2009年7月20日月曜日

保元の乱(2) 追い詰められた崇徳・頼長、兵を挙げ敗れる

保元元年(1156)
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3月5日

・鳥羽院と美福門院得子の皇女姝(よし)子内親王(16)、後白河天皇の東宮守仁親王の東宮女御(皇太子妃)となる。
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4月
鳥羽法皇の「不食(フジキ)」の病が重くなり、5月頃より危篤となる。
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この頃、都には不穏な空気が流れる。
前々年の久寿元年から諸国に損亡が続き、この月(4月)には疫病の流行から、京中の児女が風流で身を飾り、鼓笛の音にあわせて「やすらい」の囃子で踊りながら、紫野の今宮社に向かう宗教運動が起きる。
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5月
・飢饉とともに都・諸国は不穏な情勢。地方の武士が続々京に集まる。
内大臣藤原実能の徳大寺邸に武士乱入・放火。
鳥羽法皇、内裏高松殿警護を源義朝・足利義康・平清盛、鳥羽殿警護を源光泰・平盛兼に命じる。
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実能は、法皇に対し、没後の事は生前によく計らっておいてほしい、と進言。
法皇は藤原公教に諸事沙汰を命じ、義朝・義康ら武士に祭文を書かせて臣従を誓わせ、禁中警護を命じる。
法皇は自分の没後に乱が起きるのを予想している。
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6月1日
・下野守源義朝・陸奥判官源義康、鳥羽院の院宣により内裏を守護する。
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6月12日
・美福門院得子(40)、法皇の病臥する鳥羽安楽寿院で出家。
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7月2日
崇徳上皇、鳥羽殿安楽寿院に見舞い、門前払いとなり、鳥羽殿南の田中御所に赴く。
従者平親範の頬に矢が当り狩衣の前が血で染まる。崇徳上皇の車の簾も壊される。
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同日
鳥羽法皇(54)、没(誕生:康和5(1103)/01/16)。
生前の指示通り、葬儀は公教が申し行い、信西の検知(ケンチ)で行われる。急ぎ駆けつけた崇徳は追い帰されている。
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美福門院、鳥羽法皇遺言にある武士召集を藤原公教・藤原光頼に伝言。
源義朝・足利義康・源頼政・源季実・源重成・平惟重・平実俊・新藤助経・関信兼・土岐光信。遺言に無い平清盛も召集される。
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7月3日
・東三条殿(頼長邸)に崇徳上皇方武士集まる。藤原頼長は宇治に。
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7月5日
・「(崇徳)上皇と左府(頼長)が同心して軍をおこそうとしている」(「兵範記」)との理由から、都の武士取締り・禁中警護のため検非違使が動員される。
内裏守護は源義朝・足利義康、宇治路は安芸判官平基盛、淀路は周防判官源季実、粟田口は讃岐判官平惟重、久々目路は平判官実俊、大江山は新藤判官助経が守護。
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7月6日
・藤原頼長家人の源親治(大和源氏)、兵を率い入京するところを大和路の法性寺近くで検非違使平基盛(清盛の次男)と合戦、敗れて捕虜となる。
乱の戦中は獄中に。戦後赦免、本拠の大和に帰される(親治が大和国内で崇徳上皇派の興福寺と対立関係にあり、後白河天皇は興福寺牽制のための利用)。
夜、平基盛、除目で正五位下に叙任。
