大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺㉕
〈1100の証言;田無〉
浦野善次郎・下田富三郎・小崎順誉・佐々登志・賀陽賢司
大正時代の記憶がまだ鮮明な1957年に、町の古老たちが関東大震災について語った貿重な資料(『古老の語る田無町近世史』)の中で浦野善次郎は、「夜になると朝鮮人が来るというので”竹ヤブ”に逃げた」と語っている。
〔略〕下田富三郎の日記には、早くも9月2日に「流言蜚語等にて人心不安にかられ」という記述が登場する(『史料編』Ⅱ336)。
〔略〕田無における流言については、小峰順誉も次のように述べている。「田無でも朝鮮人が井戸の中へ毒を入れるから気を付けろというデマがとんだから、井戸を中心に自警団が警戒した」(1988年10月31日聞き取り)。自警団は消防団員だったという。
管内における「人心の動揺」は3日以降も激しく、「或は警鐘を乱打して非常を報じ、或は戎・凶器を携えて通行人を誰何審問」して「鮮人の一群が吉祥寺巡査駐在所を襲えり」「八王子方面より300人鮮人団体将に管内に襲来せんとす」などの流言が盛んに飛び交った。田無分署は調査の結果、流言のような事実はないとして朝鮮人を保護したが、騒擾をきわめた民衆は警察に反抗し、驚察署長を暗殺すべしというものすらいたという。田無分署はその誤解を説き、自警団に対する取締りを「励行」した。これが震災から1カ月後にまとめられた田無分署の報告である。
しかし、田無分署の報告書と田無の人びとの記憶は大きく食い違う。先に引用した『古老の語る田無町近世史』によれば浦野善次郎は、「警察署長は、男は棒とか刀を持って、朝鮮人が来たときは殺せという命令を出したほどであった」といい、佐々登志は、「署長が私の家に来て、朝鮮人を見つけ次第殺せということを云ったので、主人が『それより一時朝鮮人を収容した方がよい』と話していたのを覚えている」と語っている。
警察が自警団を取締まることは、当時あったであろうが、まだ記憶の鮮明な時期に古老たちが語っている内容が一致していることを考えれば、警察が最初から自警団を取締まったとは考えにくい。〔略〕田無分署の報告には事後の合理化を含んでいるとみられるのであり、震災直後の田無では、朝鮮人をめぐる流言が警察も含めて交わされていた、と考えるのが妥当であろう。
〔略〕震災後、外地から帰国した賀陽賢司によれば、9月20日に中央線の吉祥寺駅で下車して以降、各所で消防組の自警団による検問に合って朝鮮人と疑われ、ようやく田無まで帰郷したという(『古老の語る田無町近世史』)。田無とその周辺で流言飛語がおさまるまでには、相当の時間がかかったように思われる。
(田無市企画部市史編さん委員会編『田無市史・第3巻通史縞』田無市企画部市史編さん室、1995年)
〈1100の証言;八王子〉
『旭町史』
2日頃から、朝鮮人襲来の流言飛語が発生し、停電で電灯がつかぬ夜を送っている市民は不安を募らせていた。「震災速報」に八王子駅で起きた次のような記事が載っている。
「朝鮮人5名が来る」5日上溝方面より5名の鮮人が警官に送られて来たが、八王子駅に達するや数千の殺気満々たる群衆は「ソレ鮮人来た」とばかり、その乗れる貨物自動車を囲み、不穏の挙に出まじき様子なので八王子署に引渡し、更に山梨県下工事場に送ったが、子安青年団は握飯及び水等を与えたので、彼らは蘇生の思いで喜んでいた。
(「関東大震災のこと」旭町史編集委員会『旭町史』旭町町会、1988年)
〈1100の証言;日野〉
宇津木繁子〔日野町長〕
南多摩郡日野町の宇津木繁子は「カントウ大地震日記」なるものをつけていた(『日野市史史料集』近代2)。「鮮人暴動のさわぎ初まる」という記事は、やはりこの日記でも9月2日の夕方であった。
「町民驚きて、一同手に手に竹槍等携えて夜番をなす。〔略〕、鮮人の入込し時は半鐘をつきて合図すると云事になっていた折から2時頃盛に半鐘をつく、一同の驚きは一方ではなかったが、しばらくして鮮人ではなかったと聞き、一先安心したが、恐る恐る又一夜明す
9月3日
〔略〕前の理髪店を借りて仮事務所を開き、青年、在郷軍人、消防隊総出して夜を徹し、鮮人の番をなす。〔略〕」
