大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑲
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
香取喜代子〔ひょうたん池のほとりで避難生活〕
一日は上野にいて、二日の晩なんですよ。結局もう二日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるから - そのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよね - だから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人もわるい朝鮮人も全部かまわずね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう……。
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池のなかでもう逃げ場失っちやって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちやってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて。〔略〕ひょうたん池のそばに大きな木が2本あって、方々に木がありますからね、2本の木の股にかけて、材木を買ってきたのとトタンでね、焼けた劇場のドアですよね、ああいうの突っ立てて、一時そこに6畳ぐらいのとここしらえてね、12日ぐらいいましたか。そしたらね、毎晩なんですよ、朝鮮人を見たらとらえろ、ぶっ殺しちやえっていうのね。はな、みんなね、5日ぐらいはぶっ殺しちやえだったんですよ。2週間目ぐらいになったらね、今度劇薬をね、方々に置くとか、そいから燃えるようなもの、アルコールとか揮発油とかいうものを建物のそばへ置いて火をね、燃すから気をつけろ、気をつけろってね、触れて回るわけですよ。〔略〕
殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたに去って連れていかれた。
3人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、5、6人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだーって。そしてひょうたん池ん中から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、32、3の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンとでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。〔略〕
ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。(1970年頃の聞き書きより抜粋)
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで - 関東大震災聞き書き」『新日本文学』2000年10月号、新日本文学会)
山本芳蔵〔神田柳原の洋服店で被災し、浅草公園へ避難〕
〔1日〕火の中をくぐりぬけ、漸く公園に辿りつくと、既にこの一帯も焼け落ちて自警団が組織され、手に手に鉄棒を持って関所をつくっている。不逞鮮人の潜入を防ぐのである。自分も日本人である事を認められ、関所は通してくれ、君もすぐ自警団に加入するよういわれたが、いまの所はいれないと断った。
〔略〕その夜〔1日夜〕は一睡もせず夜を明かした。上野方面から朝鮮人が向っているから注意せよとの情報が自警団にくる。公園内に入る者は片っぱしから調べ、朝鮮人らしき者にはザジズゼゾといわせる。怪しいと思うものは、交番裏の空家へ押し込む。
翌2日になって警官が取調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2、3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐりつける。男はヒーヒーと悲鳴をあげる。4、5歩歩くとばったり倒れる。それへかさにかかって大勢で鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し、繰り返しするのである。無惨な殺し方をしたものである。
