暫く中断していた信長生誕年以降の年表。
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天文8(1539)年 [信長6歳]
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この年
・越後一国内乱。
管領細川高国没後、高国を後援者とした長尾為景の権威が低下。
1831、33年の再度、上条定憲が失意の越後守護上杉定実を擁し、揚北衆を主力として挙兵。苦戦の連続の内に36年為景は没し、翌年嗣子晴景は定実の守護復活を認めて講和。
しかし、定実の後嗣が伊達実元とされると、晴景は色部・黒川など揚北衆と共に反対し、この年、越後一国の内乱(天文の内乱)。
内乱の中で晴景・景虎(謙信)兄弟の対立が激化(守護代長尾家の内紛)。
上田長尾政景以下上郡(頸城・魚沼)の国人は晴景に党し、中条藤資ら中郡(蒲原・古志)・下郡(揚北)の国人らは景虎を支持。
48年(天文17年)、定実の調停の結果、景虎が長尾の家督をつぐ
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・佐々成政兄の政次、織田信秀に仕える 。
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・足利12代将軍義晴、将軍邸「今出川御所(北小路御所)」を構築。北が上立売通、南が今出川通、東が烏丸通、西が室町通に囲まれた一角。かっては足利義満造営の「花の御所」、後に足利義教再築の「室町殿」があった所。
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・ガンの反乱。
反乱者は、仏フランソワ1世に援助求めるが、フランソワ1世はカール5世と和解。鎮圧軍のフランス領内通過認める。叛乱は鎮圧され大量処刑。
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・サマランカ大学教授・神学者フランシスコ・デ・ビトリア、インディオ及び戦争法に関する講義を行い征服の正当性問題に取組む。
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・ヘンリ8世、大修道院の解散法、制定。
ヘンリ8世、6ヶ条、制定。
英国国教会の基本的儀式についての法令。聖餐、司祭の独身、貞潔の誓願、個人ミサ、聴聞告白など、内容はカトリックと変化なく、ルター派・カルヴィン派の教義を否定。
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・リヨンの印刷工ストライキ。~1540年。
職人に労働者階級意識が生じ近代的なストライキの性格を備える。
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・ブランデンブルクのザクセン選帝侯、新教を許可(ブラウンシュバイク侯を除く北ドイツ諸侯が宗教改革実施)。
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・ストラスブール、ジャン・カルヴァン、大学神学科講師兼任。「フランス人小委員会」設立。カルヴァニズムの典礼の根本定まる。同志デュ・チーエはフランスに戻りカトリックに再改宗。
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1月
・在る幕府吏僚、その公的記録(内閣文庫蔵「御状引付」天文8年正月条)の余白に、
「ていしゆのるすなれば となりあたりをよぴあつめ 人こといふて 大ちやのミての 大わらい いけんさまふさうか」と、
小歌を書きとどめる。
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1月14日
・三好長慶、兵を率いて上洛。25日、細川晴元に河内十七箇所の代官任命要請し、拒否される。
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2月8日
・今川義元発給文書で官途名「治部大輔」が使われる初見。これ以前に治部大輔に任官している。
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2月13日
・マントヴァ公爵夫人イザベッラ・デステ(65)、没(1474~1539、フェラーラ候エステ家出身、フランチェスコ・ゴンザーガの妻)。
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3月
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、ナポリ副王ドン・ペドロ・デ・トレードの公女ドンナ・エレオノーラと結婚。
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4月
・アヴィニョン、穀物騰貴により暴動。小麦を積み出す船が襲撃される、即日鎮圧。
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4月18日
・陶興房(周防国守護代)、没。隆房(19)が家督を継ぐ。
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4月19日
