2009年7月26日日曜日

明治17(1884)年11月2日(4) 大宮郷での軍資金調達 火薬購入と破裂弾製造。

■明治17(1884)年11月2日(4)
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○大宮郷での軍資金調達(蜂起後の戦略転換と軍資金調達)。
当初、
「先ズ郡中ニテ軍用金ヲ整へ、諸方ノ勢卜合シテ埼玉県ヲ打破り、軍用金ヲ備へ、且、浦和ノ檻獄ヲ破り、村上泰治ヲ援ヒ出シ、沿道ノ兵卜合シ、東京ニ上り、板垣公ノ兵卜合シ、官庁ノ吏員ヲ追討シ、圧政ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安欒ナラシム」(田中千弥「秩父暴動雑録」)との構想であったが、
その後、栄助は、
信州組の来援の影響もあり、「兵ヲ挙ゲタル上ハ、警察官及ビ憲兵・鎮台兵ノ抗撃ヲ受クルハ必然ナリ、右ニ抗敵スルニハ金ヲ要スレバ、大宮郷中ニ於テ壱万円ノ金ヲ強奪シ、軍資ニ当テ、当地方ハ東京ニ接近致シ居ル故ニ、直ニ信州へ引揚ゲ、更ニ大兵ヲ挙グルノ目的ナリ」(「田代栄助訊問調書」)と、退守の姿勢をとりつつ、挙兵の長期維持を図るという方針に切り換えたとみられる。
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この為の備えとして、また大兵の維持の為にも、軍資金調達が必要となる。
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前夜の小鹿野町では軍用金集めをせず、初めから目標を大宮郷においていたとみられる。
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栄助は、軍用金徴収について、軍用金集方の井出為吉に命じ、町内の豪家・大店を訪ねさせ、
「今般我等高利貸ヲ潰シ、貧民ヲ救フガ為メ兵ヲ挙ゲタル処、追々警察官及ビ憲兵隊繰出シニ相成タル趣キ、是非戦闘ヲ為サゞレバ貧民ヲ救助スル能ハズ、因テ軍用金無心致シ度、首尾能ク本望ヲ遂ゲタル上ハ悉皆返弁可致、不幸ニシテ戦死シタル場合ニ於テハ、香莫トシテ恵投ニ預りタシ」(「田代栄助訊問調書」)
と口上を述べさせ、献金は本営の郡役所まで持参させることにする。
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栄助は、大宮郷に入った当初は、「群馬県人相馬義広」と仮名を用いていたが、軍用金の受取証を発行するときから本名を使用。
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「(栄助が、松本六蔵と升屋利兵衛に発行した)受取証ヲ見テ、暴徒ノ巨魁ハ当郷字熊木平民農田代栄助ナルヲ知り、人々二度喫驚セリ、且ツ切歯扼腕ヲナス者アリ」(「秩父暴動事件概略」)
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集められた軍用金。
柿原吟三郎500円、逸見藤三郎3円、逸見助五郎20円、井上伴七100円、新井峰吉80円、松本六蔵200円、矢尾利兵衛300円、久保道蔵100円、岡幸八400円、大森喜右衛門800円、根岸藤太郎500円、福島七兵衛100円の計3,103円。
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○火薬購入と破裂弾製造
桜沢村の「官軍善」木島善一郎は、大宮郷の塩ノ谷薬店からエンサンカリとケイカンセキを購入、これを横瀬村の銃砲鍛冶職の町田代蔵宅へ運び、風布村の宮下沢五郎と破裂薬を製造(「大宮郷警察署長より警察本署雨宮警部宛報告書」)。
この砲弾は4日午後、粥新田峠を越えて坂本村に進出した際、「官軍善」らが携行。その他にも、命じられて火薬購入に奔走したとの証言あり。
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2日夜、蒔田村逸見福二郎は、栄助に命じられ、8円をもらい、25名を引率して秩父神社を出発、田村郷で合薬2貫500目を購入、13名で大宮郷へ運ばせ、次に久長村で3貫目を「強求」して大宮郷へ運搬。福二郎は、困民党の「勢力ヲ逞カラシメ」たとして、重禁錮2年を科せられる。
