2024年2月3日土曜日

大杉栄とその時代年表(29) 1889(明治22)年5月1日~22日 第一高等中学校に国粋主義を標榜する結社(漱石・子規、加入するも積極的行動はとらず) 子規『七艸集』脱稿 大同団結運動分裂 子規喀血 「卯の花をめがけてきたか時鳥」 「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作り、以後「子規」と号す 漱石、子規を見舞い、のち子規を励ます手紙を書く


 大杉栄とその時代年表(28) 1889(明治22)年3月~4月 岡本かの子・和辻哲郎・チャップリン・ヒトラー生まれる 光緒帝(19)親政 森鴎外(27)結婚 後藤象二郎入閣 エッフェル塔完成 北村透谷「楚囚之詩」 尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』 より続く

1889(明治22)年

5月

韓国、黄海道で防穀令(対日穀物輸出禁止令)、施行

5月

饗庭篁村「掘出しもの」(「新著百種」)。

5月

高田早苗「美辞学」(金港堂)5、6月。

5月

「法学士会」、「法典論争」の導火線となる。旧東大法学部・帝大法科大学卒業生の組織。法典編纂における政府の拙速主義と慣例無視(泰西主義)を批判。

5月

一葉(17)の父則義、大病(脚気か)に罹り病床に臥す。則義に頼まれて、同年7月東京専門学校を卒業する渋谷三郎は、一葉との婚約に同意。南多摩自由党員であった三郎の感化で、女権拡張論に関心を持ちはじめ、初めて政治小説風の断片を書く。

5月

第一高等中学校教頭木下広次が校長に昇任すると、学校当局は国粋主義派を支持する態度を明らかにしはじめる。木下はのちに法学博士、京城帝国大学総長。

この頃、第一高等中学校生徒のあいだに国粋主義を標榜する結社が生れた。漱石は勧誘されてこの結社に加入したが、積極的な行動はとらなかった。子規もまた漱石と同じであった。


「近頃我高等中学校に道徳会ともいふべきものを起す人あり。余にもすすめられたれど、余は之に応ぜざりき。漱石も亦異説を唱へたり。其言に曰く、「余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就(つい)て善悪を定むること能はず。然るに今道徳会を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」と。余の説も略々(ほぼ)これに同じ。今日善とする者果して善なるか。今日非とする者果して非なるかを疑ふ者なり。」(正岡子規『道徳の標準』-明治二十二年の断片-)

「国家は大切かも知れないが、さう朝から晩迄国家々々と云つて恰も国家に取り付かれたやうな真似は到底我々に出来る話でない。常住座臥国家の事以外を孝へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間断なく一つ事を考へてゐる人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売つてあるくのは、決して国家の為に売つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る為である。然し当人はどうあらうとも其結果は社会に必要なものを供するといふ点に於て、間接に国家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必ずしも国家の為に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の叉間接に云へば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係してゐないとも限らない。然しながら肝心の当人はそんな事を考へて、国家の為に飯を食はせられたり、国家の為に顔を洗はせられたり叉国家の為に便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実出来ない事を恰も国家の為にする如くに装ふのは偽りである(『私の個人主義』)

党派心がなくつて理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作つて、権力や金力のため盲動しないといふことなのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。」(『私の個人主義』)

5月

大阪紡績の山辺丈夫、原料綿花は「必ずやこれをわが西隣シナ地方にもとめざるべからず」と指摘(「連合紡績月報」)。

5月1日

子規、「矍麥(なでしこ)の巻」を書き添え『七艸集』脱稿。「七艸集批評」の序文を記して友人に回覧。

5月2日

エチオピア、イタリア保護国となる。エチオピア皇帝メネリク2世、イタリアとウッチャリ条約締結。

5月5日

フランス革命100周年記念パリ万国博覧会開幕。エッフェル搭公開。

5月6日

大同団結運動の分裂。憲法大赦で出獄した民権運動指導者・活動家を迎えた大同団結運動は、組織統一や運動方針を煮詰め5月10日に大同大会を開く方針。だが、主義、綱領、議案などを論議していた起草委員会で、組織のあり方をめぐり紛糾。

後藤象二郎側近グループや河野広中ら東北グループは大同派の組織を「政社」とするべきだと主張(集会条例に基き政社として届出、活動の自由を確保し、活動を自己規制)。一方、大井憲太郎ら関東派や中江兆民、内藤魯一らは「非政社」(集会条例の規制にとらわれない自由な活動をめざす)を主張して対立。この日、両者は、「政社派」と「非政社派」に分裂。

10日には「政社派」は「大同倶楽部」「非政社派」は「大同協和会」結成。石阪昌孝ら神奈川県旧自由党系主流は「非政社論」を唱え大井憲太郎らが設立した「大同協和会」に参加。