・大内氏の遣明使、五島を出帆。医師吉田宗桂が明に渡り医を学ぶ。
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5月3日
・スペイン、ヘルナンド・ド・ソト、「7つの都市」を求めてフロリダ・シャーロット湾に上陸、42年まで3年間北米内陸部を探検。
グランド・キャニオンからテキサス州北部、カンザス州東部まで進むが、何も見つからず。
別の探検隊はルイジアナ州やアーカンソー州にまで入り込むが、やはり何も見つからず。
彼らが持ち込んだ「天然痘」が猛威をふるい、インディアン達は自分の土地を捨てなければならなくなる。
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6月1日
・阿波三好党頭領三好長慶(17)と兵4千、摂津越水城(西宮市)を出て京都に向かう。
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6月2日
・幕府内談衆大館尚氏、長慶が呈出した幕府御料所河内十七箇所の代官職の競望(自薦状)を正当と認め、将軍義晴に、長慶の要望然るべしと答申するが、細川晴元はこれに応ぜず。
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長慶の亡父元長は、「大物崩れ」の戦功により、北河内の大荘、北野社領八箇所の代官職を与えられた。長慶も、本願寺との講和を仲介し、晴元政権の危機を救う戦功があったと自負し、元服後しきりに畿内の大荘園を望む。
十七箇所は、八箇所の隣庄(現、守口市の大半を占める大荘)で、かつては畠山政長、畠山義就らが代官を歴任してきた由緒ある荘園。
晴元は、長慶の祖父長秀(伊勢多気館で殺されている)の従兄弟にあたる三好政長を帷幕に重用しており、長慶の要請を即座に拒絶。
長慶は、晴元の拒否の背後に、自分の一族の三好政長の影を見て、亡父元長の仇敵、政長や晴元に対する憎悪が蘇り、密かに阿波の国主持隆と示し合わせ、晴元打倒の兵を挙げようとする。持隆は長慶を後援。
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6月14日
・三好長慶、禁制を発給。
長慶は晴元政権内で隠然たる勢力を誇り、軍事的には晴元軍の中核としての活動を始める。
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「禁制 大徳寺
一当手軍勢甲乙人濫妨狼籍(藉)の事
一山林竹木を伐採する事
一矢銭兵粮を相懸くる事
右条々、堅く停止せしめ訖んぬ。若し違犯の輩これあらば、厳科に処すべき者なり。
仍て件の如し。
天文八年後六月十七日 三好(長慶)利長(花押)」
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閏6月1日
・近江守護六角定義頼は、長慶謀叛の報に、幕府に対策を要請。
義晴は、六角定頼・木沢長政らに調停を命じ、自重を求めて内書を晴元、長慶双方に送る。
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6月中旬
・三好長慶、本陣を摂津島上に進出。先鋒は西岡向神社進出。細川晴元、山間(山城高尾)へ避難。
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7月14日
・細川晴元、三好政長・波多野秀忠に出陣させ三好長慶軍に対抗。
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7月23日
・細川晴元、山城西岡に徳政令を発令することを足利義晴に乞う。
同25日
・幕府、京都の土倉の要請により徳政令を停止。
京都土倉衆、賄賂を以て徳政を阻む(「親俊日記」)。
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7月28日
・六角定頼や幕府政所代(大蔵次官相当のポスト)蜷川親俊らの斡旋により、三好長慶・細川晴元の撤兵が実現。
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8月
・武田晴信(19)、冷泉為和を招いて府中で歌会を催す。この年、北条氏との争いが再発。
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8月4日
・夜、大風洪水。17日、京都、大雨大洪水。天皇、「さてはこの御所、大破に及び候」(阿蘇惟豊宛の女房奉書)という。
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8月13日
・北条氏綱、娘(芳春院)と古河公方足利高基嫡男の晴氏との結婚を古河公方重臣簗田高助に依頼。
後に、足利義氏が誕生、氏康・氏政政権下の傀儡となる。
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8月14日
・三好長慶、撤兵。近江守護六角定頼らの停戦斡旋受け、摂津芥川城を出て越水城に戻る。摂津半国の守護大名となる。
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長慶が形の上では晴元に屈伏して越水城主に納まったのを見て、河内北半国守護、飯盛城主畠山在氏の守護代として信貴山城を預けられ、山城下五郡という畿内最要地の守護代をも兼任する木沢長政は、自分こそ畿内最強の武将と思いあがる。