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7月8日
・鳥羽法皇初七日の法要。安楽寿院。
藤原忠実・頼長が諸国の荘園の軍兵を召集しているとして、これを停止する後白河天皇の綸旨が発布。
同時に、後白河天皇方源義朝、兵を動かし頼長の東三条殿を接収、押収品(手紙)から頼長謀反を確定、11日付で流罪とする。
また邸内にいた平等院の供僧勝尊は秘法を修(ズ)していたとして捕縛、謀反の証拠とされる。後白河方は先手を打ち、頼長を謀反へと追いつめる。
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事ここに至り、遂に崇徳・頼長は兵を挙げざるをえなくなり、崇徳は軍事力を頼長に頼み、頼長は挙兵の正当性を崇徳に頼むことになる。
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7月9日
・夜半、崇徳上皇方、本営を鳥羽殿の田中御所から白河の前斎院御所に移し、東三条殿の後白河天皇方と賀茂川を挟んで対峙。後白河天皇は東三条の南隣の高松殿に居する。
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7月10日
・南都大衆、藤原頼長召集で宇治に到着。
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・崇徳上皇、白河北殿(中御門御所)に軍兵を整える。夕刻、頼長が宇治より参入。
(崇徳側に集結する者)
貴族では前参議藤原教長が目立つ程度で、他に頼長の近臣源成雅・藤原成隆・源俊通など少荘の下級貴族がおり、武士では為義(義朝の父)とその子・四郎頼賢(ヨリカタ)、五郎頼仲、加茂六郎為宗、七郎為成、八郎為朝、九郎為仲、多田源氏の頼憲、清盛の叔父・右馬助忠正(忠盛の弟、高陽院の殿上人)とその子・長盛(崇徳院の蔵人)、平家弘(検非違使、崇徳院御所に伺候)、平康弘等。
軍議では、「愚管抄」によるば為義(「保元物語」では為朝)が夜討ちを献策するが、頼長は大和の軍兵を待つとして退けたと云う。白河北殿で守備固めに決定(200余騎)。
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・後白河天皇方、高松殿御所から東三条殿に移る。
(後白河天皇側に集結する者)
守仁親王、藤原忠道、藤原信西、藤原実能、平清盛(紺の水干小袴、300余騎・平頼盛)、源義朝(赤地錦の水干小袴。200余騎、八島重実、源重成、佐々木秀義)、兵庫頭源頼政(数十騎?)、足利義康(100余騎?)、散位源季実、平盛兼、平信兼、平惟重(右衛門尉)・光康。軍議では。義朝が夜討ちを進言(「愚管抄」)、清盛の意見は不明。奇襲に決定(600余騎)。「兵範記」は雲霞のごとき軍勢と記す。 
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源義朝は追討宣旨を与えられると、従者に向かって述べる。
「義朝馬をひかへて、紅の扇を開きつかひゐて申されけるは、いやしくも武備の家に生れて、此事にあふは身の幸也。日来私軍の合戦の時は、朝威に恐れて思様にもふるまはず。今度におゐては宣旨を承る上は、憚る所もなし。芸をこの時に施し、名を後代にあぐべし。」(「保元物語」)。
日頃は、「私軍の合戦」として追捕の対象とされている東国武士の立場をよく物語る。
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平清盛の決断:
①「保元物語」では、鳥羽法皇が生前記した名簿には清盛の名は無く、清盛の武勇を知る美福門院が天皇の遺言であるとして清盛に参陣を促したとする。
②「兵範記」(平信範の日記)では、清盛の行動が初めて出るのがこの召集の時点。
③「愚管抄」では、清盛は初めから天皇方武力として計画に入っており、池の禅尼(忠盛の後妻)も実子の頼盛(忠盛5男)に対して、崇徳側は負けるので兄清盛につくよう(「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」)にと諭したと云う。
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清盛の妻の父・平時信は既に没しているが、時信の弟信範(「兵範記」記主)は忠通に仕え、時信の妻は東宮守仁の乳母子であり、蔵人頭藤原光頼の姉妹。
