朝鮮人虐殺に関する閣議決定文書
「大正十二年九月の震災当時に於ける混乱の際
朝鮮人犯行の風説を信じ其の結果自衛の意を以て誤って殺傷行為を為したる者に対しては
事犯の軽重に従い特赦又は特別特赦の手続きをなすこと」
大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺㉑
〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
小林勇〔編集者、随筆家。当時20歳〕
翌日〔2日〕は、その頃大久保に住んでいた兄の安否をたずねた。兄は無事だった。帰途「牛込へ来た時、武装した青年団や在郷軍人たちがひどく騒いでいるので、何事かと思い、きいて見ると、朝鮮人が放火したというのである。それから帰途は全部朝鮮人騒ぎで大変であった」とあり、ノートにはその後この事についていろいろ考えを述べている。私はその噂を信ぜず、「彼らはそんなことはしないと思う」、しかし「もし仮にそんな朝鮮人が少しくらい現れても当然ではないか。日本人が日頃この人達を迫害圧迫している罪悪に較べれば彼らのお返しの方が小さい」と記した。また「愛国心・偏狭なる愛国心、それらは間違ったる群集のために如何に悲惨なる結果を引出す事であろう。真理はただ一つである。万人を愛せ。これを本当に理解した者の前に、日本人も朝鮮人もあるものか」と書いている。
「朝鮮人騒ぎ」のために「自警団」が組織され、二日の夜から交代で夜警に当たった。私は朝その仕事から解放された時、岩波茂雄が下町の方へ行ってみようといった。〔略〕佐久間町の狭い一郭が残っていた。川岸に近い所に電車が一輌残っている。二人は中へ入って一休みした。「中には一人の男がいて」私達は問答をした。
「えらいことでしたね」
「まったくえらいことですね」
「ここらも大分朝鮮人騒ぎをしていますね」
「ええもうひどいですよ。ようやく焼け残った所を放火されたのではやり切れませんからね」
「実際朝鮮人は放火したのでしょうか」
「ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね」
「殺したりするのですか」
「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」
「その屍体は?」
「川の中や、焼けている中へ捨てました」
その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。そして私はノートに書いている。「こんどの惨害の中で一等不幸の目に会ったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人間に殺されるかもわからないとは何ということだ」
二十歳の青年は興奮し、憤慨し、感情的になって筆を走らせている。
(小林勇『一本の道』岩波書店、1975年。「 」内は当時のノートからの引用)
〈1100の証言;豊島区〉
内田良平〔政治活動家〕
2日夜9時半頃本所方面よりの避難者と称する鮮人1名〔略〕青年団追跡して池袋駅側に於てこれを捕え群衆のために殴殺されたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
加藤一夫〔詩人。自宅で被災〕
〔巣鴨宮仲で〕9月2日 この調子では市民の暴動が起らないとも限らない。
起こればもう主義者は片っぱしから殺される。だから今のうち姿をかくしたらいいと告げに来てくれる。〔略〕鮮人が放火をするとか、井戸に毒薬を入れると云う噂が立つ。市民は殺気立つ。今夜から市民の夜警が初められる。朝鮮人が放火しようとしていたので、たたき殺した。と云っている。乱暴者は殺してもいいと、直ぐ青年団の人らしいのがふれて来る。夜警に出ている人達が時々ワーツと騒ぎだてる。
〔略〕9月3日 自分は小石川原町の島中〔雄三〕君のところを見に行く。自警団の物々しい警戒に驚く。”不逞鮮人の放火””火事は鮮人と社会主義者との放火”等の貼出しがある。島中君の番地がわからなかったので抜刀の男がついて来る。〔略〕夜寝ているとドヤドヤと人がやって来た。”誰だ”ときくと、”警察だ”と答える。あけてやると、検束だと云う。十名ばかり来ている。”何で検束だ。鮮人の事でか””まあそうだ”雪がとび出して来て、女や子供や病人ばかりで困ると云うと、誰かいるだろうと云う。”いない””では見せろ”見せてやる。誰もいないのに安心して、検束しないで帰る。