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9月
・山城国土一揆、徳政令を求め蜂起。
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・出雲富田城主尼子経久の孫晴久、安芸併呑を呼号して南下、吉田城(広島県吉田町)の毛利元就は孤立。
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9月6日
・細川晴元、洛外に徳政令を発す。
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9月6日
・茨木長隆、土一揆が東福寺に乱入するのを阻止。
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9月28日
・三好政長、京都八幡郷に徳政令を発するも、幕府はこれを停止。
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11月11日
・本願寺(証如)、天文7年の諸公事免許を楯に、山中氏の段米賦課を拒否(「天文日記」天文9年11月11日)。
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摂津闕郡の郡代山中藤左衛門が細川氏の下知と称し、闕部の段別米2升を「寺内出分之衆」に賦課しようとするが(「天文日記」11月7日)、証如は、先年寺町(細川氏家臣)が段米を課して来た時も、以前に山中が半済を課してきた時も、この出作分については、「諸公事免許」の成敗にもとづき撤回させている。
「諸公事免許」は、寺内住民を対象とする属人主義の考え方で、寺内の外での出作分まで及ぶという拡張した判断を示す。
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11月28日
・京都北野社が竣工、遷宮が実施(「御湯殿上日記」)。
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12月24日
・京都で町組「小川一町」が確認できる幕府奉書。
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「誓願寺雑掌申す当寺門前小河々上の事、観修寺(尚顕)家これを相談し進止すと云々。然る上は、千本閻魔堂(引接寺)ほか諸勧進所等再興の儀、堅くこれを停止せられ訖んぬ。存知すべきの由、仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文八 十二月廿四日 (飯尾)貞広(花押) (松田)頼康(花押) 小河一町中」(「誓願寺文書」)。
元亀3(1572)年「上下京御膳方御月賄米寄帳」に小川組十町のうちの町名として上小川・中小川・誓願寺町等が見え、天文10年にも「小河七町々人中」に宛てた細川晴元の右筆茨木長隆の奉書がある。
天文8~10年、上京小川組に七ヶ町の町組が存在していた。
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幕府文書でも、町組ではなく町人・町衆に宛てた文書は早くから見出される。
「金山民部少輔孝実申す六角東洞院屋地口十丈奥廿丈今は畠の事、当知行の旨に任せ去る天文三年奉書を成さるゝの処、事を左右に寄せ地子銭無沙汰せしむと云々。言語道断の次第なり。所詮速やかに孝実の代に沙汰渡すべきの由仰せ出さるゝ所の状、件の如し。 天文八 五月十一日 (諏訪)忠通 (治部)光任 当地百姓中」(「八坂神社文書」)。
洛中に居住し地子銭を領主に納入する農民・町衆をこのように「地百姓」「地上衆」などと呼び荘園領主配下の町人のみを指す。
対して、「小河一町中」は、純粋に地縁的共同体「小河一町」居住の町衆全員を指し、荘園領主と無関係に幕府から法人格と見なされている。また、町組を行政単位の末端として利用しようとする幕府の意図が背後に見て取れる。
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戦国期の京都:
上京・下京2つの集落に分かれ、夫々周囲に堀・土塀をめぐらした「構」(かまえ)となっている。
2つの「構」を結ぶ道が室町通り。
中心は「六町」で、上京東南隅に位置する内裏近辺に成立、発展した町々(「一条」二町・「正親町」二町・「烏丸」・「「橘辻子」など6町)が、結成した町組。
この付近は、かって仙洞御所であったが、応仁の乱後、零落公家・新興商工業者が集落するようになったのが町々の始まり。
社会的身分・地位、職業など異なるが、住人たちは一致協力して盗賊に抵抗し、また町焼討ちなどの事件を未然に防ぐなど、自分たちの手で生活空間を守り育てる。町衆の自治が発展。
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12月30日
・京都上京・下京夫々10人ずつの土倉・酒屋の宿老・有力者20人、納銭方に加わり、酒屋・土倉役などの徴収の問題について幕府と交渉。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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