2012年6月28日木曜日

永禄13年/元亀元年(1570)9月12日 本願寺、信長に敵対。足かけ11年に及ぶ「石山本願寺戦争」始まる  [信長37歳]

鎌倉 長谷寺 2012-06-20
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永禄13年/元亀元年(1570)
9月11日
・織田軍、中島の畠中城を攻略(「言継卿記」4)。
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9月11日
・大友宗麟、櫻井藤兵衛入道某に筑前莚田郡之内24町を与える。
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9月12日
本願寺の敵対(足かけ11年に及ぶ「石山本願寺戦争」の始まり)
信長、義昭と共に野田・福島北方10町の海老江城(福島区)に本陣移動、野田・福島攻撃開始。
陥落真近となる。根来鉄砲衆3千と雑賀鉄砲衆2千来援。
本願寺顕如、一向宗徒に挙兵を呼びかける。信長は予期したものと受けとめる。

野田・福島攻撃。
足軽達が築き上げた土手から一斉射撃、先陣の兵は塀際に押し寄せ、井楼に大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれる。
「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。鉄炮三千挺これある由候。毎日参陣候て攻められ候。御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかりに候」
野田・福島両城は和睦を提案するが、信長はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」と殲滅を決意

夜半、本願寺寺内に挙兵を知らせる早鐘(三好勢が抵抗している間に信長に戦いを挑む判断)。
摂津・河内の寺内町・道場に伝播し、和泉・大和・紀州へも伝わる。
中には、義昭側として信長の指揮のもと三好三人衆と戦っていた紀州の雑賀・湯川の門徒衆も含まれる。
本願寺衆の鉄砲は、三好三人衆(野田・福島砦)に対峙する楼の岸・川口砦に向って発砲。

将軍義昭を中核とし、本願寺、朝倉・浅井、松永・三好ら畿内勢力、信玄を含めた信長包囲網が形成される。

(日付不明)下間頼総の義昭・信長への宣戦布告。信長が石山本願寺に対して「謀叛」が「重々歴然」とし、義昭が信長に「御一味」して「御儀絶」したため(「勧修寺文書」)。
(日付不明)信長、近江顕証寺へ石山本願寺からの蜂起命令に応じなかった旨を賞す(「本願寺文書」)。

石山本願寺:
境内に御影堂・阿弥陀堂中心に、宗主・一家衆・家族が居住する「御坊」、周辺に有力坊主・内衆(家臣)の「宿所」。
境内外側周辺に北町・西町・南町(南町屋)・北町屋・清水町・新屋敷6町と枝町の檜物屋町・青屋町が「寺内町」を形成。
寺内町8町で1500~2千軒の町屋。
「御坊」周辺に堀・櫓、寺内町外部にも堀・土塁・櫓。
全国門徒衆から選ばれた、「御坊」警護の「番衆」。

石山を狙う戦略的意味。
①「武家」による天下支配(「大阪門徒・一揆・百姓」の中世的論理の支配・屈伏)。
既に、冨田の聖徳寺(尾張門徒の中心)、近松の顕証寺(大津からの京都の入口)、摂津高槻冨田の教行寺、河内招堤の敬応寺、枚方の順興寺、八尾久宝寺の顕証寺は寺内町を屈伏させ安堵。
本願寺を石山から退去させれば、各地の反信長大名と結ぶ門徒を弱体化できる(三好三人衆を支える阿波・讃岐門徒衆、浅井・六角に協力する近江門徒衆など)。
②大阪の地の利(大阪湾に臨む上町台地の一番高い先端部)。

本願寺法主顕如が反信長姿勢をとると西尾張も緊張状態。
信長は長島に近い小木江城(海部郡立田村)に弟信興を置き、五明(海部郡弥富町)砦に兵を入れ願証寺(尾張・美濃・伊勢の門徒を統括する真宗本願寺)の一向一揆に備える。

濃尾の一揆状況:
①郡上惣門徒中は安養寺(郡上市八幡町)に結集、
②多良谷(養老郡石津町、揖斐川支流牧田川奥)では浄徳寺に結集し織田軍団氏家氏と戦う、
③尾張葉栗郡~美濃厚見郡では河野惣道場専福寺が石山を援護。
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9月12日
・「越州之軍勢」(朝倉軍)8千が近江堅田まで進撃の「雑説」により「京中騒動」となる(「言継卿記」4)。
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9月13日
・未明より西風強く淀川が逆流。三好三人衆は河端の堤を切り、織田陣営は浸水。
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9月13日
・石山本願寺、楼岸・川口の織田軍を攻撃。
14日、天満ヶ森を攻撃。織田勢も応戦、川を越え、両軍は淀川堤で衝突。
織田勢一番手佐々成政は手傷を負い退く。二番手前田利家が堤通り中筋を進み、右手から弓衆中野又兵衛、左手から野村越中・湯浅甚助・毛利秀頼・兼松又四郎らが殺到。
乱戦のなか、野村越中、討死(「信長公記」ではこの戦いは14日。「細川両家記」などは20日とするが、こちらの方が真実に近い)。
15日、雑賀衆・門徒勢、本願寺より討ち出し織田勢3千討取る。
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9月14日
・将軍義昭は本願寺との和平を模索。
「公方親征」とはいえ信長が圧倒的主導権を握る形勢を挽回するため。この日、大納言烏丸光康を京都に戻らせ、18日、義昭の意向を朝廷に報告させる。

「武家(義昭)より、大坂の一揆おこり候わぬよう、仰せいたされ候へのよし、一位の大納言(烏丸光康)して申さるる」(『御湯殿上日記』9月18日)
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9月14日
・顕如から紀州門徒に宛てて、
「急に注進せしめ候。爰元(ここもと)の儀、難儀相極り候。根来寺の事候へば、是非に及ばず候。相調(ととの)わずに於いては、その方の儀、おのおの顧ず。早速切上られ候わば祝着候。併せて頼み入り候」(「本願寺文書」)
将軍・信長に呼応して出兵した根来寺との調停が不調に終わり、これとの戦いを指示。
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9月14日
・義昭名で家康に出兵命令。
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9月16日
・ノイマン・ルイス・ダルメイダ、博多会堂復興の状況を報じる。
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9月16日
朝倉・浅井両軍3万が坂本に進出
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9月16日
・「十六日十七日に鉄砲留められ候て、和睦の暖(あつかい)候へども、相調のわずよし申し候」(「細川両家記」)。義昭の工作かどうかは不明。
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9月17日
・義昭、信長の懇請により本願寺に停戦命ずる勅書要請乞う。
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9月17日
・吉田兼見、朝倉氏入洛風説により家財疎開。
また初めて北条氏康・氏政に音信(「兼見卿記」1)。
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