2023年9月9日土曜日

〈100年前の世界058〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑩ 〈1100の証言;葛飾区、北区〉 「朝鮮人が殺されていた場所は、.....上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人ぐらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。.....気の毒なことをした。.....その人は「何もしていない」と泣いて嘆願していた。」    

 

高麗博物館2023年企画展《関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺》図録

〈100年前の世界057〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑨ 〈1100の証言;板橋区、江戸川区、大田区〉 大森警察署「9月2日午後4時流言あり「鮮人数百名横浜方面より東京に向うの途上、神奈川県鶴見方面において暴行を極め、或は毒物を井戸に撒布し、或は放火掠奪を為せり」と。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑩

〈1100の証言;葛飾区〉

池田〔仮名〕

朝鮮人が殺されていた場所は、上平井橋の下といまの木根川橋の近くだった。上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人ぐらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「婦女暴行をしている」という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが・・・、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は「何もしていない」と泣いて嘆願していた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


上村セキ

あくる晩〔2日〕から立石で朝鮮さわぎなんですよ。まっくらだし「朝鮮人だ! 朝鮮人だ」と大騒ぎしているんです。それで各家庭で竹槍を作れってんで竹槍をつくり、朝鮮人をみたら、みんなやっつけちゃったらしいですね。相言葉があって「山」といったらすぐ「川」とでないと朝鮮人だといって日本人も何人かはまちがえられたということをききました。竹槍をつくるように言ってきたのは町会からだったです。

〔略〕兄がいうのには四ツ木橋のところにたくさん朝鮮人を連れてきて並べ、中にはこの立石の地の朝鮮の人もいたそうですが、その「アイゴ! アイゴ!」と泣き叫んでいる人たちを竹槍で突いて荒川の土手へつきおとしたそうですよ。

(「四ツ木橋畔の虐殺事件のこと」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)


島田精

2日目に四ツ木橋を越え、本田村(今の葛飾区)の庭先をかりてみんなで野宿したわけです。ちょうど2日目の晩に「津波ダァー」という声がしたのでみんな線路に上がって枕木に帯で体をつないだりしましたが、津波なんかいっこうにこないので帯をほどきました。ところが8、9時頃、「朝鮮人が攻めてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちやった。「竹をだせ!」「槍を出せ!」、棒きれもってる奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。そしたら土手の方からバンパンパンと鉄砲をうつような音がきこえてきました。

あくる朝、放水路のところを歩いていったら、 - 当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われた、日本人の貸金にくらべれば2分の1位でした。 - そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、5人、6人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。

〔略〕この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ7、8人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわず袋だたきにあい、5分間ももたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。

(「荒川土手での白昼の惨事」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)


崔然在(チェヨンジェ)〔当時22歳。当時本所区向島小梅町178番地大野儀一方の鉛筆工場に勤務。本籍地は朝鮮成南北青郡下車書面上新兵里〕

〔2日夜、立石尋常小学校前で青年団につかまり連行された〕「貴様は何所か」「朝鮮です」「四ツ木で乱暴して来たろう」「貴様も殺してやる」崔君の全身は血みどろに染った。

「何故殺すんです。その理由を聞かせてください」「貴様は理由は知っているはずだ。だまれ」「早く殺せ」「やっつけろ」と集まるもの、日本刀ピストル竹槍など手にした人、60~70人、崔君は溝の岸に伴われた。君は遁れる由もなく、溝岸に立たせられ、頭を前に屈げさせられた。君の身命は風前の燈となった。

〔略〕一刀がキラリとひらめいた。この時生命かぎりに、主人儀一の名を呼んだ。間髪を入れぬその時、天佑か主人の名を知る者があって一度調べてやれと、交番に伴われた。時は午後11時頃であった。

彼は7、8人と共に寺島警察署に送られた。11日には千葉習志野へ、10月24日青山へ、11月26日本所区二葉バラックへ転じて来た。

(東京市編『大正震災美談』大日本学術協会、1924年)


二方芳松

〔金町で〕2、3日過ぎると、消防組、在郷軍人団、青年会等が連合して夜警が始まった。私もその人々と夜警に任じた。鮮人の暴動云々の噂が、しきりに広がる。すると自警団の人々から、私の貸作にいる伊衡三と言う一人の鮮人を引き渡せと迫って来た。同じ貸作の人々からもそう言って来る。

困ったことだと思いながら、「彼は一日の震災当日以来一歩も外出はしないで、謹慎している。決して暴行などをする人ではない。万一左様なことがあるとせば責任は僕が引受ける」と百万弁解して断じて引渡すことをしなかった。一方鮮人の彼にもよく言いきかして置いた。

その後度々引渡を要求し来ったが、私はどこまでも彼を保護したので、私の妻までが、余りあの人をかばっては同類と見られると言って心配をし始めたが、その内に警察から鮮人を習志野へ送って保護するというので彼を迎えに来た。彼は結局は殺されるものと疑ってシオシオとして習志野へ行ったのである。〔1カ月程で無事に帰って来た〕

