この年
・ネーデルラント継承戦争始まる
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・ネーデルランド、ルーヴァン大学創立。オランダをパリから独立させようとした。
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・ロンドンで、排外的緊張が高まる。
ウィンチェスタ司教ヘンリ・ボーフォート(グロスタ公の対抗者)と、ロンドン市民が対立。
グロスタ公ハンフリー、ロンドン市民の保護者をかって出て軍事力を動員。
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・明、この年1425(応永32、洪熙元)年~34(永享6、宜徳9)年、内官柴山を4度琉球に派遣。
日明国交断絶後、琉球貿易を通じ日本産物資(生漆・磨刀石・扇子・刀等)を購入、日明国交再開を琉球を通じて打診してみるという目的。
15世紀、中山王国による統一を進める琉球は、日本・朝鮮・東南アジア諸国と同じ立場で明に朝貢し、その冊封体制の一翼を構成しながら、同時に日・明・朝・東南アジアとの中継貿易を一手に引受け、掌握する二重の立場と機能を担う。
琉球と南方との貿易は14世紀初頭から始まり、15世紀には、シャム・バタニ・マラッカ・スンダ・北ヴェトナム・パレンバン等との頻繁な通交が指摘されている(主な通交先はシャム・パタニ・マラッカ方面であるが、通商は東南アジア全域に及ぶ)。
明との朝貢・貿易で入手した陶器をこれら南方諸国に輸出し、逆に南方諸国からは胡椒・蘇木を入手し、これらを明への貢物・附塔品とした。
明と東南アジア諸国は直接的朝貢と、琉球を介する間接的貿易ルートとによる二重の関係で結ばれている。
一方、琉球は既に高麗末期以来朝鮮半島にも進出し、南方産物資を輸出している。
朝鮮との通商貿易を切望する対馬にとって、朝鮮側が欲する南方物資を確保するために琉球との接触は必要欠くべからざることである。
また、琉球は、将軍義持時代に断絶状感に陥った日明間の通商貿易の媒介のみならず、国交再開の斡旋という役割も果す。
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1月
・リエージュ司教ヨーハン(ジャン、ジョン)・フォン・バイエルン(リエージュのヨーハン)、没。
仏ブルゴーニュ候フィリップ善良公、継承、ネーデルラント継承戦争に参戦(1425~1428)。
ヨーハンの兄エノー伯・ホラント伯・ギョーム4世(フィリップ大胆公娘マルグリットと結婚)、
姉イザボー・ド・バヴィエール(フランス王シャルル6世妻)、
姉マルグリット・ド・バヴィエール(ブルゴーニュ公ジャン・サン・プール(無怖公)妻)
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1月3日
・ヴェネツィア、アラゴン及びシチリア王アルフォンソとの間で、損害賠償のための合意
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2月9日
・越後守護代職の長尾邦景、守護上杉房朝の命令で越後一の宮居多(こた)神社の神事を沙汰する
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2月24日
・フランチェスコ・カルマニョーラ、ミラノから逃亡してヴェネツィアにいたる
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2月27日
・第5代将軍足利義量(19、よしかず)、没。義持(40)の子。義嗣(義満の末子、義持の弟)の怨霊の祟り、前年石清水八幡宮の神人数十人を殺した神罰(「薩戒記」)と云われる。
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3月
・仏、ブルゴーニュ派リッシュモン伯アルトゥール(アルトュール・ド・リシュモン)、王軍長(フランス総司令官)に就任。リシュモン妻はブルゴーニュ候ジャン無怖公娘(フィリップ善良公妹)マルグリッド。
ブルターニュ、ブルゴーニュ、アンジュー家の協力をうけたリッシュモン伯、王太子派内部のアルマニャック勢を排除し、ロワール以南の地侍を中心とする体制に立て直し、偏狭な党派性は消滅、王軍として整っていく基盤ができる。
後、リッシュモン伯は兄ブルターニュ侯ベドフォード侯への接近によって失脚するが、改革そのものに影響を与えず。
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3月4日
・ヴェネツィア、ソリア・ディ・アンドーレア・プリウーリ兄弟銀行倒産
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3月25日
・スコットランド王ジェームズ1世、王権回復。捕囚の摂政アルバニ公処刑。
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3月26日
・ヴェネツィア、カルマニョーラ、ヴェネツィア軍の指揮をとる
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5月
・スコットランド王ジェイムズ1世、従兄弟オルバニー公マードック、2男ウォルター、3男アレグザンダーを逮捕、5月6日処刑。ジェイムズ1世の強硬政策。
1424年⇒1425年、公領(1→0)、伯領(15→7)に激減。
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7月
・仏、リッシュモン伯、ブールジュ政権の実権を握る。アルマニャック派の失権
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7月21日
・ビザンチン帝国皇帝マヌエル2世、没。子ヨハネス3世後継。帝国は衰運に向かう。
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8月14日