板垣退助は、大同団結運動分裂に際し当分不介入を表明、「官民調和論」を述べる。政府と闘い議会解散が続くのも嫌、さりとて政府を組織する力もない。政府が自己革新するのを助ける以外に途はないとする(政府は国事犯を大赦し、後藤を逓相に迎え、その政策を変えつつある…、と続く)。後のいわゆる「土佐派の裏切り」のベース。

後藤入閣により大同団結運動は中心人物を失う。大赦で旧自由党額袖が出獄したことも運動分裂に拍車をかける。後藤側近は入閣に賛成し、閣外呼応を呼び掛けるが、領袖たちの支持は得られず。また、領袖たちは、もともと後藤側近より格上と看做されていたので、後藤系の運動に参加することを望まず。

大井憲太郎は、後藤入閣を裏切りとし、大同団結運動を非政社の緩やかな連合体として展開することを発議。しかし民権運動家の記憶には旧自由党が急進派激化で失敗した記憶が生々しく残り、その為、非政社の連合体では運動を広汎に拡充し天下の人心掌握ができないとする意見が多数を占め、大井の発議は否定される。彼はこれを快しとせず、関東派を率いて分派。

明治23年8月、左派「大同協和会」・中間派「大同倶楽部」・右派「愛国公党」、立憲自由党に統合。

5月8日

ゴッホ、サル師に付き添われ、サン・レミの精神療養院へ向かう。元修道院の療養院の中に、自室の他に制作室を与えられる。

5月9日

夜 子規喀血。喀血は一度に5勺ぐらいずつ、1週間つづき、その後いつまでも血痰が消えなかった。山崎元修の診断受け、肺結核と診断される。

5月10日 俳句40~50句を作り「子規」と号す。

子規は、

「卯の花をめがけてきたか時鳥」

「卯の花の散るまで鳴くか子規」など、

時鳥(ほととぎす)の句を数十種作り、以後、「子規」と号するようになる

子規は卯年の生まれで卯の花を自分になぞらえた。

時鳥は、「啼いて血を吐く」と言われ、肺病の象徴であった。

子規は、この時、「今より十年の命」(「喀血始末」)と覚悟したという。


「五月九日夜に突然(何の前兆もなく)喀血しました。併し自分は喀血とは知らず咽喉から出たのだと思ひました。(咽喉から出たことは前年ありました)勿論喀血の咳嗽(せき)に伴ふことは後に知りました。翌十日は学校へ行かんと思ひましたが、朝寐して遅刻しましたから友達の勧めに従ふて医師の処へ行き診察を請ふと、肺だといふので自分も少し意外でありました。医師はまた其日は熱が出るから動くなといひましたが、拠(よんどころ)なき集会があつて其日の午後には本郷より九段坂まで行き、夜に入りて婦ると又喀血しました。それが十一時頃でありましたが、それより一時頃迄の間に時鳥(ほととぎす)といふ題にて発句を四五十吐きました。尤もこれは脳から吐いたので肺からではありませねから、御心配なき様イヤ御取違へなき様願ひます。これは旧暦でいひますと卯月とかいつて卯の花の盛りでございますし、且つ前(まえ)申す通り私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして、


卯の花をめがけて来たか時鳥(ほととぎす)

卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)


などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始りました。箇様(かやう)に夜をふかし脳を使ひし故か翌朝又々喀血しました。喀血はそれより毎晩一度づつときまつてゐましたが、朝あつたのは此時ばかりです」(『喀血始末』)

5月10日

「大同協和会」結成。非政社論を唱える大井憲太郎・石阪昌孝(神奈川県の旧自由党系主流)ら。常議員大井憲太郎・内藤魯一・畑下熊野・石阪昌孝ら15名。翌11日、大同協和会の中心勢力「関東会」大会。常議員23名が選出(神奈川県からは石阪昌孝・天野政立・石塚某の3人)。石阪・天野は9月10日の東京倶楽部臨時総会でも常議員に選出される。

5月10日

東海道線にトイレ付き列車が登場

5月11日

高知県婦人会結成

5月13日

漱石は、米山保三郎、龍口了信と共に喀血した子規を本郷真砂町の常盤会寄宿舎(旧松山藩主久松家の育英事業の一つで子規は定員10名に選抜されていた給費生)に見舞い、さらに診察した医師山崎元修を尋ね、子規の病状、療養法を質す。

漱石は帰宅後、子規の肺結核を案じ、子規を励ます手紙を書く(漱石の子規宛書簡の現存する最初のもの)。

「今日は大勢罷出(まかりいで)失礼仕候。然ばそのみぎり帰途山崎元修方へ立寄り、大兄御病症並びに療養方等委曲質問仕候処、同氏は在宅ながら取込有之由にて不得面会、乍不本意取次を以て相尋ね申候処、存外の軽症にて別段入院等にも及ぶ間舗(まじき)由に御座候へども、風邪のために百病を引き起すと一般にて喀血より肺労または結核の如き劇症に変ぜずとも申し難く、只今は極めて大事の場合故出来るだけの御静養は専一と奉存候。小生の考へにては山崎の如き不注意不親切なる医師は断然廃し、幸ひ第一医院も近傍に有之候へば一応同院に申込み医師の診断を受け入院の御用意有之たく、さすれば看護療饗万事行き届き十日にて全快する処は五日にて本復致す道理かと存候。・・・・・、生あれば死あるは古来の定則に候へども、喜生悲死もまた自然の情に御座候。春夏四時の循環は誰れも知る事ながら、夏は熟を感じ冬は寒を覚ゆるもまた人間の免かるる能はざる処に御座候へば、小にしては御母堂の為大にしては国家の為自愛せられん事こそ望ましく存候。・・・・・

