2009年4月30日木曜日

天文6(1537)年 今川義元、信玄と同盟。北条氏綱、駿河侵攻。[信長4歳]

天文6(1537)年 [信長4歳]
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この年
・教皇、インディアンも人間であり、カトリック信仰を理解する能力を持つと宣言。
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・ラス・カサス、グアテマラの未征服地トゥストゥラで布教開始。スペイン人軍人を同行せず「平和的植民計画」を実施。布教に成功したあと地名をベラパス(真の平和)と改称。
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・~1538年頃、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、新教の盛んなアジャンに赴き、新教傾向のユマニスト、ジュールのセザール・スカリジェやフィリベール・サラザンと親交。迫害されかねなくなり言動を慎む。
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・デンマーク、ルター主義によるデンマーク国教会創設の勅令発布。
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1月1日
・パリ、スコットランド王ジェームズ5世、マドレーヌ (フランソワ1世長女)と結婚。
マドレーヌは、1537年7月7日(スコットランド帰国の数ヶ月後)、結核により没。その後、1538年6月12日ジェームズ5世は、ギーズ公娘マリー・ド・ロレーヌと再婚。1542年12月8日マリーは、メアリー・スチュアートを出産(1542~1587)。
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1月6日
・トスカナ公(フィレンツェ公)アレッサンドロ・デ・メディチ(23)、暗殺。
暗殺者は一族のロレンツィーノ(ロレンザッチオ)・デ・メディチ(22) 。ロレンザッチオはヴェネツィアの反メディチ派亡命者フィリポ・ネッリ・ストロッツィ邸に向う。後、フランス王家に仕える。1548/2/26ヴェネツィアでメディチ刺客により暗殺。
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インノチェンツォ・チボ枢機卿、48人評議会召集。非常大権発動し3日間、司政権掌握。カール5世に皇帝軍派遣を要請。アレッサンドロ遺児ジューリオ(5)を擁立して自ら摂政となる野望。
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フランチェスコ・グイッチャルディーニ、ジローラモ・デッリ・アルビッツィ、フランチェスコ・ヴェットーリなどは、コジモ・デ・メディチ17、1519~1574、位1537~1574)、を推しフィレンツェ帰還を要請。
コジモ母マリーア・サルヴェルティはコジモがフィレンツェ主席たるべきことを説く。48人評議会はコジモを元首に選出。カール5世もコジモを推す。
コジモ、トスカナ大公に即位(半年後、カール5世よりフィレンツェ統領⇒トスカナ大公の称号を与えられる)。
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[コジモ・デ・メディチ(コジモ大公)] 
父はルネサンス最後の傭兵隊長と呼ばれた剛毅な「黒備えジョヴァンニ」(マントヴァ近郊の戦いで重傷を負い、1526年11月30日28歳で没す。ジョヴァンニが生きていたら、半年後のローマ劫略(サッコ)~フィレンツェ劫略(サッコ)の悲惨を嘗めなかったものを、とフィレンツェの人々を悔しがらせたという。
母は、メディチ家と並ぶフィレンツェの名門サルヴィアティ家のマリーア・サルヴィアティ。
父ジョヴァンニの母は、イタリア第一の女と呼ばれたカテリーナ・スフォルツァ。1478年、父ガレアッツォ・マリーア暗殺。1488年、初婚の夫ジローラモ・リアーリオも暗殺。1495年、再婚の夫ジャコモ・フェオもまた暗殺。1498年4月、フィレンツェ共和国大使としてフォルリの駐在するジョヴァンニ・デ・メディチの子を産む。1500年、チェーザレ・ボルジアに決戦を挑み敗れる。
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1月8日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ベネチアに着く。ロヨラと合流。暫くヴェネツィアの病院で働く。
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2月
・議定所の庭園修築。宮家・門跡寺院・公家から自前の庭木や石を徴発。
この頃、幕府は、柳原御所から室町新第(義満が新築した室町第の故地)に新築移転の造営工事を行なっており、禁裏への援助負担の余裕はない。朝廷は、独自ルートで財源捻出する必要に迫られる。
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2月6日
・木下藤吉郎、尾張国愛知郡中々村に誕生(大村由己「関白任官記」、「太閤記」には1536年1月1日とある)。父は織田信秀家臣木下弥右衛門。母はなか。
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2月10日
・甲駿同盟成立

甲斐武田信虎の娘・信玄の姉、駿河今川義元に嫁ぎ今川・武田の同盟成立。今川氏と同盟関係にあった北条氏は敵対関係になる
北条氏綱は、扇谷上杉朝興・武田信虎・今川義元と敵対することになる。
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「此年二月十日、当国屋形(信虎)御息女様、駿河屋形(義元)ノ御上ニナホリ食(メ)サレ候」(「妙法寺記」)。翌天文7年、義元の嫡男氏真を生む。名は伝わっていない。天文19年(1550)6月2日(6月10日説もあり)没。
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前年天文5年7月、武田信玄が転法輪三条公頼の娘と結婚する際、これを斡旋したのは義元する説があり、京都の公家との人脈を持つ義元ならできないことではなく、そうとすれば、同盟は前年から成立していたかも知れない。