久寿2年(1155)5月30日には、時信の妻の病によって光頼や清盛の妻時子、信範らが八条堂に集まるなど(「兵範記」)、親密な関係にある。
清盛は法皇の側に立って政界の動きを見つめていた。また仁平4年正月に家人平家貞が、久寿2年12月に子の基盛が、検非違使となり、都の治安や情勢を熟知している。
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清盛・平氏一門と皇室との関係:
忠盛(清盛父)は鳥羽法皇有力近臣として武力・財力面で篤い信任を得て、昇殿を許される。祇園社頭闘乱事件でも忠盛・清盛親子は鳥羽に庇ってもらう。
一方で、忠盛と妻宗子(池の禅尼)は久安6(1150)年、重仁(崇徳の子)の乳父・乳母になり崇徳とも深い縁故で結ばれる(清盛と重仁は乳母子の関係)。重仁が皇位につけば、平氏一門が権勢を握る可能性が高まることになる。
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清盛・平氏一門と摂関家との関係:
仁平元(1151)年、忠実の知行国安芸は平氏に移り(清盛は安芸守に任官)、同時に平氏の知行国播磨は忠実に移される。
教盛(忠盛3男)の母の父藤原家隆は忠実の親族・近臣で、教盛が忠実の知行国淡路の受領に任じらる。
忠盛の弟の忠正は忠実・頼長に仕え、忠実と関係の深い宇治にも邸宅を持つ。
忠通とは、後年忠通嫡子基実に清盛の娘盛子が嫁ぎ姻戚関係を強化するが、この時点では、清盛の妻時子の叔父の平信範(「兵範記」記主)が忠通に仕え、平氏は時子を通じて忠通と関係を有している。忠通と協調路線をとる美福門院との関係では、平氏一門と関係の深い鳥羽第一の寵臣家成は美福門院の従兄弟で、家成の母は忠盛の正妻宗子の叔母という関係にある。
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7月11日
・保元の乱
①後白河天皇と崇徳上皇の皇室内部の争いと、②関白藤原忠通と左大臣藤原頼長(弟)の摂関家藤原氏の争いが結び対立が激化。
結果、貴族の無力を暴露し、貴族同士の争いに軍事貴族の武力が必要不可欠であることを露呈、武士が政界へ進出する大きな契機となる。
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崇徳上皇側白河北殿の守備:
①北春日表門、平家弘。②南の大炊御門面の東門、平忠正・多田頼憲。③南の大炊御門面の西門、源為義。④西河原表門、源為朝。
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午前4時
①陸奥新判官源義康(源姓足利氏)の100騎は近衛大路から北門へ、
②源頼政、南側東門へ(平忠正軍により退却)、
③源義朝200騎(突破成らず源頼政の予備隊加わる)、大炊御門大路から南側西門に向い川の西に布陣。
④平清盛300騎、内裏守護から出撃(御所西南陣を平経盛)、二条大路から東へ南側西門に向う。朝日に矢を射る恐れあり、河原渡り北上、二条河原東堤に布陣。
南側東門の平清盛軍は、重盛(初陣)・一族郎等・難波経房・瀬尾兼康・平家貞、貞能・草刈部定直・山田伊行・伊藤景綱(「保元物語」は清盛勢600騎、義朝勢250或いは300騎)。
清盛は源八郎為朝(50騎)の強弓に退却(山田伊行が1騎駆けするが、為朝に射られ下人に担がれ退却)。
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源義朝軍:
広く東国一帯から動員。藤姓足利太郎俊綱、千葉常胤、常澄八男・上総介八郎広常(父・上総介常澄の代官として鎌倉に在住)・大庭景義・景親兄弟ら。
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清盛軍:
平氏一門と夫々に主従関係を持つ武士を率いる。大夫経盛、淡路守教盛、常陸介頼盛、中務少輔重盛、判官基盛ら平氏一門のほか、平家貞・貞能親子など譜代の家人、伊勢の伊藤武者景綱や伊勢の山田小三郎惟行、備前の難波三郎経房、備中の妹尾太郎兼康などの在地武士が召集(「保元物語」)。伊勢平氏藤原景綱、清盛軍の先鋒となり子の忠清・忠直・郎党30余を率い為朝と戦う。忠直戦死。
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「保元物語」は、義朝の奮戦と強弓の鎮西八郎為朝の活躍を描く