日野市でも同じように、青年や在郷軍人、消防隊が自警団のような組織をつくって、寝ずの番の態勢をとっている。また町長〔当時の日野町長・斉藤文太郎〕が、9月3日に各消防支部長にあてて 「不穏鮮人警備に関する件」という一通の文書を出している(前同史料集)。それによれば、「今後なお引き続き警戒の必要があると思われるので、青年団、在郷軍人分会などと協議の上、警備には万全を期し、一般町民を一日も早く安心させるよう尽力願いたい」という趣旨である。そのためには「軍隊の派遣を申請」している。つまり、行政が先頭をきって、流言輩語を信じ、その対応は拡大の一途をたどっていたことがわかる。
(福生市史編さん委員会編『福生市史・下巻』福生市、1994年)
〈1100の証言;府中〉
多磨村・西府村
多磨村が震災から2日後の9月3日付で郡に被害状況を報告しているが、その追記として「追て鮮人暴徒襲来の報有之、是が警戒中にて人心恟々の有様に付申添候也」と述べている。多磨村では朝鮮人暴徒の流言に、人びとが不安のまっただ中にあることがわかる。
朝鮮人暴徒襲来について資料的に確認できるのは、郡が村に対して震災誌編集のための資料照会をしたのに対して、村がそれに回答した文書の中に記述がある。多磨村と西府村では次のように答えている。
「9月1日、震災火災の翌2日、鮮人の暴徒襲来の報有之、是が警戒の為、同日村会議員、青年会長、在郷軍人分会長、消防組頭小頭等を招集、協議会を開催し、是等名誉職を以て各部落の警戒に努め、その状況は時々役場へ通報せしむる事と為し、以て人心の安定を計る(多摩村・大正14年1月6日付)
ことに鮮人暴行風伝ありしを以て、之の防禦方法として青年団員に於て自警、消防組防火用意をなさしめたり(西府村・大正13年4月21日付)」
鎌内の証言や多摩村・西府村の記録からも、朝鮮人暴徒襲来の流言は今の府中市内全域に及んでいたことになる。それらの流言は震災の翌日には届いており、村中をあげて警戒を行っていたことがうかがわれる。
〔略〕西府村の報告では、各方面の被害状況を述べた中に養蚕にかかわる記述がある。その影響として「鮮人暴行の風評を感念し、飼育上注意を欠きたる者多き為、秋蚕中晩秋蚕は殆んど失敗に帰したり」としている。
(府中市教育委員会生涯学習部生涯学習課文化財担当編『新版府中市の歴史 - 武蔵国府のまち』府中市教育委員会、2006年)
府中警察署
9月2日午後2時頃「東京・横浜方面の火災は主として不逞鮮人の放火に因れり」との流言行われしが、その5時頃に至りて「東京に於て暴行せる鮮人数百名は更に郡部を焼払う目的を以て各所に放火し、将に管内に来らんとす」と称し、民衆の恐怖と憤激とは高潮に達し、老・幼・婦女子は難を山林に避け、青年団・在郷軍人団・消防組員等は各自戎・兇器を携えて警戒の任に当り、通行人の検問極めて峻烈なり。かくてその夜に及び西府村中河原土工請負業者が、京王電鉄笹塚車庫修理の為め鮮人土工18名と共に自動車を駆りて甲州街道より東京方面に向うの途上、千歳村大字鳥山字中宿に於て自警団の包囲する所となり、いずれも重・軽傷を負うに至れり。
これに於て本署は鮮人を保護収容するの傍、署員を是政・関戸・日野等の各渡船場に派遣して形勢を探らしめしが、事実無根なるを知りたれば、直にこれを民衆に伝えたれども、疑惑は容易に去らず、3日に及びては鮮人に対する迫害一層猛烈を加え、これを使用せる工場、又は土木請負業者等を襲撃するに至れるを以て、陸軍と交渉して憲兵10名の派遣を求め、協力してこれを鎮撫し、以てこれ等の危難を救いたりが、騒擾は依然として熄(や)まず6日には、「鮮人数十名立川村を侵し、自警団と闘争を開けり」と云い、更に、「長沼・多摩の両村に於ても暴行を逞うせり」等の流言あり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;町田〉
前田敏一・中村義高・小野輝治・大沢博政・井上敬三・津田安二郎・中馬得寿
市域でも不逞朝鮮人襲来のデマが伝わり、それなりの対策がとられた。当時の模様を数名の市民に語ってもらおう。
「2日の10時ごろだったと思うが三丁目の勝楽寺(原町田)入口脇で米屋を営んでいた田原の秀ちゃんという45、6の人が在郷軍人の外被を着て、ゲートル巻きの足袋はだしで鉢巻き姿も凛々しく日本刀をたぽきんできた。曰く『京浜方面で朝鮮人が地震の混乱に乗じ、井戸に毒を投げ入れつつ大挙して町田へ押しよせてくる。16歳以上の者で日本刀のあるものはそれを持ち、無い者は竹槍を持って天神様へ集合してくれ、こまかい作戦はその時にする』と伝え次へ回られた。私共は14歳だったので残り、父や近所の人はきっそく竹槍作りをはじめたが誰の顔面も蒼白だった。誰かが鋭利にそいだ槍の部分を油で焼くと先がささくれないなどと真剣だ。」(原町田・前田敏一)