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義元の祖父義忠の室は、京都の伊勢氏に繋がる伊勢盛定の娘、父氏親の室は中御門宣胤の娘で、いずれも京都ゆかりの女性であり、京都指向の強い義元が、京都の女性でなく、しかも、少し前まではお互い戦いあっていた間柄の甲斐武田氏から室を迎えるには、それなりの決意があったものと思われる。父氏親が果たせなかった三河進攻の為の背後固めが最優先されたと推測できる。
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武田信虎はこれより本格的に佐久郡攻略を進め、天文9年頃までには、南佐久郡域を攻略、同年5月には北佐久郡に大攻勢をかけ、1日に36城を攻略(「勝山記」)。また11月、諏訪氏の家督を継いだ頼重(頼満の孫)に、晴信の妹を嫁して、同盟を強化。
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2月19日
・パリ、エチエンヌ・ドレに赦免状。ギョーム・ビュデに哀願して王に助命請う。但し、リヨンで投獄。同日、執行猶予で出獄。
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2月26日
・第一次河東一乱。
北條氏綱、駿河河東地方に出陣。駿河吉原まで兵を進め、東駿河の有力国人葛山氏を味方に付ける。救援の為、武田信虎が須走口に出陣。
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甲駿同盟成立が駿相同盟を破綻させ、北条氏と今川氏は富士川を挟んで10年余対立抗争。
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第一次「河東一乱」は、北条方が優勢
北条軍は富士川をこえて興津辺りまで押し寄せ、結局、河東地域を占領し自然休戦となる。
義元側は、前年の花蔵の乱の余波で軍の纏まりがなかったこともあるが、氏綱の巧みな外交戦略(「遠交近攻同盟」)の勝利でもある。氏綱は、遠江・三河の武将たちと手を結び、義元を挟撃する態勢をとる。氏綱は、遠江の見付端(ミツケハ)城の堀越氏延(今川一門の遠江今川氏、今川了俊の後裔)と手を結び、遠江の有力な国人領主井伊氏や、三河の奥平氏にもアプローチする。
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3月10日
・仏フランソワ1世軍、イタリアに侵攻。17日、アルトワに入る。
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4月3日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ロヨラ以外の同志たちとローマに行き教皇パウルス3世に謁見。ロヨラを含む同志全員が司祭叙任。但し、トルコの地中海攻略が始まりエルサレム巡礼は断念。
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4月27日
・扇谷上杉朝興(55)、没。家督は朝定(13)が継承。
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5月
・上総の武田信隆と異母弟信応の家督争い。
信応は真里谷城に拠り小弓公方足利義明と結び、信隆は峰上城・百首城に拠り北条に支援要請。
14日、信隆支持の真里谷一族、新地の天神台城に籠もり、南東に対峙する真里谷城の信応を圧迫。
16日、小弓公方義明、信応支援のため進発、信隆の拠る峰上城を攻撃。北条氏綱は大藤宋永を派遣するが、信隆の籠もる峯上城は陥落、相模へ逃亡。
18日、安房の里見義堯、北条氏を離れ小弓公方義明に応じる。
27日、小弓公方義明、武田信応と信隆を調停。
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5月
・山科言継(31、トキツグ)、従三位に昇叙。父言綱の堂上入りより2年早い。この年公卿入りを果たした同期の仲に、烏丸光康・四辻季遠・西洞院時長・東坊城長淳らがいる。三位昇叙の2日後、左中将から左兵衛督に転任。
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5月13日
・本願寺証如、若狭守護武田元光と通好。
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5月27日
・古河公方晴氏、上総成東城の千葉八郎(千葉昌胤の弟胤定)へ書状による出陣を命じる。
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6月11日
・真里谷武田信隆、鎌倉へ参着、翌日、江ノ島に一宿。
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6月18日
・ニース、フランソワ1世、カール5世、教皇パウルス3世と会見。大綱的休戦条約調印
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6月23日
・北畠具教(伊勢国司晴具卿男)、従五位下に叙位。26日、侍従に任官。
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6月24日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂にて同志とともに司祭に叙階。同志の会の名を「イエズス会」とする。ヴェネツィアとオスマン帝国の戦争の為エルサレムへの船が出ず、聖地巡礼を諦め同志はイタリア各地へ散る。
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6月25日
・元服前の松平広忠(家康の父)、駿府での人質生活から解放され三河岡崎城に入る。
[三河とその周辺の情勢]
この年、今川義元は甲斐武田信虎と結び、後北条氏との関係悪化。北条氏綱が駿河駿東・富士2郡に侵入。手薄になった三河方面に織田信秀の勢力浸透。三河はもと一色氏の守護両国。1440年一色義貫が将軍義教に暗殺され、駿河守護細川持常(庶流)の領国となる。応仁の乱後、細川氏は支配権を手放し、守護勢力は形骸化するが、台頭する国人松平氏の統制力もまだ弱い。
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7月
・ストロッツィ家フィリッポ2世(49、フィリッポ・ストロッツィ)、子のピエロとロベルト・共和国亡命者の一団を率いフランソワ1世支援のもとフィレンツェを攻撃。失敗して捕縛される。
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フィリッポ2世:
1488~1538、フィリッポ1世孫、妻は不運ピエロ娘クラリーチェ(1493~1528)。
