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高松殿跡
姉小路通りを少し西に入った北側。
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姉小路通りを少し西に入った北側。
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説明板にもありますように、「保元の乱」の舞台の一つです。
「保元の乱」では、他にも、この近くにあり、以前に取り上げた「東三条院」も同じく後白河天皇側の本拠地となりました。
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「保元の乱」については、別エントリで纏めます。⇒ コチラ
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西側から新町通(電柱の少し後を左右に横断している)の高低を見る。
他に比べて高い位置にあり、洪水被害のない地域であった事が窺える
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*西側から新町通(電柱の少し後を左右に横断している)の高低を見る。
他に比べて高い位置にあり、洪水被害のない地域であった事が窺える
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次に、三条通りまで来ると、今度は東の方向に烏丸通り近くまで進みます。
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三条烏丸御所跡
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*三条烏丸御所跡
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三条烏丸殿、三条桟敷殿、三条南殿とも呼ばれる。
堀河(1079~1107)・鳥羽(1103~56) 両天皇の乳母である藤原光子の住居で、子の実能(1096~1157)に受け継がれ、実能が鳥羽法皇に献じ、その御所となる。
こちらは、「平治の乱」の舞台となります。
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平安京左京四条三坊跡
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*平安京左京四条三坊跡
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判読し難いので下記します。
「当該地は平安京左京四条三坊九町跡に位置しています。この九町は北側を三条大路、南側を六角小路、西側を室町小路、東側を烏丸小路により四方を画された一町(約120m四方)の中にあり、・・・。
「中右記」や「長秋記」など、平安時代後期の貴族の日記によると、同九町の地は三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり後には左大臣にまで昇り権勢を振るった藤原実能の邸宅があったことが記されています。
昭和63年度に財団法人京都市埋蔵文化研究所が株式会社千總の委託を受けて発掘調査を実施しました。
この調査によって平安時代に造られた島を伴う玉石敷きの遺水庭園(庭園などに水を導きいれた設備)と大小の景石で構成されている庭園跡の一部及び建物の柱 跡などを検出しました。これらの遺構は一町規模の寝殿作りによる邸宅の一角を成すものとみられ、各構造からは瓦類や土師器、須恵器、の他に釉薬を施した緑 釉陶器、灰釉陶器などが多数出土しています。
中には中国から輸入された青磁、白磁などの上級貴族の所有を思わせる物も含まれています。
寝殿作りは日本の庭園及び建築史を研究する上で重要な位置を占めていますが、現存するものはなく京都御所、平等院などにその様式を伺えるに過ぎません。この寝殿造りと見られる邸宅の一端を発掘調査によって検出したことの意義は大きいといえましょう。
平成元年七月 (財団法人京都市埋蔵文化財研究所)
(株式会社 千總)」
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