2021年2月20日土曜日

私たちはなぜ怒りが必要なのか 名著「ディスタンクシオン」に学ぶ(毎日); 石井洋二郎さん「日本でも世界でも、富の極端な偏在が起きていますよね。一部の人だけが巨万の富を独占し、大半の人はそこまで豊かではなく、極端に貧しい人たちも大勢いる。こうした状況は、ブルデューが怒りを向けた「世の中の不正」そのものです。」

2021年2月19日金曜日

なぜ、57歳母と24歳の息子は死んだのか〜「八尾市母子餓死事件」の調査のため、八尾市に ; 水道が止まり、家賃滞納で追い出されるまでに困窮していた母親と長男。 公園で寝泊りをするなど、生活は追い詰められていた。 しかし、なんとか助けてほしいとの思いで頼った役所に突きつけられたのは「一括で20万円を返せ」という要求だった。(雨宮処凛) / 八尾市の母子餓死事件、SOSを見過ごした生活保護関係者の「信じ難い弁明」(みわよしこ) / 生活保護の女性死亡で検証求める(NHK)



 

「橋本聖子氏は“男勝り”」自民党重鎮発言が炎上…擁護のつもり?男女を比較する表現の是非(FNN) ← 男に近い女性なのでウワサされてるセクハラ、パワハラは問題ない、って? / 元鳥取県知事の片山氏 島根県知事に注意発言の竹下氏に「上司でもないのに…変」(デイリースポーツ) ← 竹下さん、アンタ何様? / 島根県知事“聖火の乱”が波紋も…竹下亘「注意」にビビらず(日刊ゲンダイ)   

 

尹東柱の生涯(1)1917年12月30日 北間島明東村に生れる 「彼(東柱の父)は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。」  

尹東柱の生涯(1)1917年12月30日  北間島明東村に生れる 「彼(東柱の父)は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。」

1917年12月30日

北間島ブッカンド(当時は中華民国)明東ミョンドン村に生れる。父は尹永錫ユンヨンソク(明東学校教員)、母は金龍キムリョン。祖父尹夏鉉はキリスト教の長老。

いとこ(尹永錫の妹・信永の子)の宋夢奎ソンモンギュは同年9月28日に出生。

尹東柱・宋夢奎ともにキリスト教長老教会で幼児洗礼を受け、5歳まで同じ家で育つ。

2人は、1945年、同じ事件、同じ罪目をでっち上げられて、日本の福岡監獄の一つ屋根の下で、約1カ月違いでそろって獄死する。

曾祖父の尹在玉の代、移民の草創期(1900年)に北間島へ移住して成功し、農夫にとって最大の賛辞である「富者」という言葉で呼ばれるようになる。

尹東柱の家と親しくしていた金信黙(キムシンムク、1895年生。尹東柱の幼なじ文益煥牧師の母)ハルモ二〔おばあさん〕が語る、尹東柱が生まれたころの北間島の様子。


欧羅巴戦争がつづくあいだ欧羅巴では農業ができなくなったからだろうね…‥。北間島からとてもたくさん白太(バッテ大豆)を輸出したんだよ。生産しさえすれば穀物商たちがやってきてせんぶ欧羅巴へ運んだ。

・・・

穀物商たちはもっぱら白太ばっかり買っていったよ。みんな白太を植えてお金をたくさんもうけた。だからせまい土地を開墾してた人が広い土地を買い、小さな家で暮らしてた人が大きくて広い家を建てて移っていった…‥。尹東柱の家もそのとき白太をやってかなり儲かったんだ。あの家はもともとかなり裕福な家だったけどね。


尹東柱の下の弟・尹一柱(ユンイルジュ)が描く生家の様子。


わがきょうだいは三男一女だった。わたしの上に姉の恵媛ハウォン、下に弟光柱クァンジュがいる。龍井で生まれた弟光柱以外のきょうだいが生まれた明東の家は、村でも目立つ瓦葺きの家だった。庭にはスモモの木があり、屋根を上に載せた大きな門を出ると敷地につづく畑と脱穀の庭地、北側の囲いの外には三〇株ほどの杏とスモモの果樹園、東のくぐり戸の向こうには井戸があって、そのかたわらに大きな桑の木が立っていた。その井戸の向こうの東北側の傾斜の中ほどに教会堂と古木の上に設けた鐘楼とが見え、その先の東南のほうには、この村につりあわないほど大きい学校と日曜学校の建物が見えた。