1527年(39歳)、反乱首謀者として、メディチ家をフィレンツェより追放。1530年(42)、メディチ家復帰、国外亡命。1537年(49)、フィレンツェ攻撃失敗、捕縛。1538年(50)、拷問を受け獄中死。 
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7月3日
・フランス軍とコジモ軍、モンテムルロ渓谷で激突。ストロッツィ兄弟、バッチオ・ヴァローリ捕縛。フィレンツェでの「亡命派」粛清(1538~40)。1540年だけで500人処刑。
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7月11日
・北条氏綱、武蔵に出陣。
16日、北武蔵の拠点(扇谷上杉氏の本拠)河越城を攻略。扇谷上杉朝定(13)、松山城に後退。
23日、武蔵松山城(埼玉県吉見町、守将難波田憲重)を攻める。
北条氏は武蔵4拠点のうち河越・江戸を押さえる(残りの拠点は松山城・岩槻城)。河越城主には氏綱次男・為昌を入れる。
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7月22日
・「濃州多芸一揆」(「石山本願寺(証如)日記」同日条)。
西美濃山間の多芸郡の福勝寺十日講の一向衆を中心とした一揆、土岐氏と対決。基底に300余の「新道場」をもって(同、天文10年2月8日条)容易に屈せず、本願寺の仲介によりようやく和平を受け入れる。
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8月
・勧修寺家、誓願寺衆僧に宛て、門前の寺庵在家建立を停止する御教書を発給。前年の天文法華の乱で類焼した誓願寺が再建される前に、門前に引接寺再興の勧進所が建てられ、勧進聖の在家も建ち始めたため。
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その後の顛末:
天文8(1539)年11月3日、幕府は引接寺再興許可の奉書を下す。
12月1日、引接寺再建延引決定。
12月24日、誓願寺の諸勧進所及び在家再興を一切停止する幕府奉行人奉書及び細川晴元家臣茨木長隆の添状発給される。
天文11(1542)年9月10日、「誓願寺門前釘貫事件」。茨木長隆、町組小河一町へ釘貫撤去を命じる。
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8月8日
・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、最高法院勤務。
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8月10日
・幕府、六角定頼を近江守護に補任。
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8月25日
・オスマン帝国軍、ヴェネツィア領コルフ島包囲
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9月
・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、宗教改革運動弾圧担当刑事奉行ジャン・モラン娘と結婚。婚資として最高法院参議官の地位。妻娘は新教に改宗。自身は旧教。
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9月30日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェニス・ヴィヴァロロの聖ペトロの教会で初ミサ。
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10月
・公家三条西実隆(83)、没。
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・管領代茨木長隆、山城北野・西京地下中に対し北野社経王堂の破壊を禁じ、材木を運び出す輩は見つけ次第注進するよう命じる。日蓮宗以外の一般寺院の門前検断権の衰退に乗じて管領代の圧力強化
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10月 
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェニスの不治の病の人達のいる病院で働く。秋以降、「イエズス・キリストの伴侶」の意味で「イエズス会」の会名が選ばれる。単にカトリック教会内部の粛正運動だけでなく、宗教改革運動に対する防壁としての役割。
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10月12日
・英、ヘンリ8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア、(待望の)王子エドワード(後の6世)出産。24日ジェーン・シーモア、没。人々はアン・ブーリンの祟りと噂。
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10月21日
・武田信虎、冷泉為和を甲斐府中に招いて、歌会を催す。この年、御宿監物が武田氏に内通。
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11月
・尼子経久(80)、家督を孫(晴久、23)にゆずる。
尼子晴久、祖父経久に代わって当主となる。毛利元就の郡山城攻略をもくろんで南下作戦を加速。防戦一方となった元就は、援助を乞うために大内氏寄りを一層鮮明にしていく。 
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11月3日
・足利義昭(第15代将軍)、誕生。
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11月12日
・本願寺証如(光教)、六角定頼と和睦。
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12月1日
・毛利元就、嫡子隆元を大内義隆に人質として送る。19日、隆元、元服。天文9年まで山口に滞在。
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12月6日
・京都知恩院の惣門が再興(「石山本願寺日記」)。
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to be continued

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