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3日、白久村贄川村小隊長坂本伊三郎(34、竹細工職人、軽懲役6年)は、「田代栄助ヨリ弾薬購求ノ命ヲ受ケ」、15円を受取り、袴をはき威厳をととのえ、浅見伊八(横瀬村、重禁鍋5年)・新井紋蔵(下日野沢村、軽懲役6年)ら数十人を率い、贄川村に行き、15円分の火薬を購入し大宮郷へ運ばる。
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2日夕方
信州南佐久郡北相木村に、秩父困民党井出為吉の「出発を促す書簡」が着。自由党員菊池恒之助・井出代吉ら8人が、秩父へ出発。途中挫折。
このうち菊池恒之助のみが貫平の軍と共に信州に戻ってくる。
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2日夜
山県・柱野警部指揮の巡査隊、太駄村に入り、鳥羽村戸長役場で夕食。
小柏ダイ・新井チヨらの煽動を聞き、昼夜兼行強行軍にもかかわらず、続いて上州保美濃山に向かい、更に、3日坂原村に向かい、小柏ダイらを保美濃山戸長役場に引致。夜は城峯峠を守備する。
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小柏ダイ(常次郎妻)・新井チヨ(19、新井蒔蔵妹)、1日夜、恩田宇一の指令により同じ日野沢村黒沢ウラと共に三波川へ鉄砲を借りに行く。
途中、矢納村高牛~鳥羽辺~尾根外の三波川までの未参加部落を訪れ参加を要請。拘留後、各罰金2円・1円50銭・無罪で放免。拘留は4日朝群馬の鬼石町でという説が主流。
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チヨの供述。
「二日、村方ヲ立ツテ、途中、因民党へ加ハレト触レテミヤウト、ダイノ言ニヨリ、
・・・鳥羽ニテ一軒へ立寄り、吉田ノ方へ困民党ガ寄合ツタル故、其方へ出ナケレバ、後カラ多人数参ルカラ出ルヤウニト申シ触レタリ。
・・・戯レニ(高牛ニテ)触レタルトコロ、五人バカリ出テ来ルト申スニ付、飛ンダコトヲ致シタト思ヒ、帰りニ一緒ニ行カウト申シ、態々三波川ニ泊リタル次第ナリ」。
三波川不動尊へのお参りが本当の目的と口裏を合わせる。
また、「飛ンダコトヲシタ」と恐縮しながら、「果シテ後悔セシモノナレパ、再ビ鳥羽へ到り其事ヲ触レル訳ナシ、如何?」と刑事に突っ込まれると、チヨは、「困民党卜申スハ好キ事ニ承り居リタル故、鳥羽ニテモ申セシナリ。飛ンダ事ヲ致セシト申セシハ間違ヒニ有之侯 日歩貸ヲ毀シタル話ハ聞キタレドそ、借リタ金ナドハ返サズトモ良キ訳ダト申ス故悪シキコトトモ心得ズ」と答える。
刑事が、「良キコトト心得シ故、方々フレ歩行キシ訳カ?」と訪ねると、チヨは断乎として「左様ニ御座候」と答える。取調べはここで打ち切り。
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2日夜
堀口幸助、かつて奉公した代書人宅に宿泊、忠告を受け逃亡を決意。翌3日皆野への途中で脱走、4日群馬県緑野郡三波村の知人宅で7、8泊。後、富岡町~故郷渋川駅~曲輪町、21日午後8時横山町で逮捕。
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午後8時50分
清浦警保局長より埼玉県庁へ、憲兵派遣の報入る。
これを受けて、笹田書記官は、本庄から寄居までの憲兵輸送の手配を、大里郡役所に訓電。
「憲兵一小隊春日少佐是ヲ率ヒ同夜十一時発本庄駅マデ別仕立汽車ニテ派遣ス」。
「今夜十二時憲兵百名許り其地へ着スル筈ニ付賄ヒ方手当シ、且ツ其地人力車残ラズ雇上置クベシ」。
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・秩父事件の初めての新聞報道(「東京横浜毎日新聞」)。
見出し「茨城暴動も概ね縛に就き、負債党の如きも漸く鎮静に帰したりしに、昨日又左の報を得たり」。
掲載電報「多数の人民、埼玉県秩父郡富市村の山中に集合し、各武器を携へ、中には銃砲を携ふるもありて、暴挙に及ばんとする有様なり。」。
多数の人民というのは、茨城暴徒のごとき者か、または負債党のごとき者か、いまのところ不明であると解説。
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・「秩父暴動雑録」にみるこの頃の動き。
*この日(2日)、上日野沢の小さな高利貸の弟が、前日、駆出されたが逃げ帰る途中と言い、筆者(田中千弥)の家に立寄る。