(尹一柱「尹東柱の生涯」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、152頁)


尹東柱の竹馬の友だった文益煥が回想する祖父、尹夏鉉。


わたしが見るところ、明東のさまざまな人びとのなかで尹夏鉉長老は人物がもっとも大きかった。「東満〔北間島を含む満州東部をさす〕の大統領」という別号まであった金躍淵牧師よりも、人物としてはむしろ大きな人だった。なにしろ度量が大きく堂々とした人で、学問はない人ながら、学者の村である明東でたいへん尊敬されて過ごし、教会の長老にも選ばれた。人となりの幅が大きくて、学問を身につけていたら本当にもっと大きなことをしたにちがいない。


尹夏鉱は11歳のとき父母に従って北間島子洞にわたってきて、姜氏の娘と結婚、20歳のとき息子の永錫(東柱の父、1895-1962)をもうけ、その下に二人の娘、信永と信真を得る。

東柱の父の尹永錫は農夫だった曾祖父、祖父とは違った道に進む。

1909年から明東学校で新学問を学び、1913年(18歳)には仲間4名とともに中国の首都・北京に留学、人も羨む「北京留学生」となった。しかし、明東中学校卒業程度の学力では、そのまま大学に行くことはできなかったらしい。北京から戻ってからは母校の明東学校で教員になった。

1923年、再び志して東京に留学し、塾のようなところで英語を学んでいる。

彼は「詩的気質の人物」だったといい、とりわけ教会で公衆祈祷〔キリスト教会の礼拝のさい、会衆を代表して声を出してする祈祷〕をするとき、彼の言葉はいかにも詩的だったという。

日本留学中の1923年9月1日、関東大震災に遭遇。安否を気遣う妻、金龍のもとに「ネバ マインド」との電報を打つ。

1918年4月9日

明東学校新校舎落成式

1919年

3・1独立運動と明東学校の廃校令

1919年9月はじめに韓俊明ハンジュンミョン少年(のちに明東学校で尹東柱を教える)が明東に移り明東小学校に転校したとき、その実情を目撃している。


万歳運動(1919年の3・1独立運動、龍井では3月13日に起る)のとき明東学校の学生が死んだとかいうことで、ともかく中国の官憲は学校を使えなくしたそうです。学校は空っぽにして、学生たちは個人の家に集まって勉強していました。学校を使わせないよう見張るために、中国の兵隊が何人か村に入って泊まっていました。日本との関係のためにそうしたんでしょう。あとでまた学校にもどって勉強しました。そのうちに庚申年〔一九二〇年〕の大討伐のとき、学校に火が放たれたあと、またしばらく個人宅で勉強しなければならなくなったんです。


1920年10月20日

日本軍の大規模な間島大討伐により明東学校が焼かれる。日本軍が間島に入ってきて真っ先に討伐したのが明東学校だった。いわゆる「不良鮮人の巣窟」として明東学校がどれほど憎悪の対象となっていたかを実証する事実である。

(1922年、日本政府が金を出して元の形に復旧)

1920年を境に、明東学校の輝かしい名声はしだいに光を失っていく。この年、間島に来ていた力ナダ宣教師が、交通の要地である龍井に恩真中学校、明信女学校などのミッションスクールをつくり、前からあった永信、東興、大成学校などとともに、龍井が北間島における教育の中心地になった。