「2日の午後1時ごろ騒ぎがあった。東京の巣鴨の刑務所にいた服役者と朝鮮人が一緒になって焼打ちを始め、今、大野村を焼いているという噂であった。神奈川県の方の人が馬に乗ってやってきて『武器になるものは皆持って出ろ』、と伝えていった。相原は地理的に情報を入手しにくい地区であったが、神奈川県の人が馬に乗ってきたので皆本気にしてしまった。夜になり襲撃に備えスパイクをはきボキ棒を腰にさして山に登った。大野村はちっとも焼けていない。帰って来て朝鮮人の焼打ちは嘘だといったら在郷軍人に怒られてしまった。馬上に仙台袴をはいて日本刀をさして指揮した人もいた。3日の昼ごろ朝鮮人ではないかということで私のところへ連れてこられた人がいた。私が調べを頼まれて話しを聞いてみると、どうしても山梨県人でなければでない言葉が二言・三言あった。朝鮮人と間違えられた人は中屋の旅館に泊っていた人で甲府の南の方の人に違いないことがわかって許された。その人に私のところの名入れのちょうちんを貸して帰した。それから20日ばかりたって、その人は『お陰で助かりました』とちょうちんを持ってお礼にきました。考えてみると騒がなくてよいことを騒いだと思う」 (相原・中村義高)
「鶴川街道の切り通しで作業をしていた40〜00人くらいの朝鮮人の飯場があったが、大震災の起こる1、2日前に、それらの朝鮮人は突如として姿を消してしまった。それが鶴川地区では朝鮮人騒ぎに拍車をかけてしまった。鶴川村は全域歩哨体制をとり伝令も置き実戦体制でした。(略)2日の夜、『原町田方面に朝鮮人の一部隊がきていよいよ決戦に入るから準備を強固にしろ』という伝達がきた。そのうち『拳銃の音も猟銃の音も聞える』『小野路にきた』というニュースが入る。ところが3、4発の銃声が聞えた。このときはさすがにやっぱりきたかと思った。子供の泣き声によって山に避難していた人々が発見されるのを極度におそれた。このさわぎの時、『社会主義者の煽動によって起こり、朝鮮人は日本人を恨み、社会主義者と朝鮮人が国家災難のときに当って蜂起した』と伝令を受けた」(真光寺・小野輝治)
「このさわぎの命令を出したのは役場ではなくて警察だと思います。横浜の刑務所に収容されていた囚人が2日ほどして、全部この甲州に向かってくるという情報が入った。金森の鉄道橋に在郷軍人や消防団が全部集結して警察分署長が陣頭に立って指輝をしていました」(本町田・大沢博政)
「3日、4日のあたりまでは、ほとんど民衆自体の自発的な働きで民衆が動いたと思います」(鶴間・井上敬三)
「市域にいた朝鮮人は屋台をかついでいた飴売り一人であった。横浜から朝鮮人や囚人が来るといううわさが流れると自警団は半鐘を鳴らして警報し、私も警戒に当たった。当時駐在所の電話は正常に働いたが警視庁からの連絡はなかった。消防団は警察分署長が指揮監督し、自警団は各部落で組織して警官は連絡だけをしていた。朝鮮人暴動について警察は本当だと信じていた。警察には市域以外の人で幾人か連行されて来たが問題はなく保護して八王子警察署に送っていった」(町田分署町田町本町田駐在所巡査・津田安二郎)
「真光寺の伊藤さんが道路建設工事で大蔵に飯場をもっていた。そこには30名ぐらいの朝鮮人がおり消防団や村の青年団が竹槍を持って殺気立っていた。交通・通信機関もとざされていたので自転車で連絡をとった。消防団・青年団は府道に縄を張り数十人が要所要所を固めていた。大蔵の朝鮮人飯場は小野路駐在所の管轄であったが、私は飯場へゆき『外へ出るならば命は保証しない』と話し、朝鮮人の殺気立つのを押えた。駐在所には電話がなく町田分署から朝鮮人暴動の伝令が来たがデマだとは思わなかった。
この飯場は小野路の駐在と私と請負師の三谷と3人で保護した。一時、憲兵が乗馬でやって来て発砲したといううわさもありました。大蔵の飯場の朝鮮人は無傷であり、管内の朝鮮人は全部無事でした」(鶴川村能ヶ谷駐在所・中島得寿)
朝鮮人暴動のデマは2日の午前中、町田町に伝えられ午後には堺村に適した。〔略〕とくに横浜線沿線の南村・町田町・忠生村・堺村は横浜から中央本線へ向かう人たちがひきもきらず通り、デマが横浜からの朝鮮人・囚人の暴動であっただけに、その緊張と混乱は激しかったようである。
(町田市史編纂委員会編『町田市史・下巻』町田市、1976年)
つづく
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