(略)又一方村人が、風呂敷包を背負うて行く一支那人を見付け、捕えて見ると付近の馬小屋の馬力で、外に8人程おった。ところが流言に途迷うた在郷軍人の服を着けた小柄の男が、極力これを殺害することを主張した。私はこれに対して、とんでもないことだ。私刑は如何なる場合といえども国家の法を乱すものであると言って止める。けれども彼は容易に私の諌言を容れようとはしないで、頑として責任は俺が負うと言う。私は更に諭した。外国人を殺害せば、国交問題を惹起し、君一個の責任では済まぬ。その責任のかかるところは日本政府になる。〔略〕一同は解散した。

〔略〕ただしこの騒ぎの内に前記支那人の一人が45円入りの財布を竊取(せつしゆ)されたという事件が持ち上がった。私はその話を聞いて、如何に非常時の行動と言いながら、それは強盗である。早く調べて返せ、もし取った奴がどうしても返さぬと言うならば、他人を検問し身体を調べた一同の共同責任であるから、皆してこれを弁償せよと或は諭し或は叱った。かくてこの事件は兎も角もスツタモンダの上漸く返却して無事に落着した。

(「やむにやまれぬあの日の行動」東京市役所・『萬朝報』社共編『震災記念 - 十一時五十八分』萬朝報社出版部、1924年)


氏名不詳

奥戸橋で5、6人つかまえて橋の番小屋の所へつなつけて入れといたんだよ。青年会役人で朝鮮人をつかまえてみんな入れてしまう。〔略〕朝になって戒厳令がしかれたら、朝鮮人を橋の上で殺してしまう。剣付きでね。誰が殺すかというと国府台の兵隊さん。まあ新兵だな。上等兵がいっしょに来て、やりで橋の上からみんなつき落として。へイへイヘェ-、ズブリズプリね。それもまあ、見てた。」(証言)

「川に落ちた体は血をふき出し、その流れ出した血は川の中を尾を引いて流れていきました。50メートルも行くと死体はしずんで行くのでした。」(証言)

〔略〕2日「戒厳令」がしかれると馬に乗った兵隊を先頭に水元の方から、手をしばられた多くの朝鮮人が〔中川〕土手を通って浦安の方へ連れて行かれる光景もありました。こうして連れて行かれる朝鮮人はとてもおとなしく「悪い事はしません。悪い事はしません。」と言っていました。15、6の少年や少女は泣いていました。

〔略。中川奥戸橋で〕血まみれになりながらも、川の中ににげた人さえも、やっとの思いで岸にたどり着いた時には兵隊に、とどめをさされるのでした。それから2、3日してからも、川には死体がうかんでいました。それを見た村の子供達は、気味悪がって、竹の棒などでつついていました。

(奥戸中学校1978年度文化祭参加作品『ドキュメント 地震と人間 - 奥戸編』奥戸中学校郷土クラブによる聞き書き)

〈1100の証言;北区〉

田中幸助

〔2日夜、赤羽駅付近で〕私等は蚊を追いながら少しウトウトとしますと、突然起されました。聞けば鮮人らしいのが火薬庫(赤羽の)付近を徘徊したとかで、巡察将校(抜剣)や衛兵3名(付剣)外に在郷軍人の一隊で大騒ぎです。遠くの方では「ピストル」の音も聞えます。夜中数回駈回ったようでした。

(「大正大地震・罹災記」『社会事業史研究・第41号』2013年3月号、社会事業史研究会)"


高木助一郎〔王子村上十条(現・中十条1丁目)で被災〕

9月2日 本日午後より不逞鮮人この際或る行動を起せりという流言甚だし。〔略〕夜半(午前2時頃)不逞鮮人約300余人、尾久町方面より王子町に侵入、堀の内方面にては既に町民と鮮人との間に争闘開かれたりとの報あり。皆な棍棒或いは日本刀等を持ちて警戒す。榎町堀の内方面に於て警鐘を乱打して警戒する等物凄きこと限りなし。〔略〕自警団に於て鮮人を捕え来るもの多し。鮮血全身にかかれるもの頭部を負傷せるものなどありて物凄し。

9月3日 警戒の為め軍隊2箇小隊来る。夜、各町内軍人会、青年団等にて厳重に警戒をなし、要所要所に縄などを引き通行人は一々誰何したる上にて交通を許すなど物々しく誠に無警察の状態ともいうべきか。予、役場より帰途稲荷坂を上り岩槻街道より王子道を経て家に至る間誰何を受くること4回、警戒線(縄)にかかること2回、以てその厳重さを知るべし。

9月4日 夜、鮮人が井戸に毒を投げ入れ、又は放火をなすなどという流言甚しく、為めに夜警益々厳重なり〔略。以下に毒・爆弾投下・放火・掠奪等の記号の説明〕。

9月5日 本日より本町方面警備の為め2箇中隊の出動あり。民心悪るし。

本日より各町内その他自警団は警察の許可を要することとなりたり。それが為め警察と一般民衆との間に度々衝突あり。警察の門前にて悪口雑言し、中には某警部は社会主義者なれば打殺せなどと騒ぎたり

板橋火薬庫を鮮人の襲う計画ありとの噂高し。避難者の交通戦場の如く夜を徹して通る。

(高木助一郎著、本間健彦編『一市井人が日誌で綴った近代日本自分史 - 1908~1947』街から舎、2000年)


つづく

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