「to live is the sole end of man!(*生きることこそ人間の唯一の目的)」

五月十三日

帰ろふと泣かずに笑へ時鳥

聞かふとて誰も待たぬに時鳥

(略)

僕の家兄も今日吐血して病床にあり。かく時烏が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし。呵々。」

「時烏は死への導きの鳥として知られ、・・・蘆花の小説の題のように「不如帰」(帰るに如かず)と表記されることもある。それを子規の訓みでもある「ほととぎす」の季節に事寄せて、激励した句である。こういう奇智の働きに漱石はすぐれていた。彼が子規との交わりを通じて多数の句を残すことになったのも当然である。」(岩波新書『夏目漱石』)


手紙の末尾で漱石は、「僕の家兄も今日吐血して病床にあり斯く時烏が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし呵々」と書く。

大笑い(「呵々」)と裏腹に、漱石は、兄の直矩が同じ日に「吐血」したことを打ち明け、自分の身内と同じように、あるいはそれ以上の心配をしていることを、さり気なく子規に伝えている。

漱石は、長兄・次兄を結核で亡くしており、三兄もまたこの時、結核で病床にあったため、殊更に子規の病状が気掛かりであった。

子規の病をきっかけとして、漱石と子規の交流はより一層、親密さを増して行く


「正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医師に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年の生れ)、肺病(結核)を時鳥で表現した俳句。「啼いて血を吐く時鳥」と形容された時鳥は、当時結核の代名詞であった。子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。」(和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫))

日頃負けん気強く、いつも肩ひじをはっていた子規は、級友たちに示された好意に素直な反応を見せている。


「余の病を聞くや余の朋友は続々と余の病牀(びやうしやう)をとひくれたり。親しきものはいふまでもなく、日頃うとくくらせし中も今は語りむつみて何くれと余を慰めくれぬ。蓋しこれ余の病名のよからざるによるとはいへ、余は千里の孤客、遠く家を離れて他郷に流寓(るぐう)し、身のよるべも少く、介抱なしくるる者もなきによりて、ひたすら愛憐の情を起せしによらずんばあらず。余も亦諸友の訪問を受けて、こよなくうれしく思ひぬ。親が子を介抱するは昔も今も同じ事にて変るべくもあらず。されど世の友は利を見ては就(つ)き、利尽きては離るるが通例なるに、かく迄にいたはりくれたる真心に余は感涙を流したり。今迄はあの人はいたくきらひなり、交際もせじなどと思ひしものも、余の病につき、かにかくと心配しくれたるを見て余は慚愧に堪へざりき。余は今後は前の如きさもしき心をすてんと思ひたちぬ。」(「病気見舞」)

「夏目金之助」と署名することをめぐる屈折した思い


「正岡常規と知り合う前、金之助は塩原姓であった。塩原姓から夏目姓に復籍したのが前年の一月。その前の年の一八八七(明治二〇)年三月に長兄の大助が、六月に次兄直則が、相継いで結核で死去したため、夏目家の家督相続に危機感を抱いた父親が、金之助を塩原家から夏目家に復籍させようとしたからである。その際、夏目家から塩原家に支払う養育費の証文に、彼は「金之助」と署名させられていた。自分という人間が、金で売り買いされているかのような証文に、「金(かね)」「之(の)」「助(たすけ)」と署名することの屈辱。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

漱石の子規宛て手紙


「漱石の子規宛書簡は、現在八十九通(『漱石全集』二二巻 一九九六年、岩波書店)。子規の漱石宛書簡は、計二十一通(『子規全集』一八、一九巻一九七七ー七八年、講談社)である。子規は「無暗に手紙をよこした男」(談話「正岡子規」)と漱石は語っているが、このことは『子規全集』に千百余通収録されていることからも証される。子規の漱石宛書簡の現存が少ないのは、漱石が引っ越しをする度に、自分のところへ来た書簡の殆どを焼いたからである。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)


「漱石書簡集の最初の書簡一(明治二二年五月十三日)から三二(二六年四月二日)までは全て正岡子規宛である。」

5月15日

(露暦5/3)露、レーニン一家、サマラ県に移り93/8迄の4年間を過ごす

5月16日

東京・京都・奈良に帝国博物館が設置

5月22日

「国民之友」、大同団結運動は大赦出獄した旧自由党民に乗っ取られたと嘆く。


つづく

0 件のコメント: