2023年9月29日金曜日

〈100年前の世界078〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉚ 山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」② 「不逞鮮人」=「共産主義者」=「パルチザン」 殺害に関して官憲の指示 警察の中での虐殺見たという証言 軍隊による虐殺 横浜港の様子 習志野騎兵15連隊       

 

山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」(「大原社会問題研究所雑誌」668 2014.6)


大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉚ 

山本すみ子「横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」②


■「不逞鮮人」=「共産主義者」=「パルチザン」

神奈川県警高等課長西坂勝人の回想(「神奈川県史研究」1971年11月)

あの当時でさえ分からなかった(デマの発生について)のですから,今になって調べて見ても分からないでしょうね。要するに,あの頃は「不逞鮮人」と言う言い方をされていましてね。共産主義者のことですね。私は福島県で経験していましたから分かっていますが「不逞鮮人」というのは共産主義を主張とし行動する朝鮮人をそのように呼称していたのであります。

なかでも過激な主張や行動をするものには尾行をつけたこともあります。

それらが,朝鮮人で横浜にいたものが,多少乱暴する傾向があったので,こういう混乱時にはまず「不逞鮮人」が危ないという考えを,誰かが言いだしたのが,朝鮮人襲撃の発端だったのだろうと思います。

■殺害に関して官憲の指示があった(日時、(出典)、氏名、場所、伝聞内容)

9月2日 長岡熊雄部長判事(横浜地方裁判所震災略記) 横浜桜木町付近 

警察部長から〈鮮人〉と見れば殺害しても差し支えないという通達が出て居ると

9月2日 小野房子判事夫人(同上) 横浜   

鮮人が300人ほど火をつけに本牧へやって来たそうだから,もの言って返事をしない者は鮮人とみなして殺してよいとの達しがあった

9月2日 石坂修一判事(同上) 横浜藤棚   

(藤棚の従弟夫婦の家)鮮人と見れば直に殺してよしといふ布令が出たりと,余は当然之を否定する気持ちもなく又肯定する気持ちもなくて

9月  風説   横浜   

市内の風説によれば,震災の際警察署より「鮮人殺害差支なし」との布告を発したりと。(横濱市震災誌)

9月  壽警察署長(同上) 横浜 

本件の根拠不明なるも,巡査などが,朝鮮人放火等の風評を聞き「朝鮮人は殺してもよい」位の事をいひたるに起因するものならんか

9月2日 黒河内巌(黒河内巌日記 横浜開港資料館所蔵) 横浜高島山 

朝家族を引き纏め高島山に避難し露営せり。同夜は朝鮮人が飲用水井戸へ毒を打ち込みたりとて,鮮人と見たら皆,打ち殺せと極端なる達しあり,依て鮮人と間違ひなぐり合等にて混雑せり

■警察の中で虐殺された朝鮮人を見たという証言

東の空がだんだん白らんで来る頃,私は松山へ行こうと思って足をはやめた。壽警察の前を通りこそうと思うと,門内から生む生むとうめき声が聞こえて来た。私は物ずきにも,昨夜の事などけろりとわすれて,門の中へはいった。うむうむとうなっているのは,五六人の人が木にゆわかれ,かおなぞめちゃくちゃで,目も口もなく,ただ胸のあたりがぴくぴくと動いているだけであった。

(壽小榊原八重子)

(壽警察署) 山口正憲一派17名掠奪事件の公判証人調べ中。証人総数11名

被告人に不利な発言をした警察官にたいして,腹立たしくなった被告人たちが「壽署の警官が署内で多数の鮮人を殺したのを実見した 当時の警察官は血迷ふて居た」と証言巡査に喰ってかかっていた。

(「横浜貿易新報」1924.6.25)

■軍隊による虐殺

戒厳司令部「震災警備の為兵器を使用する事件調査票」には、軍隊が朝鮮人を虐殺した事実が記録されているが、横浜・神奈川の記録はない。多くの地域では、証言・聞き取り・個人の日記・回想録・体験談などを通して明らかになっているが、横浜では聞き取り作業がなく、回想録や新聞記事でしか分からない。

神奈川に軍隊が入ったのは9月2日夜。海軍次官の伝令を受け、横須賀鎮守府司令官が海軍の駆逐艦2隻を横浜に派遣し陸戦隊が上陸。

習志野からの騎兵15連隊(250名の精鋭)3日午後2時40分陸路で到着。それより前、3日11時歩兵第一連隊(110名)が駆逐艦で横浜へ上陸、4日朝神奈川警備司令官奥平少将が歩兵第五十七連隊(630名)等を率いて横浜に到着し、戒厳令を伝える。

■「大阪時事新報」特派記者監澤元治が書いた横浜港の様子

(彼は、大阪から列車と船を乗り継ぎ、横浜に上陸、その後徒歩で東京に向かう)。

(横浜の海岸に上陸)岸に上がると十七八名の国粋会員が長刀を突付けた。「もう殺されるのだ」と覚悟を極め荷物を捨て手を上げた。「貴様は日本人か」と云う「日本人である」と答へると「大阪から来たなら社会主義者ではないか」・・・「こんな戦場に飛び込んでくる奴があるか」 1丁ほど進むと道端には見るもむごたらしい死様をした死骸が五つ六つごろごろ転がってゐる。・・・陸戦隊は右往左往して秩序維持に努め三日夜までに既に六百人の○○を○○し○○○○○もドンドンされた、言葉付きや顔が似たという許りで○○された者も大分多い・・・横浜を1町毎に誰何されつつ東海道にでた記者は徒歩で東京に行くことに決心し騎馬兵が駈け散らして行く街路を1歩宛進んだ 警戒が厳重で道路1町毎に青年団消防隊国粋会員などが長刀短銃と槍を提げて関所を設けて居る 東神奈川に着くと三名の○○が騎兵隊に追いまくられて道路に飛び出したので忽ち○されてしまった。・・・

(「大阪時事新報」1923.9.6 監澤元治記)

彼は列車で沼津まで来て、清水港より商船アラスカ丸に乗船。3日午前9時頃、横浜港に到着するが下船許可が下りず船内に留まっていたが、「死んでもいい」と船長に迫り、3日午後6時ランチで港に着き上陸。港付近では、虐殺された朝鮮人の死体がゴロゴロしていること朝鮮人狩りをしているのは国粋会会員であること神奈川では騎兵隊が朝鮮人を虐殺していることが分かる。特に徹底した誰何の厳しい様子が分かる。1町ごと(約100メートルおき位)に誰何されたので、品川まで300回程取調を受けたようだ。

3日夕方は,騎兵隊も横浜に来ている

■習志野騎兵15連隊

横浜に来た騎兵隊は、習志野騎兵15連隊で、東京に到着すると休憩もそこそこにして横浜に向かっている。騎兵隊兵士の越中谷利一は、「僕がいた習志野騎兵連隊が出動したのは、9月2日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに所要時間僅かに30分しか与えられなかった。二日分の糧食及び馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は60発。将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるから、さながら戦争気分・・・」と記録している。戦場に出動する準備と変わらない準備から、敵は朝鮮人と意識して出動した様子がよく分かる。司法省の調査では,千葉の殺害事件のうち9件中5件が騎兵15連隊がやっているその騎兵15連隊が横浜東神奈川で朝鮮人を虐殺している


つづく

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