・相国寺、焼失。相国寺本坊内の諸寮舎は一宇ものこさず焼亡。勝定院・大德院・大智院・大幢院・崇寿院輪蔵、その他少々のみ残る。
10月7日、相国寺事始め。
11月3日、立柱の式。義持列席。
しかし、再建は進まず。幕府財政は思うにまかせず。相国寺寺領も地方武士に押領され、収入は減少の一途を辿っているため。
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12月
・ネーデルランド、ブラウェルスハーフェン(ゼーラント)の戦い。
グロスタ公ハンフリー(ヤコバの夫)の遠征軍、ブルゴーニュ軍に撃破。
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12月3日
・対ミラノ同盟成立。ヴェネツィアとフィレンツェ、ミラノに対抗して同盟。
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12月9日
・教皇マルティムス5世、アレクサンドリア及びバビロニアのスルタンと25年間の通商をヴェネツィアに認める
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應永33(1426)年
1月3日
・ヴェネツィア、造船所(アルセナーレ)の麻の手入れのため、アスティ貴族フェデリーコ・グァルレータと契約。21日、ヴェネツィアとフィレンツェとの同盟公表。
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2月19日
・ヴェネツィア、カルマニョーラ、ヴェネツィア本土軍隊の総司令官。
5月7日、大議会に加入。
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6月
・祈祷を行う。
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6月8日
・千葉氏12代千葉満胤(67)、没。嫡男・兼胤、家督相続。
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6月16日
・ウースチーの戦い。
プロコフ率いるフス派軍(ターボル派・プラハ人連合軍)2万4千、ザクセン公フリードリヒが籠もるウースチーを包囲。
ザクセン公妻カテリーナにより第3次十字軍が発動、フス派軍を越える兵力が来援する、損害1万5千を被り大敗。
ドイツ騎士修道会総長パウル・フォン・ルスドルフは兵50をベーメン・シレジア境界の町に派遣するが、派遣軍はこの町に留まりベーメンに侵攻せず。
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6月26日
・鎌倉公方足利持氏、甲斐の武田信長(信満の2男)討伐のため一色持家1千を派遣、この日、武州横山口から武田を攻撃。
8月1日、武州の七党が秩父口から乱入し、25日、信長は降参。鎌倉へ連行。
上杉禅秀の乱に関連して、1417年、上杉信満が討たれ、鎌倉公方持氏は京都の幕府の承認なく甲斐を逸見氏に与える。
その後、逸見氏と武田氏は甲斐を廻り抗争、逸見氏は敗北。
この年、持氏が兵を派遣して、武田氏を降参させる。
その後の甲斐:
鎌倉公方持氏は甲州を逸見に与えるよう、京都の将軍義持に訴訟するが、義持は高野山にいる武田信元(信満の祖父信春の末子)に与える命令を出し、信元が甲斐に入る。
鎌倉に出仕。
信元には嫡子がなく、信長1男伊豆千代を養子に迎え入れ相続させる。
信元没後、甲州守護代跡部駿河・同上野が、輪宝一揆の侍に加勢され伊豆千代に背く。
伊豆千代には日一揆が加勢するが、永享5年(1433)3月敗れ、信長は信濃から京に上る(甲斐は鎌倉に出仕しており、鎌倉に加勢を求めるべきところを、京都の将軍に支援を要請)。
将軍足利義教は、信長に遠江蒲の庄御厨で1千貫の地を与える。
永享10(1438)年8月、武田信重(信長の兄、法名は道成)が高野山から京に下るが、上杉禅秀一味であるとの非難もあり、信長は兄を西国に隠し扶助する。
一方、甲斐は鎌倉公方下知も無いままに跡部兄弟が国を押領。
その後、武田信長に庇護された信重が、結城合戦で戦功を上げて甲斐守護になり、跡部を追って甲斐に入る。
しかし20年間の守護不在で武田家は存亡の危機に瀕する状況。
信重の子信昌(信玄の曽祖父)がこれを再建。
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7月5日
・キプロス、遠征してきたエジプト・マムルーク朝に敗れる。
12日、キプロスのジャニュス王、エジプト王に捕虜にされ首都ニコジアが破壊。
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7月11日
・ヴェネツィア、ミラノ公に対抗して、サヴォイア公及びフィレンツェと同盟
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7月21日
・ビザンチン皇帝マヌエル2世、没。息子、ヨハネス8世として即位。
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9月18日
・フランドルの画家ヴァン・アイク、没。
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10月25日
・ヴェネツィア、オルシーニ家、貴族階級に加入
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11月3日
・ヴェネツィア、ユダヤ教会は建築を許されぬ
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11月20日
・ヴェネツィア軍、ブレシアに入城
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12月3日
・ヴェネツィア、ミラノのヴィスコンティと和平、サン・ジョルジョ・マジョーレ島で条約締結
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