(山本芳蔵『風雪七十七年』私家版、1977年)
浅草象潟署
9月2日午後4時頃流言あり、曰く「約300名の不逞鮮人南千住方面にて暴行し今や将に浅草観音堂並に新谷町の焼残地に放火せんとす」と。これに於て、自警団の専横となり、鮮人に対する迫害となりしが、これが為に同夜午後10時頃椎谷町に於て通行人3名は鮮人と誤認せられて殺害に遇うの惨劇を生ずるに至りし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
伊藤乙吉
〔2日、上野で〕夜になってから、お巡りさんがやって来て、大声で我々に伝達した言葉は、誠に以って悲惨をものであった。「皆さん!! 不逞朝鮮人が東京の壊滅を図って暴動をたくらんでいるから見つかったら切り殺しても構いません・・・」と。甚だ物騒な話し。時を移さず一人の男性が、持ち込んだ短刀を取り出し、池の端の植木に、エイッとばかり一太刀浴せたら、枝がブスリと切れ落ちたのを見て「これで安心・・・」と鞘に納めていたのも冗談では決してなかった。とにかく緊張の一夜だった。
(「関東大震災を回想して」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)
内田良平〔政治活動蒙〕
2日夕刻〔略。松坂屋前の風月菓子店の路地で〕社会主義者か鮮人か判明せざるも〔略〕2名、その路次より駆け出し来りたるため群衆はたちまち包囲の下にこれを殴殺し、これを路次内へ遺棄したるまま火勢に遂われつついずれも上野方面へ立去りたり。〔略〕松坂屋裏の方に火起ると見るや、時に二大爆発起り〔略〕間もなく2名の鮮人らしき者、〔略〕上野方面に向い駈け来りたるにより、群衆はこれまた〔略〕包囲掩殺したり。
〔略。2日夜〕上野停車場構内に於て2名の鮮人〔略〕駅員これを発見して彼等を追い駈け遂にこれを殴殺したる。
〔略〕2日午後3時頃上野東照宮横にある木立の間に避難民等が荷物を山積し置きたる際、上着なき洋装年令30以内の日本人と法被を着たる30歳位の鮮人との2人〔略〕自警団が捕え〔略〕群衆は激昂してこれを殴殺しつつありたり。
〔略〕6日午前11時下谷清水町中村芝鶴、杵屋光一と共に上野美術学校と音楽学板の間を巡警しつつありし際、〔略〕鮮人5名〔略〕一人は殺され、2人は捕えられ、2人は逃げたり。
〔略〕同夜〔6日〕2時頃、護国院裏に怪しき一団潜みおりたるものあり、山内の自警団これを発見し追い駆けたるに、その内4人は動物園横に逃げ美術学校一部の付属の建物の屋根に飛び上りしが、軍隊にて発砲しその2人を打ち止め2人は逸失したり、その打止められたる2人は共に洋服にして年令30歳近くの者なりき。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
風見章〔政治家。当時『信濃毎日新聞』主筆〕
〔『信濃毎日』老記者の話〕2日の夕刻薄ぐらくなってから上野公園にさしかかると、そこで何人かが鮮人と間違えられたのであろう、民衆から或いはピストルで射殺され、或いは木刀や棍棒などで撲殺されたのを目撃した。
〔略〕越後のある地主が娘の緑づいた家に地震見舞いのため上京したが、〔略〕2日の夜上野に着いてみると、どこもここも見渡すかぎりの焼野原になっていたので、まず上野公園へたどり着いたのであろう、そこで無惨にも鮮人とまちがえられなぐり殺されたことが、何日か経ってあきらかにされたそうだ。
(河北賢三・望月雅士・鬼嶋淳編『風見章日記・関係資料』みすず書房、2008年)
加太こうじ〔評論家〕
上野公園では2日の午前中から、朝鮮人を焼け木杭といえる材木に縛りつけて、台地下の燃えている上野駅の火中に投げこんで焼殺した。それは、浅草の家が焼け落ちるのを見届けて、一夜を上野公園ですごした私の父が目撃している。
(加太こうじ『浅草物語』時事通信社、1988年)
清水正〔当時浅草区千束町在住〕
「2日から3日の火災は不逞鮮人の放火上野駅岩崎邸の焼けたのも彼等の放火のため」
私は上野の交番前で市民のために打殺された30名ばかりの鮮人の死骸を見た。私の避難した七軒町のお寺でも2人の鮮人が捕縛されて打ちのめされていたし、浅草方面では軍隊に突殺されたり在郷軍人青年団員のために多数の不逞鮮人が撲殺されていた。
(『河北新報』1923年9月6日)
寺田虎彦〔物理学者〕