もともとこの合戦に平氏はさほど力を示す必要はなく、功を求めて勇む義朝と比較して、多くの軍勢を擁す平氏には余裕がある。義朝は逐一戦況を内裏にしていたという(「愚管抄」)。
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為朝の活躍
清盛勢が為朝の固める西河原表の門に到着すると、伊藤景綱が、「ここを固め給ふは誰人ぞ、名乗らせ給へ。かう申すは、安芸守の郎等古市伊藤武者景綱、同じく伊藤五、伊藤六」と名乗る。
為朝は、郎等などは自分の敵ではない、退け、と応じる。
景綱が反論すると、為朝が矢を放ち、伊藤六に当たり、伊藤父子は退く。
清盛は、為朝との合戦を回避しようとすると、嫡子重盛が進み出て戦に臨もうとし、慌てて清盛が引き止める。
これを見た「猪武者」山田小三郎惟行が名乗り出る。「安芸守の郎等、伊賀国の住人、山田小三郎惟行、生年廿八。堀河院の御宇(ギョウウ)、嘉承三年正月廿六日、対馬守義親討の時、故備前守殿の真前懸(カカリ)て、公家にも知られ奉ったりし山田庄司行末が孫なり。山賊・強盗をからめとる事は数しらず、合戦の場にも度々及んで、高名仕ったる者ぞかし。承り及ぶ八郎御曹司を一目奉らばや。」。
為朝は、山田に一の矢を射させ、二の矢をつがうその時に矢を放ち、これを射落とす。
ここで、清盛勢は退却。
清盛、「何となく押しよせたるにてこそあれ。いづ方へもよせよかし」と言う。
重盛は「敵陣こはしとて引返すやうや有るべき」と叫んで敵陣に突き進む。
清盛は「あれ制せよ者ども」と慌てる。
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午前5時。平清盛、京極を北上し春日表門(北門)へ向う。
午前6時。源義朝軍、南側東門へ向う。相模住人大庭景義・景親駆けでる。鎌田正清を高松殿へ派遣し、後白河天皇より火攻め許可を受ける。後白河、東三条殿に移る。
午前8時。源義朝、白河北殿の西隣、藤原家成邸に放火。
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戦況は一進一退。
天皇方の源頼政・源重成・平信兼が第2陣として派遣される中、白河殿に火が放たれ、崇徳方の敗戦が確定。為義の円覚寺の住所も焼かれる。
崇徳・頼長・主立った武士たちは白河殿を後にする。頼長は逃亡途中に流れ矢に当り後日没。崇徳は同母弟覚性法親王を頼り仁和寺に逃げ込むが許されず、後、讃岐へ配流。
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午前10時
火が白河北殿に燃え移り、崇徳上皇方は逃亡。
上皇は、春日表小門から如意山へ(蔵人信実が馬に同乗)し、源為義・平家弘・光弘・武者所季能が供奉。
藤原頼長は、南側東門から北白河へ逃亡。四位少納言少将成隆が馬に同乗。流れ矢が頬に当り出血。松ヶ崎→嵯峨。昼頃。平忠正、園城寺の方へ逃亡。
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午後4時
源義朝・平清盛、内裏で戦況報告。
蔵人右少辨(周防判官)資長、崇徳邸三条鳥丸に放火。新藤助経、藤原頼長邸壬生殿放火。その他謀反人の邸等12ヶ所を放火。
周防判官源季実、南都軍守備に宇治橋へ。
延暦寺座主最雲法親王へ御願書(署名に平経盛の名も)提出し、南都軍、官軍となる。
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夕方
崇徳上皇、平家弘・光弘を供に法勝寺北~東光寺辺で輿を借り~二条を西へ藤原教長邸へ(教長は行方不明)~大宮下り三条坊門~知足院に到着。
平家弘・光弘、北山で出家。源為義、園城寺の方へ向う。
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「去月朔以後、院宣により、下野守義朝并びに義康等、陣頭に参宿す。・
・・此の外源氏平氏の輩、皆悉く随兵を率いて鳥羽殿に祇候す。
蓋是れ法皇の崩後、上皇左府、同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す、其の儀風聞す。旁用心せらるるなり。
十日上皇、白川殿において軍兵を整えらる。是れ日来の風聞、已に露見するところなり。