また1920年の日本軍の大討伐以来、北間島全域で独立運動の勢いが大きく削がれ、多くの独立軍と独立運動家がロシア領や中国本土へ亡命し、北間島を離れてしまった。

おまけに1924年、有名な「甲子年の旱魃」による大凶作のため、深刻な経営難まで重なった。

尹東柱が小学校に入学する1925年には、明東中学校はもはや運営不可能となって門を閉じ、小学校だけが明東村出身の学生のみで命脈を保っていた。

共産主義の台頭

①独立軍は、日本の討伐軍を避けてロシア領に越境していったが、再び戻って来た人たちが共産主義思想を直輸入した。

②レーニンの資金面での支援

③日本軍の暴虐からくる絶望感や中国人地主の搾取に苦しむ人々に共産主義思想が浸透していった。


つづく


《参考文献》

多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱 『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)


宋友恵著・会沢革訳『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店)


《関連記事》

(YouTube) 『たやすく書かれた詩/쉽게 씌어진 시 (윤동주 다큐멘터리)』 ; 韓国の国民詩人である「青年、尹東柱」の足跡をたどり、70年後の韓国人の留学生である後輩が製作したドキュメンタリー映画

隣国語の森  (茨木のり子) ; 若い詩人尹東柱 / 一九四五年二月 福岡刑務所で獄死 / それがあなたたちにとっての光復節 / わたくしたちにとっては降伏節の / 八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは

1945年(昭和20年)2月16日、福岡刑務所で韓国の詩人尹東柱(ユンドンジュ)が獄死した / 早世の詩人尹東柱と同志社 (『朝日新聞』) / 獄死した尹東柱(ユン・ドンジュ) その詩と治安維持法 (山本宗補の雑記帳) / 獄死の韓国詩人、尹東柱しのぶ 同志社大で没後70年式典 (京都新聞)

詩人茨木のり子の年譜(9) 1982(昭和57)56歳 第六詩集『寸志』 1983年 『現代の詩人7 茨木のり子』 ~ 1986(昭61)60歳 『ハングルへの旅』(朝日新聞社) ~ 1989(平1)63歳

【書評】多胡吉郎著『生命の詩人・尹東柱』の書評が「東京・中日新聞」に掲載! 評者は嶋岡晨さんです。「尹東柱の生涯を―つまりは彼の思想を、詳細かつ執拗なデータ(ノート類や原稿下書きに及ぶ)の精確な確認作業によって検証し、真摯に再生」 / 【書評】多胡吉郎著『生命の詩人・尹東柱』の書評が「週刊読書人」にも掲載! 評者は細見和之さんです。「核に置かれているのが、まさしく尹東柱にとって「すべての死んでゆくもの」とはなにだったか、という問いである。」

韓国詩人ユンドンジュ (京都新聞) : 「特定の秘密を保護する」という名分の法が成立した今こそ、尹東柱の非業の死を胸に刻みたい。きょう16日は命日にあたる。


菅首相、長男の接待疑惑「森友以上」の深刻度 不祥事が政権危機につながるボディブローに(東洋経済);「正剛氏は学生時代からミュージシャンとして活動し、大学卒業後も定職に就かなかったため、心配した菅首相が2006年の総務相就任時に政務秘書官に起用。その後、正剛氏は東北新社に入社した。  「コネ入社ではないか」との野党の追及に対し、菅首相は自らの教育論を述べ、「『自分のことは自分で責任をもって生きていく』と強く言って育ててきた」と防戦した。」   

 



 