〔2日、千駄木曙町に〕帰宅して見たら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇人の放火者が徘徊するから注意しろといったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩く為には一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。
(『寺田虎彦全随筆5』岩波書店、1992年)
下谷上野警察署
9月2日流言あり「かねてより、密謀を蔵せる鮮人等は、今回の震災に乗じて、東京市の全滅を企て、放火又は爆弾に依りて火災を起きしめ、かつ毒薬を飲料水・菓子等に混入して、市民の鏖殺(おうさつ)を期せり」「上野精養軒前井戸の変色したるは毒物投入の為なり」「公園下の下水に異状あり」「博物館の池水変色して、魚類皆死せり」等一として民衆の心を惑乱せしひるものにめらざるはなし、本署は即ち、異状ありと称せらるる井戸に就きて、これを験せるにその反応を認めざりしかば、これをその傍に掲示して、誤伝なるを知らしめたるに、幾もなく「上野広小路松坂屋呉服店に爆弾を投じたる鮮人2名を現場に於て逮捕したるに、百円紙幣2枚を所持せり、蓋し社会主義者の給せるものに係る」「上野広小路松坂屋附近にて一度鎮火したる火災は、2日夕刻、松坂屋前風月堂菓子店の路地辺より投弾と共に、再び発火せしが、その際群集は、社会主義者なりや、鮮人なりや分明ならざれども、投弾者と思わるるものを発見して、乱打死に到らしめたり」「松坂屋は、鮮人の投弾に困りて焼失せり、上野駅に於てもまた2名の鮮人が、麦酒瓶に入れたる石油を濯(そそ)ぎて放火せるを、駅員に発見せられて撲殺せられたり」等の流言行われて、益々人心を刺載せしが、更に翌3日に至りては「上野公園博物館前に集れる避難者中、挙動不審のものあり、群集に対して揚言して曰く、火災は容易に鎮滅せざるのみならず、多数の鮮人等、本郷湯島方面より、まさにこの地に襲来せんとす、速に谷中方面に避難せよ、家財等は携帯するの要なし、後日富豪より分配せしめんと。衆これを怪しみたる間にその姿を失いしが、幾もなく再び凌雲橋方面に現れて、同じ意味の宣伝を為し、遂に警官に逮捕せられしが彼は社会主義者にして、紙幣60円と、巻煙草3個とを所持せり」「2日午前10時半頃、30歳前後の婦人は上野公園清水堂に入りて休憩中、洋装肥満の男より恵まれたる餡麺鞄(アンパン)を食したるに、忽ち吐血して苦悶せり」と言い、同4日に至りては、「上野公園内及び焼残地なる、七軒町・茅町方面には、鮮人にして警察官に変装し、避難者を苦しめ居るを以て、警察官なりとて油断すべからず」と言い流言の拡大殆んどその底止する所を知らず。而して皆事実にあらざるが故に、本署はその信ずるに足らざる所以を力説して、昂奮せる民衆の鎮撫に努めたる。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
『山形民報』(1923年9月4日)
「白鉢巻の暴徒 後手に縛らる 上野付近は殺気漲る」
大災害のため東京市より鉄道線路伝いに王子に避難した一青年は、2日再びパン類を買い入れ親族救済のため上野駅に引返すと、上野付近は殺気漲り白鉢巻の壮漢顔色血走り物凄い有様で、後手に縛せられおるもの数十名に達しているので愕きの余り食料を放棄した儘(まま)怱々逃げ帰った。
『山形民報』(1923年9月4日)
「猛獣全部を銃殺不逞団体猛獣の解放を計画」
災害の益々拡大して共に来ると、東京市内各所にわたって不逞鮮人や暴力団の蜂起したため、陸軍では警視庁に応援してその警戒をしていたが、安全地帯と目されていた上野公園並びに浅草に多数の避難民が逃れたが、この混雑に際し、上野動物園及び浅草花屋敷の猛獣を解放して市中を暴らさんとした不逞団体のあることを発見した陸軍当局では、2日朝万一の事を憂慮し射殺を命じたる結果伊藤中尉の率ゆる一個小隊は直ちに上野の動物園並びに花屋敷に至り、小鳥類は全部これを縄から放すと共に獅子、虎、豹等の猛獣並びに象など危険の恐れある猛類は全部これを銃殺してしまった。
『いはらき新聞』(1923年9月7日)
「鮮人の襲撃に一村全滅の所もある」
戒厳令が布かれてから軍隊憲兵警官の外に青年団等も日本刀槍等を携え夜間は皆抜刀である。暴動鮮人は自衛上これら防護団のために殺され又は捕縛されたが、最も多いのは2日朝上野東照宮前に200人捕縛されているのを実見した。それらはことごとく顔面手足ともに血みどろで労働者風のもの、学生、乞食の姿、鮮婦人も混じっていたが、自動車でドシドシ送っていた。
つづく
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