1889(明治22)年
5月26日
田中正造、「明治倶楽部」発会式。400人。旧改進党系。明治23年第1回総選挙での正造の基盤となる。
5月25日
子規は喀血する前の5月1日、七種の異なった文体(漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古文体小説で編んだ和漢詩文集『七艸集』を脱稿し、友人たちに回覧していた。この日、この『七艸集』の末尾に、漱石は漢文で評を書き、七言絶句9篇を付けて、翌26日、病床の子規を見舞い、返却した。このとき初めて「漱石」と署名する。
5月27日 漱石は手紙でこの漢詩について言及する。
自分の漢詩を「小児の手習」と卑下し、「切り棄てゝ屑籠」に捨ててくれと言い、その漢詩を病んだ子供に、作った自分を「親」に喩えて、古代中国の伝説上の名医「扁鵲(へんじやく)」でも治すことの出来ない病だから「殺した方」がいいと書く。子規を医者に喩え、「君の配剤」(薬の調合)で「頓治」させてくれないかと文学上の交わりを結ぶことを申し出ている。
そして「漱石より」と署名し、「丈鬼様」と常規(子規)をもじった宛名を書いたうえで、手紙末尾に「七草集には流石の某も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り後にで考ふれば漱石とは書かで潡石と書きし様に覚へ候」と書き添える。「漱石」という号が初めて使われたのは、子規の『七艸集』の評への署名だった。
■『七艸集』と子規と漱石
「喀血に少し先立つ五月一日、子規は、漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古体小説という七種類の文体で作った文集をまとめ、『七草集』と題したその文集を友人たちに回覧して、それぞれの批評を乞うた。・・・・・「アシにはこんなこともやれるのよ」と松山弁で得意気に呟いている子規の顔が眼に浮ぶようなこの文集に接して、強い印象を受けたことだろう。
これは必ずしも、その出来はえに感服したということではない。後年の回想によれば、彼は、子規の漢詩はそれなりに認めたものの漢文の方はまったく買わなかったらしいが、そういうことはさしあたって問題とするには及ぶまい。そういったこと以上に、おそらく漱石は、同時に七種類の文体を試みるなどという子規の好奇心の多様なひろがりに興味をそそられただろう。もちろんそれが単なる何でも屋の仕事ならどうということもないが、子規の場合は、すみすみまで生き生きとした欲情につらぬかれた仕事であって、強力な生命体とでも言うべき子規の姿があらわに立ち現われていた。そしてそういう子規の姿と彼を襲った喀血という事実とが、漱石のなかで激しくからみ合ったと考えられるのである。漱石は、・・・・・五月十三日付けで見舞いの手紙を書き送っている。・・・・・そこには子規という人物に対する尊重もすけて見える。
一方、子規の漱石観は、漱石の『七草集』評を読んだことで一変したようだ。彼は漱石が英文に抜群の才能を示していることはすでに知っていたが、意外なことにこの評文は見事な漢文で書かれ、さらに九編の七言絶句まで付されていたのである。子規は、藩の儒家であった母方の祖父大原観山その他の人びとによって、ごくおさない頃から漢詩文の素養をたたき込まれていたから、この分野に関しては並々ならぬ自信を持っていただろう。その漢詩文の分野において、突如として容易ならぬ強敵が出現したわけで、当然、子規の思考も感情も、この新しい友人に対して活性化されたはずである。」(粟津則雄、前掲書)
■「漱石」の由来
中国の春秋時代、晋の国の孫楚が「石に枕し流れに漱(すす)ぐ」と言おうとして、「漱石枕流」(「石に漱ぎ流れに枕す」)と言ってしまった。しかし、孫楚は間違いを認めなかったので、この逸話は負け惜しみの強いことをさすエピソードになった。『蒙求』に修められている故事だが、漱石は自分の性格に負け惜しみが強いことを自覚し、この故事にちなんで「漱石」と名乗った。
(「漱石」と「子規」の雅号は奇しくも同年同月に名乗られたことになる)。
漱石は1905年4月13日、森巻吉(英文学者)から雅号を頼まれたときの返信に、「僕の号は蒙求にある極めて俗な出処でいやになつ〔て〕るが仕方がないから用いて居る」(『漱石全集』22巻)と述べ、3年後の11月『中学世界』(11巻15号)で、「小生の号は(中略)、今から考へると、陳腐で、俗気のあるものです。然し今更改名するのも臆劫だから其儘用ひて居ります。慣れて見ると、好も嫌ひもありません。夏目と云ふ苗字と同じ様に見えます」(『漱石全集』25巻)と言っている。
子規の文集『筆まかせ』には、自分の雑号を60以上もあげて、その中に「漱石」があり、「高慢なるよりつけたものか」と述懐し、「今友人の仮名と変ぜり」(『子規全集』10巻)とある。子規も「漱石」を金之助が名乗る以前に使っていた。
漱石が余り深く考えずにこの雅号を使った様子が、5月27日付子規宛手紙の追伸に見える。
「七草集には流石の某(それがし)も、実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通(つう)がりて、当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り。後にて考ふれは、漱石とは書かで潡石と書きし様に覚へ候。此段御含みの上御正し被下度先は其為め口上左様。
「米山大愚先生傍より、自己の名さへ書けぬに人の文を評するとは「テモ恐シイ頓馬ダナー」チヨン々々々々々」
5月26日
大杉栄(4)、麹町の富士見小学校附属幼稚室の6ヵ月保育を終える
5月28日
農商務相井上馨、脳病と称して閣議欠席。前年7月入閣に際して、黒田首相は井上が準備中の「自治党」への特別扱いを条件とするが、これが実現されないため。6月8日3週間の休暇願い提出。14日閣議出席し「内閣職権」の首相権限縮小する意見書提出。21日閣議で意見書審議が後回しされ遂に辞意表明。7月6~7日黒田首相、松方蔵相、大隈外相が慰留、7日朝一応辞意撤回するが、依然閣議欠席が続く。
5月28日
山本宣治、誕生。
5月29日
内田百聞、岡山市古京町149番地に生れる。家業は酒の醸造業。祖父の名をついで栄造と名乗る。
5月31日
条約改正反対運動~翌月2日。
大隈重信外相の条約改正案に関するロンドン・タイムス記事を雑誌「日本」が掲載。国権派・民権派の反対運動のきっかけとなる。大隈案では、外国人被告は終審または第1審で大審院審理を受けることができ、大審院では日本政府雇用の外国人判事が多数を占める、とされる。井上案は司法権放棄と批判されたが、大隈案はそれに加えて憲法違反との非難。
5月末
大杉栄(4)の父・東の歩兵第16連隊への異動に伴い、一家で新潟県北蒲原郡新発田本村へ移る。こここでは11回転居する。こで、小・中学校に通い、17歳で上京するまでいる。
つづく
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