〔略〕9月5日 多分大家のした事らしい、竹槍その他の兇器を持った青年団が20人ばかり事務所を襲って来たそうだ。〔石黒鋭一郎に面会に午後巣鴨警察へ行くと〕”君も戒厳令撤廃まで検束だ”と森という高等主任が云う。冗談だと思って”冗談云っちや困るよ”と云う。だがどうしても聞かない。そのうち盗棒(ママ)刑事がひっぱたくぞと云う。仕方なく来いというところに行く。警察の中庭だ。鮮人その他が一ばいになっている。〔略。刑事が〕拳骨の雨。じぶんはそこへたおれ打たれ蹴られて止む時を知らない。勝手にしろと大の字になってやる。やっとで起き上がったとき、あまりに悔しくて、つい”覚えていやがれ”と云う。再びまた打たれ初め、倒され、蹴らる。”殺してしまえ””戒厳令の功き目を知れ”そのうち主任が盗棒刑事をとめたがきかない。主任が怒ってやっとのことでやめます。〔略〕留置場に行くと、官房がぎっしりいっぱいにつまっている。怪我してウンウンうなっているものがある。”さあ銃殺だ”と呼び出しをうけているものがある。さすがに寂として声がない。戒厳令が長びくだろう。その間に食糧が行き渡ればいいが、それがもし不可能だったら。水は途だえている。電燈がつかないとすれば、掠奪が初(ママ)まるかもしれない。暴動が起るかもしれない。そしてその時は?その時こそ、我らはただ無法の制裁を受けて、人知れず殺される事だろう。〔略〕自分のそばにいた男が(彼は何でも電柱の工夫だという事だった)”私達はやられるでしょうか。社会主義者は皆殺されるんでしょうね”と云う。顔だけ知っている男が”随分やられましたね。よく殺されなかったものです”と云う。〔その後、東京を去ることを条件に6日昼頃釈放される〕
〔略〕散髪に出かけたが、やってくれない。すぐ後で、”社会主義者が”と青年団のものらしいのがつけて来る。
(自由人叢書②』「自由人」別巻「震災日記」、緑蔭書房、1994年)"
富塚清〔機械工学者。航空研究所で被災、3時間かけて大塚駅近くの巣鴨宮仲の自宅へ〕
〔2日〕その夕方、大塚あたりにも、鮮人暴挙のうわさが流れてきた。妻が、これで、おろおろしている。私などはこれでも、いくらか批判力があるから、「それは恐らくうそだぞ、鮮人が何人いるか、そんなことを手びろくやれる筈があるものか。おちつけおちつけ」というが、妻は中々承知しない。奥さん方は大抵似たもの。寄り集まっておろおろ。しかし、さすがに山ノ手の私の住むあたりでは、日本刀をふりまわして、通りがかりの人をおどす様な光景には、一つもぶつからなかったのである。
4日。朝鮮人さわざが、嘘ということ、次第に知れてくる。
〔略〕6日。夜の鮮人警戒は大塚あたりでは停止となる。
〔略〕8日。郷里〔九十九里沿岸〕から、兄が、米五升をひっさげて、遥々やってきた。実家では、全然被害なし。先日も、東京周辺まで一度きたが、その時は鮮人さわぎで、とうとう市内に足をふみ入れられず戻ったという。そのとき日本刀で首を切る実景を見、その残虐に一驚した由。
(富塚清『明治生れのわが生い立 - 明治・大正時代の見聞録』私家版、1911年)
『北海タイムス』(1923年9月5日)
「不逞鮮人兇暴を極め 飲食物に毒薬や石油を注ぐ」
巣鴨刑務所横道方面には従来多数の鮮人居住しおる関係上もっとも危険区域と見倣されているが、俄然2日夜に至り右警備隊によって600以上の鮮人を始め数十名の不逞鮮人を逮捕した。また日本婦人らしきもの松田と書ける商標の商品を用い朝鮮婦人を装い多数の不逞鮮人に通じあるを直に発見し、数百名の在郷軍人及び青年団員これを追撃したるも午後同時過ぎに至るも逮捕するに至らず。因みに警備隊は日本刀、棍棒、鉄棒等の各武器を携え不逞鮮人を見たる場合は呼子を鳴らして警備隊を召集する事になっているが、宇都宮師団の六六連隊、高崎一五連隊もこれに参加している。
つづく
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