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奥羽合戦の際、灰燼に帰した平泉のその灰燼の中にさえ奥州藤原氏の絢爛豪華な堂塔伽藍に瞠目した頼朝は、表向きは義経・泰衡はじめ戦没した数万の将士の怨霊の菩提を弔うためと称し、永福寺創建に着手。
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文治5年(1189)年12月9日
・頼朝、「且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為」、平泉中尊寺の大御堂を模して永福寺の建立を開始(「吾妻鏡」同日条)。
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中尊寺の二階大堂大長寿院を模倣したと云われ、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の3堂から成っていたという。
永福寺をCGで復元したプロジェクトのサイト
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敬愛する田村隆一さんは、「ぼくの野原」というエッセイで、「ぼくの愛する約二万坪の野原は、今もなお健在である。その名を永福寺跡という。」、「初夏には黄色の菖蒲が咲きみだれ、晩秋にはススキの銀色の穂が秋風にそよいでいる。この野原は、いつ眺めても気持がいい。」と書かれている。
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「永福寺旧蹟」の碑
「永福寺世に二階堂と称す 今に二階堂なる地名あるは是がためなり
文治五年 頼朝奥州より凱旋するや 彼の地大長寿院の二階堂に擬して之を建立す
輪奐荘厳洵に無双の大伽藍たりきと云う
亨徳年間関東管領の 没落せる頃より後 全く頽廃す」
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「永福寺旧蹟」の碑
「永福寺世に二階堂と称す 今に二階堂なる地名あるは是がためなり
文治五年 頼朝奥州より凱旋するや 彼の地大長寿院の二階堂に擬して之を建立す
輪奐荘厳洵に無双の大伽藍たりきと云う
亨徳年間関東管領の 没落せる頃より後 全く頽廃す」
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田村隆一さんの関連のエントリ
「鎌倉 滑川をゆく」をご参照下さい
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「ぼくの野原」が公園になった(コチラ)
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