2021年2月18日木曜日

鎌倉散歩 長谷寺(梅、河津桜、玉縄桜、マンサク) 御霊神社の河津桜 甘縄神明神社の玉縄桜 華正樓(鎌倉店)でランチ 2021-02-18

 2月18日(木)、はれ

今日も快晴。暖かい。

今日は、鎌倉、長谷の華正樓でランチして、長谷寺~御霊神社~甘縄神明神社~鎌倉駅まで歩いた。総歩数は1万2千歩。

長谷寺の梅はピークをやや越えたくらいのところだろうか。

良いのかそうでないのか、人が少ない。






▼河津桜


▼玉縄桜

▼マンサク

▼御霊神社の河津桜

▼甘縄神明神社の玉縄桜


▼華正樓鎌倉店
和室の個室でゆっくりと(2時間ほど)ゴハンを食べた。



2021年2月17日水曜日

藤沢(片瀬)の常立寺 枝垂れ梅(白梅)が満開 2021-02-17

 2月17日(水)、はれ

快晴だが強風。気温13℃。

藤沢(片瀬)の常立寺の枝垂れ梅(白梅)が満開。

このお寺は元寇の際の元使(元の使節)が龍口の刑場で処刑された後、葬られたと伝えられるお寺で、モンゴル人力士がたびたびお参りに訪れている。







▼片瀬西浜海岸
強風のため波が荒く、勿論サーファーさんはゼロ。真っ直ぐに歩くのもままならない状況なので、すぐに引き上げた。

▼自宅近くの公園の河津桜

【バレてしまった国会軽視の虚偽答弁(ありえない言い訳「記憶力不足」)】 「記憶にない」→「一部は事実」→「発言あった」 更迭の総務省幹部、小出しの接待説明(東京) / 菅首相長男も衛星放送発言を認める「自分だと思う」 総務省接待(毎日) / 総務省2幹部「更迭」 秋本局長「記憶力不足を反省」発言認める(毎日) / 「私の音声」だが会話は「記憶ない」 接待の総務省幹部(朝日) / 衛星放送事業語る音声 首相長男、総務省幹部接待で 週刊誌報道(毎日) / 総務省幹部が否定の衛星事業、接待で話題に 文春報道(朝日) / 菅首相長男“違法接待” 総務省局長「国会虚偽答弁」の証拠音声(文春オンライン);「「週刊文春」では接待現場の音声記録を解析した。.....東北新社の事業や衛星放送などにかかわる具体的な会話を正剛氏らと秋本局長が交わしていたことが判明した。」   

------------------- -------------- ----------------- ----------------



 

自民、またも「自粛破り」 白須賀氏離党 選挙に影響懸念 / 自民・白須賀議員が緊急事態宣言中に高級ラウンジ訪問 党幹部「離党は不可避」 / 自民離党し、次期衆院選出馬せずと白須賀氏 / ”夜のパパ活”麻布ラウンジ通い(週刊文春) / 〈午後8時を過ぎて港区の高級会員制ラウンジを訪れ、午後10時まで滞在…ラウンジは看板を出しておらず、自粛要請の中で深夜まで営業中。銀座に飽きた芸能人やスポーツ選手がお忍びで訪れる穴場とのこと。「白須賀先生も、秋元司先生ら議員仲間とよく使っています」と関係者〉    



 

2021年2月16日火曜日

鎌倉散歩 本覚寺の河津桜とメジロ 鎌倉市役所前の玉縄桜 若宮大路の玉縄桜 大巧寺の椿(あけぼの)と豊後桜 妙本寺の紅梅、白梅 2021-02-16

 2月16日(火)、はれ

今日は鎌倉の本覚寺の河津桜のところでメジロにたっぷりと遊んでもらった。200回くらいシャッター押して、まずまず見れるのがこの2枚↓くらい。ま、これくらいならいいかな?というレベル(二線級)の出来は30枚くらいあったけどね。

鎌倉市役所前の玉縄桜でもメジロにちょっと遊んでもらった。二線級の出来が一つはあったけど割愛。

妙本寺の白梅・紅梅は見頃だった。

今日は風が強くお花をじっくり撮るのには不向きだった。

メジロとのお遊びが過ぎたので、今日の総歩数は1万歩ギリギリ。

▼本覚寺の河津桜とメジロ

妙本寺への行きと帰りを合わせれば1時間くらいはメジロに遊んでもらったかも。通りすがりの人たちのコメントが面白い。「梅が咲いてるね」「いえ、これは河津桜ですよ」、「ウグイス可愛いね」「いえ、これメジロですよ」とやり取りしながら、、、、、

ま、笑えないよね。ワタクシだって、10年くらい前までは、そんなもんだった。




▼鎌倉市役所前の玉縄桜

▼若宮大路の玉縄桜

▼大巧寺の椿(あけぼの)と豊後桜


▼妙本寺の紅梅、白梅



〈インスタグラムより〉