千弥が聞き取った暴徒の情報。
まず秩父で軍用金を集め、諸方の勢と一緒に埼玉県庁を打破り、浦和監獄から村上泰治を解放し、東京に上る。「板垣公卜兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安寧ナラシムべシ・・・今般ノ一挙ハ専ラ天下泰平ノ基ニシテ、貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル目的ナレバ、金穀銃器ヲ供シテ兵力ヲ助クべシ。」。
4日、近所の部落の役割表に名もない農民2名が、数部落の人足を集め、神社の前で、「我輩既ニ大宮裁判所ノ書類ヲ焼キ其庁ヲ毀テリ、朝廷ヨリ置ク庁ヲ毀ツ、既ニ朝敵ナリ」と、アジ演説し、進めや進めとくり出す。千弥は憤懣やるかたなく「聞腹のたつ蟷螂のじわざかな」。
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①幹部でもない農民が、自由党の言葉のパターンを使用し、政治的自由民権の概念を語る。
天下の政治を改革し、人民を自由ならしめるとの変革意識が、高利貸征伐という具体的行動に綜合(秩父事件は自由民権運動の発展線上にあるという見方)。
蜂起のスローガンは、農民にとって直接的な要求、負債据置・年賦返済・減租運動から発展した高利貸打毀し・証書と奥印書の焼き捨てであるが、その目標は政治改革に連なり、それに裏打ちされているとの自覚が表明されている。
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②負債農民が、人民の自由と安楽を語る時、自由党的な枠に止まろうとする幹部の意に反し、社会的意味を帯びざるを得ない。
自由とは最も直接的には借金からの自由、借金からの解放であるが、これを拡大すると徴兵・酒税・印紙税からの自由である。
困民党において、「世直シ」は「世均シ」に発展する。
困民党において、政治的自由民権は社会的自由民権に発展する。
恩田卯一(宇市)と坂本宗作のオルグを受けて参加した上州多胡郡上日野村の新井貞吉は、卯一が、高利貸や銀行をつぶし、「平ラナ世」にするから参加してもらいたいと説いたと述べる。
「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」。
「雑録」は、「貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル」と云う。
貫平は信州侵入の際、南佐久郡海瀬村で1戸1人の人足を強要した上、「天のその斯の民を生ずる、彼れに厚く、此れに薄きの理なし」と天賦人権の平等を説き、「拙者等は富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしむと欲するなり」と主張。
「朝野新聞」社説「貧富平等論」は、「社会ノ組織ヲ一変シテ、財産ノ均一ヲハカル」という社会主義と理解し、秩父事件も「経済上弱ヲ扶ケ強キヲ挫ク」主張であったと批判。
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・投書「百姓の困難」(「土陽新聞」)。
「抑も百姓が明治十二、三年の頃米の十円にも売れし頃は、始めて藩制以来の愁眉を開き、・・・漸く人間の仲間入をなすに至れり。此の時に当て、事を解せざる者は、農家の地位の斯く次第に進むを悪んで、動もすればヤレ百姓が奢るの、田舎が華美に流るるのとて、最少し地租を重くするも可なりとの諭ありけれども、我輩は之れと反対にて、如何に米価が十円に至りしと雖も、農家の税は軽きに非ず、実に他諸税よりも重くして、農家は実に困難なり、と云へり。何となれば、地税は営業税杯と違ひ、其財本に賦課せられたるものなれば、百円の地所を持てば年々必ず二円五十銭を私はざるを得ず。・・・乾損水損の差別なく、初手から定った課税なり。・・・農家が独り此の税に堪へて其業を落さざるものは何ぞ。これ非常の節倹が慣習となって、水を呑み襤褸を衣ても敢て意とせざるの境遇に甘んずるものなればなり。然るを、今論者が農家が僅かに人間の仲聞入をするや否之れを答めて奢侈に流るると云ふは、此れ実に百姓なるものは牛馬同様の者なれば、藁に寝て水で腹を張らせと云ふものなるべし。何と無礼千万な云ひ分ならずや。」
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