2009年7月23日木曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(5) 廣野了頓邸址 木下順庵邸址 林道春邸址 小結棚町会所 武野紹鷗邸址   

京都の町小路(新町通り)を御池通りから五条通りまで南下してます。
前回(4)では、たまたま祇園祭に遭遇したため新町通りとお隣の室町通りの山鉾をご紹介。
前々回(3)では、かなり四条通りにまで接近してきましたが、今回は、六角通りまで戻ります。
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廣野了頓邸 将軍御成門跡
(新町六角東入ル北側)
了頓邸は、この六角通りから北の三条通りまでの広さをもっており、
了頓は、一般人が六角通り~三条通りまでの自邸内を通り抜けることを許し、
この小道は「了頓図子(ずし」と呼ばれたという。
この辺りの町名は、了頓図子町と呼び、この了頓の計らいを今に残す。
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木下順庵邸址
(烏丸錦小路西入ル南側)
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林道春邸址
(新町蛸薬師下ル東側)
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小結棚町会所(放下鉾)
(四条新町上ル東側)
「放下鉾」は、前回(4)で紹介済み。
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武野紹鷗邸址
(四条室町上ル東側)
「菊水鉾」について前回紹介済み。
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武野紹鷗は千利休の師。
利休の弟子山上宗二の「山上宗二記」では、師利休の話として、紹鷗は30歳まで連歌師で、公家の三条西実隆より「詠歌大概」(定家の著書)の序を聞いて茶湯を分別し、極意を悟り名人になったという。
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また、紹鷗は、連歌師心敬の唱える、連歌は枯れかじけて寒かれ、という枯淡の美の理論に心酔し、茶湯の本質もそうありたいと、常々語っていたという。
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利休は19歳(その頃は与四郎という名)で紹鷗の門をたたく。
紹鷗は、下男に路地を掃除させたうえで、与四郎に掃除を命じる。しかし、路地には塵ひとつない。与四郎は暫く考え、傍らの木を揺すぶる。木の葉がはらはらと散り、掃き清められた路地に落ち、その様は非常に風情があった。
この様子を密かに見ていた紹鷗は、与四郎の奇才に感じ入り、ことごとに秘訣を授けた、という。
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千利休 (講談社学術文庫)
千利休 (講談社学術文庫)
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四条通りに達した。
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四条新町の風景
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