大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺⑥
殺害された朝鮮人の数、吉野作造、布施辰治
吉野作造は、在日朝鮮人学生が結成した「在白朝鮮同胞慰問会」の調査委員から得た東京府、横浜市、埼玉、群馬、千葉、長野、茨城、栃木各県の被害総計として、10月末迄に殺害された朝鮮人の数を2,613名と結論づける。彼は、改造社が企画する「大正大震火災誌」に、「朝鮮人虐殺事件」「労働運動者及社会主義者圧迫事件」を執筆し、前者の文中に殺害された朝鮮人の政を2613名と記し、虐殺現場の地名も克明に書きとめるが、内務省はこの発表を禁じる。発行された「大正大震火災誌」の吉野作造論文「労働運動者及社会主義者圧迫事件」の末尾に、編集者の「お断り」を記す。「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」・・・は、豊富なる資料と精細なる検討に依って出来た鏤骨苦心の好文字であったが、其筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの巳むなきに到った。玆に記して筆者及び読者の御諒恕を仰ぐ」。
尚、「在日朝鮮同胞慰問会」のその後の調査では、殺害された朝鮮人の実数は6千以上に達すると発表されている。
布施辰治は「日本弁護士協会録事大正13年9月」で、官憲当局の発表は、朝鮮人の被害者数が一桁少なく、しかも殺害の原因となった流言飛語の出所を突き止めていない、これは流言飛語を放った者の正体が暴露されるのを恐れるためではないのか、と指摘。また罪を自警団だけに帰し、官憲・軍隊が虐殺に関係しないという当局の言い方はあまりに白々しい、と官憲が関係した犯罪であることをも示唆。
戒厳令施行
夕刻近く(午後4時または6時)、東京市と府下5郡に戒厳令施行。緊急勅令による戒厳令の一部施行。3日、4日にはその適用範囲を東京府全域・神奈川県・千葉県・埼玉県へと拡大。
「朝鮮人来襲」の流言が広がると、水野内相は戒厳令施行の方針を決める。これを公布するには枢密院の議を経る必要があが、枢密顧問官を集めることができない為、伊東巳代治顧問官の諒解を得て、政府の責任で公布することになる。2日夕方近く、戒厳令の一部が東京市と府下の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の5郡に施行。
内務大臣水野錬太郎の回想には、「朝鮮人攻め来るの報を盛んに多摩川辺で噂して騒いでいる」という報告があったこと、警視総監赤池濃(あつし)とともに「そんな風ではドゥ処置すべきか、場合が場合故、種々考えても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいという事に決した」と記されている(東京市政調査会編『帝都復興秘録』)。
このやりとりの文言を字句どおりに解釈し、戒厳令の施行の目的が「人心の安定」にあったのであり、「朝鮮人暴動」への対応ではなかったとする説も出されている(吉田律人『軍隊の対内的機能と関東大農災』)。
しかし、数日の間に政府の流言に対する姿勢がめまぐるしく動いたことをふまえると、一年以上経ってからの政府関係者の回想によって、戒厳令を施行した当時の意図を立証することは難しい。
重要なのは、どのような意図であったにせよ、戒厳令の施行がもたらした効果は絶大でったことである。先に挙げた流言が広まるなか、軍隊が出動し、全面的に治安の維持を担たことで、あたかも本当に朝鮮人が暴動を起こす(起こした)かのような状態がつくり出された。これが、軍隊・警察・民衆から朝鮮人を殺害することへのためらいが払拭された一つの要因といえる。
内務大臣水野錬太郎は、三・一運動後の朝鮮総督府の政務総監で、警視総監赤池濃(あつし)は、三・一運動後の朝鮮総督府の警務局長。関東大震災時に治安維持を担うトップにあった人物は、三・一運動直後に朝鮮統治にのぞんだ当事者であり、朝鮮人の反乱を強烈に意識した統治経験があった。
また、三・一運動をきっかけに、あるべきでない反抗的な行動を表す「不逞」という語が「鮮人」の語と結びつき、「不逞鮮人」というフレーズが普及した。1918年以前には新聞記事の見出しに「不逞鮮人」の語は使われていなかったが、1919年4月から関東大震災までの間に約120件に増加した。よからぬことを企んでいるイメージ、「テロリスト」のイメージが、朝鮮人と結びつけられた。
治安を担う政府当局者の統治経験、それを報じた新聞の作り出す「テロリスト」イメージ。これらの重なりあいが、官民ともに想像上の「テロリスト」にとらわれた背景の一つといえる。植民地を支配する側が被支配者に対して抱く反乱の恐怖と嫌悪が、帝都の警察機能が麻痺した状況で前面に現れた。
戒厳司令官は、戒厳の目的に必要な限度で、地方行政事務と司法事務の指揮権を掌握、集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の捜査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限を持つようになる。朝鮮人暴動の流言が戒厳令施行の契機となったように、この戒厳は臨戦戒厳の一面も帯びている。
戒厳は、暴徒鎮庄が直接の目的である。東京衛戊司令部は、地震直後から活動、1日夜、近衛・第1両師団の全部隊を東京に呼び寄せ、戒厳令施行後は、陸軍は、習志野から来援の20数騎の騎兵に東京全市を駆け巡らせ、軍隊の到着を知らせる。騎兵の馬蹄の響きは、恐怖と不安に満ちた人々に活気を蘇らせ、これを喜び迎える。
第2次山本権兵衛内閣成立
夕刻、親任式。蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助就任。首相山本權兵衞、外相山本權兵衞(兼務)、内相後藤新平、蔵相井上準之助、陸相田中義一、海相財部彪、法総田健治郎(兼務)、文相犬養毅(兼務)、 岡野敬次郎、農商務相田健治郎、逓相犬養毅、鉄相山之内一次。
内務大臣後藤新平:台湾の民政長官(台湾人虐殺)、米騒動時の外務大臣(水野錬太郎の後継。水野は米騒動・「3・15事件」のあとの内務大臣、朝鮮総督府政務総監)。山辺健太郎説では、食糧暴動を防止するため、政府に向う民衆の反抗を朝鮮人に向ける。
東京衛戍司令官森岡守成中将は東京以外の地方師団の出兵を求め、「万一、此ノ災害ニ乗ジ、非行ヲ敢テシ、治安秩序ヲ紊ルガ如キモノアルトキハ、之ヲ制止シ、若シ之ニ応ゼザルモノアルトキハ、警告ヲ与ユタル後、兵器ヲ用ウルコトヲ得」と、訓令。
後藤内相、親任式後から直ちに帝都復興に取り組む。
根本策。
①遷都せず、②復興費30億円、③欧米最新の都市計画を採用する、④地主に対し断乎たる態度をとる。
後藤は、日清戦争後の台湾経営や日露戦争後の満鉄経営に手腕をふるい、2年前にも東京市長として8億円の都市改造計画を立案、大風呂敷の評判をとっていた。後藤の復興計画案は、大蔵省との折衝で、復興費総額12億円、うち5億円を各省に配り、7億200万円が東京・槙浜の復興と都市計画にあたる帝都復興院の予算に組まれる。
つづく
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