2012年6月23日土曜日

永禄13年/元亀元年(1570)9月10日 本願寺(顕如)を軸とする近江全体(浅井、六角、朝倉)の反信長戦線、成立 [信長37歳]

鎌倉 長谷寺 2012-06-20
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永禄13年/元亀元年(1570)
9月
・家康、浜松城完成し居城を移す(古城引馬城を大増築)。信玄に備える。嫡男竹千代に岡崎城を与える。
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初旬
・武田信玄1万5千、信濃佐久から碓氷峠越え上野侵入。南下し武州鉢形城包囲。包囲解き北条氏照居城武蔵多摩郡滝山城包囲。包囲解き、小田原へ。
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9月1日
・松永久秀、別所長治・麦井勘衛門の攻撃を受ける。 
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9月2日
・本願寺顕如、美濃郡上郡惣門徒中へ、前々年以来難題を持ちかけてきた信長が上洛するに際し、石山本願寺破却を通告してきた旨を通知(「安養寺文書」)。
他に、江州中郡門徒中、河内国中一揆、紀州惣門徒中、阿波・讃岐~筑後の坊主衆・門徒衆へ蜂起を促す檄文。
本願寺法主が始めて一向一揆の積極的な煽動指導者となる
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9月3日
・三好長逸の子兵庫助、池田より福島新城へ逃亡。
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9月4日
・紀州根来衆5千、今井宗久の手配で織田勢参陣。
別所重棟140騎・根来寺杉坊50人・畠山昭高旧臣玉木某と湯川某の陣代1千を率い天王寺に郡参(「武徳編年集成」)。
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9月4日
・足利義昭、2千のお供衆と中島浦江の細川藤賢居城着。
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9月5日
・本願寺顕如、紀州惣門徒中へ書状。8月28日に兵部卿(常楽寺証賢)の召集に対して返答のないことをたしなめ、本願寺の危急存亡を訴え石山参集を求める。
「此方の儀、いよいよ難儀に及び候間、時日を移さず早々に上坂候わば、喜悦すべく候」(「本願寺文書」)
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9月5日
・毛利輝元、元就大患の報に接し、小早川隆景・吉川元長らと毛利・小早川主力を率い吉田に帰着。残留の吉川元春、宍戸隆家らと兵6千軍で尼子軍を掃う
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9月5日
・上杉輝虎(41)、武田信玄の厩橋城攻撃の報を聞き、越後府内(上越市)を出発、上野に出陣。衝突なく12月帰国。
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9月6日
・本願寺顕如、近江中郡(湖東の犬上・神崎・蒲生3郡)の門徒に、無理難題を懸けてくる信長と戦うよう檄文。
「信長上洛に就き、此方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申すに付きて、随分扱いをなし、彼方(信長)に応じ候といえども、その詮なく、破却すべきの由、慥(たし)かに告げ来たり候。この上は力及ばず候。然らばこの時、開山の一流退転なきよう各々身命を顧みず、忠節を抽(ぬき)んづべきこと有難く候。併せて馳走頼み入り候。もし無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候。穴賢々々。」(「明照寺文書」)

(日付不明)信長、近江顕証寺へ石山本願寺からの蜂起命令に応じなかった旨を賞す(「本願寺文書」1)。
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9月6日
「世上の説、大坂(石山本願寺)より諸国へ悉く一揆おこり候へと申しふれ候由、沙汰候」(興福寺大乗院門跡尋憲の日記「尋憲記」)
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9月7日
・信長、天王寺より野田・福島に近い天満ヶ森に本陣移す。
織田軍先鋒隊は北海老江へ布陣(「松井家譜」)。
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9月7日
・本願寺顕如の祖母慶寿院、没。80余歳か(「言継卿記」)。長く本願寺に君臨した「女宗主」。

慶寿院:
8代宗主蓮如の子蓮淳(大津顕証寺・長島願証寺)の子。
9代宗主実如の子円如に嫁ぎ、円如早世後10代宗主証如(10)の後見人となる。
実父蓮淳が慶寿院を支え、加賀3ヶ寺を統制下におき、石山に本拠を定め、「宗主権」を確立。
天文23年証如(39)没後、顕如(12)の後見人となる。
永禄2(1559)年12月顕如が門跡に列せられた後、翌3年5月従二位に叙任される(在野の女性としては破格)。