・・・前大夫尉源為義、前左衛門尉同頼賢・八郎同為知・九郎冠者等を引率して初参す。頃年以来、故院の勘責により、各篭居す、今此の時に当り、懇切に召し出さるるなり。
・・・前馬助平忠正、散位源頼憲、各軍兵を発す。偏えに合戦の儀たり。
・・・禁中時に高松殿彼の僉議により、同じく武士を集めらる。下野守義朝、右衛門尉義康、陣頭に候ず。此の外安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政・・・勅定により参会す。
・・・十一日鶏鳴、清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百余騎、白河に発す。
・・・彼是合戦已に雌雄に及ぶ由、使者、参奏す。
・・・午刻、清盛朝臣以下将軍、皆内裏に帰参す。
・・・上皇、左府、行方を知らず。但し左府においては、已に流矢に中る由、多く以て称し申す。為義以下軍卒、同じく行方を知らずと云々」(「兵範記」、改行を施した)。
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武者の世
「保元元年七月二日 鳥羽院うせさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさの世になりける也。
・・・天慶に朱雀院の將門が合戦も、頼義が貞任をせむる十二年のたゝかいなどいふも、又隆家の師のという国うちしたがふるも、関東鎮西にこそきこゆれ、まさしく王臣都の内にてかゝる乱は鳥羽院の御時迄はなし。かたじけなくあはれなる事也」(「愚管抄」)。
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合戦後(同日夜)論功行賞。
11日、平清盛が播磨守に任命。
17日、教盛(11日淡路守)・頼盛(11日常陸守)が内昇殿を許される。
9月、平経盛は安芸守。翌年正月、重盛が従五位上に叙任。
それに引き換え、源義朝は左馬頭(馬寮の頭)の官職を得る。源(足利)義康は左衛門尉に転じ(検非違使延尉に再叙任)、源義朝・子義清と共に昇殿を許される(河内源氏として初めて内昇殿を許される)。乱直前の清盛は正四位下安芸守で内昇殿も許されている。義朝は、受領としてはもっとも低い下野守で、位階は清盛の6ランク下の従五位下。
最大勢力の清盛が崇徳との縁故を断ち切って参陣したからこそ、天皇方は崇徳方を数で圧倒することができた。
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義朝は父為義・弟5人を船岡山付近で斬首(30日)。
清盛は叔父忠正、従兄弟の長盛・忠綱・正綱を六波羅の近くで斬首(28日)。大同5(810)年「薬子の変」以来の公的な死刑の復活。
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公的な死刑の復活。
これまで死刑は私刑の形で行われていたが、このような公的な形で死刑を復活したことは、実力で敵対者を葬るという行動を公的に認めたことになり、中世という時代の到来を象徴する出来事となる。しかもその死刑の実施を唱えた信西がすぐに標的にされることになるのも、中世の到来をよく象徴している。
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乱後、天皇方の平清盛・源義朝の勢力が大きくなり、
①平清盛は院近臣・藤原通憲(信西入道、後白河天皇の乳母の夫)と結び、
②源義朝は通憲と対立する藤原信頼と結んで、
源氏と平氏の対立が始まる。
(源氏棟梁の義朝が後白河天皇方に付いていたが、為義の死によって源氏の勢力は削がれる結果となり、平氏の勢力が急速に台頭
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保元の乱直後の信西(通憲)の政治:
摂関家の政治的権威失墜。頼長所領29ヶ所はじめ旧摂関家関係所領を没収し、後院領に編入。摂関家の分裂・衰退に追い打ちをかけ、主権の中世的再生に向けた政治的社会的基盤整備を進める。
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「保元の乱」(1)(2)終り

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