であるが、このほか朝鮮人については友人から以下のようなことをきいている。四ツ木橋の近く、自警団や野次馬が口々に「こいつが毒を投げたんだ」と叫びながら、身体をぐるぐるに縛られた中年の朝鮮の女が、手足おさえて、あおむけにして、トラックで轢いた。まだ手や足がピクビク動いていると、「おい、まだピクピタ動いている、もう一度」といってトラックで轢殺したということである。
とにかく震災時には、朝鮮人が数多く殺されたが、それに劣らず、狂乱状態に陥った自警団や与太者に日本人も殺されたことは記憶しておかなくてはならない。
(「ガギグゲゴをいってみろ!」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
つづく
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