慶寿院は、孫の顕如に公卿の転法輪三条公頼の娘を迎えた。
三条公頼の他の2人の娘は、細川晴元と武田信玄に嫁いでいる。こが如春(北向・北の方)。
如春は姉が嫁いだ細川晴元と六角承禎の猶子とされたうえで、顕如に嫁いだ。
これには、かつて敵対していた細川氏と六角氏と、本願寺の関係を友好的に保つという政治的な意図があった。

「本願寺(顕如)の祖母慶寿院、去七日死去云々、八十余歳か」(『言継卿記』9月21日)
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9月8日
・信長軍、石山の対岸楼ノ岸(斎藤新五・稲葉一鉄・中川重政)と川口(平手監物・平手汎秀・水野監物・佐々成政ら)に砦を築いて兵を入れる。
10日、中津川に船橋を架ける。双方の応酬は「誠に日夜天地も響くばかりに候」(「信長公記」巻3)。
三好三人衆は和議を申し入れるが、信長は「攻め干さるべきの由」(同前)と命じ攻撃続行。
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9月8日
・足利義昭、中島浦江の旧塁へ移陣(「武徳編年集成」)。
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9月9日
・オスマン軍、キプロス島ニコジア(ニコシア)占領。
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9月9日
・三好義継・松永久秀、摂津海老江砦を落とす。
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9月10日
・本願寺顕如、浅井久政・長政宛て書状。本願寺・浅井同盟成立
「今度、種々懇情の段、祝着(しゆうちやく)是非にあたわず候。いよいよもって油断なく、入魂あるべき事、肝要に候。委細の旨、(下間)頼総法印に演説せしむべく候間、擱筆候なり。穴賢(あなかしこ)
九月十日
浅井下野守殿
浅井備前守殿」

下間氏:
宗祖親鸞の家僕となった下問蓮位以来、殿原・中居・綱所などといわれた本願寺の俗務に携わる家系として存続していた。
顕如が門跡に列せられると、門跡寺院の制度にある僧房を坊官に改めて、俗務を担当した。
下間頼艮(大蔵卿法橋)、下間頼充(上野正秀法橋)、下間頼総である。
ただ、『石山本願寺日記』上巻(清文堂出版)に付載されている「下間系図抄」によれば、頼総は永禄12年12月14日に、33歳で「生害」、つまり宗主顕如の意向によって殺されたか、自害を命じられたことになっている。そのため、この頼総は新たに坊官となった人か。
本願寺が決起したのちも、坊官となる下間一族は、本願寺一族が住職となる院家と呼ばれる有力寺院と共に顕如を支えることになる。

南近江の六角承禎の猶子の如春が顕如に嫁いでいるため、北近江の浅井氏と本願寺との連携が成ることで、本願寺を軸とする近江全体の反信長戦線が成立した。
琵琶湖一帯は、蓮如の布教以来、寺院や道場のもとで多くの門徒衆が形成されていた。
しかし、信長の近江進出によって、近江門徒は圧迫されていたが、ここにいたって六角氏と浅井氏と共に、信長に対抗する名分を得ることになる。

さらに本願寺は、浅井氏と同盟する越前の朝倉義景とは、その領国支配をめぐって長く対立していたが、越前一乗谷に亡命した足利義昭の斡旋で、1年前の永禄12年4月に和議が成立していた。
和解の証として朝倉義景は、娘を顕如の長子の教如に嫁がせる約束が成り、2年後の元亀2年夏には、祝儀の交換が行なわれる。
朝倉義景の娘は、天正元年(1573)8月、義景が信長によって滅ぼされると、加賀(石川県)などを逃亡した末に、ようやく大坂に辿り着いて、教如の内室となった。
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9月10日
・下間正秀、近江「十ヶ寺惣衆」へ、信長との対峙にあたり「越州衆」の出撃遅延など全4ヶ条の作戦指示(「誓願寺文書」)。
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9月10日
・館林城代諸野因幡守季忠、謀反を悟られた小曾根玄蕃を襲撃。
小曾根玄蕃はこれを予期し待ち構え返り討ち、季忠勢は敗走。
しかし、翌日、季忠は館林城を乗取り立篭もる。城主となるべき赤井照景は京都で将軍に近侍。
10月25日、赤井照景の姉婿長尾但馬守、館林城に篭もる館林城代諸野因幡守季忠を討つため、館林に来援。乱戦の末、寄せ手は季忠息子諸野内膳正を捕縛するが勝敗つかず。和議席上、季忠は自殺に追い込まれ一族100余人も次々と切腹。
しかし、長尾但馬守は館林城から引き上げず、赤井照景を帰城させず、自ら館林城主となる。13年間統治。
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