2009年7月26日日曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(6) 化粧水(小野小町別荘跡) 幸野楳嶺生誕地 菅家邸址(菅大臣神社)

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「化粧水」
(四条西洞院東南角)
(説明板)には、
「「化粧水は西洞院四条の南にあり 
いにしへ この所に小野小町の別荘ありしなり」
 都名所図會(安永九年)より引用
 小野小町は平安時代の代表的女流歌人にて出羽國(山形県)の生れ 
小野篁の孫とも伝えられる六歌仙の一人で百人一首に
  花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに
と詠まれている。
西洞院の清流の当地に井戸があり 
小町が生活の場として使い以来「化粧水」の名称で親しまれ 
よってこれを永く後世に伝えるものとする
       昭和六十一年八月 妙傳寺町々内会    」
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幸野楳嶺生誕碑
(新町四条下ル西側)
幸野楳嶺(ばいれい)は、円山四条派の継承者で、
竹内栖鳳、菊池芳文、都路華香、川合玉堂などの画家を育てた人。
竹内栖鳳は、東の横山大観に対する京都画壇を代表する画家となり、
円山四条派の筆法を生かしながら西洋画の写実表現を融合する画風を拓く。
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江戸中期以降、京都では各町内に絵描きが最低一人はいたという。
竹内栖鳳の生家は、御池油小路の料亭「亀政」である。
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菅家邸址(菅大臣神社)
(新町通り仏光寺西入ル 南側と北側)
この辺りは「菅大臣町」の町名に残るように、菅原道真の邸宅址で、
没後に創立された「菅大臣神社」がある。
邸宅には、紅梅殿・白梅殿・菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所が含まれる。
邸宅の広さは、仏光寺通を中心に南北2町、東西1町といわれる。
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菅原道真が藤原時平のために大宰府に左遷させられた際、
自邸を出る時に、
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
なるじなしとて春なわすれそ」と詠んだことは有名。
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菅大臣神社は、鎌倉期には南北両社に別れ、
南社(菅大臣神社)を白梅殿社と称し、北社を紅梅殿社と呼んだが、
次第に衰退。

慶長19年(1614)、再興されるも、
天明の大火(1788)・禁門の変(1864)で焼失、
その都度再興されて現在に至るという。

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北側(紅梅殿)
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南側(白梅殿)
今も菅大臣神社として残る
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