皇居三の丸尚蔵館で公開されている『蒙古来襲絵詞』を見に行った。
皇居(東御苑)はホント久しぶり、今年は、さつき、花菖蒲、紫陽花の季節を逃している。
(草花に関しては別記事↓にて)
東京 皇居東御苑 サルスベリ キキョウ ヤマユリ ヤマハギ ヒメリンゴ 2016-07-28
『絵詞』はずっと前から機会があれば是非見たいと思っていたので、
ゆっくりじっくり見せて貰った。
岩佐又兵衛の『小栗判官絵巻』もなかなか良かった。
▼パンフレット
『駒競べ』が企画展のテーマ。
従って、上の二つの『絵詞』『絵巻』も馬がメインで出てくる場面がその対象。
『蒙古来襲絵詞』はパンフレットにないので、ネット上にあるものを頂いて下に貼っておく。
公開部分は左側にもう少し長い。
さて、この『絵詞』、実は竹崎季長という武士が、恩賞を得るために、
自分はどれだけ奮戦したかをアピールするために作成したものという。
もう10年以上前に作った「黙翁年表」の当該部分は ↓
文永11(1274)年
10月5日
・【文永の役】
蒙古・高麗混成軍3万・船900、対馬の西海岸佐須浦に来襲。
地頭宗資国、80騎で対馬西方の佐須浦に向かう。
翌6日、資国は通訳を使者として遣わすが、兵1千が上陸。宗資国主従は戦死。連合軍は付近の民家を焼き払う。
*
10月14日
10月14日
・蒙古軍、壱岐を侵略、兵400が上陸。
守護代平景高以下100で応戦、戦死。島民200を殺害もしくは捕虜とする。
15日、壱岐を落とす。
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10月16日~17日
・平戸・能古・鷹島諸島辺が襲われ男女が多く捕えられ、松浦党武士団を粉砕。
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10月18日
・壱岐守護代平景高の下人宗三郎、博多へ渡ってこの事を注進。
大宰府守護所、対馬から注進により、鎌倉・六波羅に急報、管内の守護・地頭に防衛部署につくべき檄を伝える。
九州の地頭・御家人等は計画に従って、大宰府・博多等の要所を警固すべく馳せ参じる。
鎮西奉行武藤経資は、弟景資を前線指揮官とし、薩摩守護島津久経(60)を箱崎方面警備につかせる。
*
10月18日
・蒙古襲来の報、京都に届く(「勘仲記」)。
*
10月19日
・蒙古軍先遣隊、博多湾西・今津から上陸。
*
10月20日
・①西部:
蒙古軍4千5百、筑前(博多湾の西寄り百道原)に上陸。祖原~鳥飼方面へ向かう。
②東部:別働隊5千4百、博多湾の東寄り・箱崎方面より上陸。筥崎宮が炎上。
③正面:主力1万1千、博多中心部の真北・息の浜から上陸。
蒙古軍は、交通要所を狙って上陸(侵攻路に関する事前の情報収集:高麗情報や趙良弼の事前調査)。
・迎撃体制:
迎え撃つ異国警固番役の御家人と地元武士団は5千余
(①博多西部(麁原・赤坂地区)1千3百、②博多中心部(博多地区)3千、③博多東部(箱崎地区)1千(「蒙古襲来絵詞」より推察))。
力を博多正面に集中して太宰府への最短距離を死守しつつ、各地から集まってくる援軍を待ち、これらを収容した後に決戦するという戦略。少弐・菊池の軍退き、水城城に拠る。
・上陸軍の行動:
朝から前後して、今津・百道原・博多等の各地に上陸。今津方面の戦況は殆ど伝わっていないため不明。
①西部の前線で百道原から麁原方面に戦闘を展開したのは、金方慶麾下の高麗軍。日本軍は赤坂まで退く。
②正面の前線も息の浜から博多方面に戦線が後退。蒙古方の目標は大宰府占拠にあり、その主力を博多に集中させた模様。少弐景資麾下の主力軍が博多・箱崎方面において、巳ノ刻から日没まで激闘を継続。
③東部戦線も圧迫され、箱崎八幡宮社殿は罹災、僧俗社官が神輿を奉じて宇義付近に避難。高麗軍の麁原・赤坂方面への進出は、日本軍牽制のためと考えられる。今津は赤坂方面の戦闘地区とは隔たっており、連携作戦ではない(?)。
やがて、西部・正面戦線は膠着。
少弐景資の命を受けた後続部隊が、鳥飼・赤坂方面にも続々と到着。
この時、竹崎季長が先駆けする。
「かく待懸る処二十一日蒙古、船より下り、馬に乗り旗を挙げて責かゝる。日本大将には少弐入道覚恵の孫、纔かに十二三の者、箭合の為とて小鏑を射出たりしに、蒙古一度どっと咲くひ、太鼓をたゝき、どらを打て時を作すおびただしさに、日本の馬共驚躍て刎狂ふ程に、馬をこそ刷しが、向んと云事も忘れ、蒙古が矢短しと云とも、矢根に毒を塗たれば、ちとも当たる所毒気にまく。数万人矢崎を調て雨降る如く射ける上に、鉾長柄物具あきまを指して弛まず。一面に立双て寄する者あれば、中にして引退く。両方端をまわし合て取篭て皆殺ける。能振舞て死ぬるをば、腹をあけ肝を取り之を飲む。元より牛馬美物とするなれば、射殺せらるゝ馬を以て食せり。冑軽く馬には乗り、力強く命は惜しまず、強盛勇自在無窮に馳せ引くを、大将軍高き所に居上り、引くべき所には逃鼓を扣に随て夫寄引き、逃る時には鉄鉋を飛ばし暗くなし、鳴り高ければ心を迷い肝を失し、目くれ耳塞て忙然として東西を知らず、日本軍の如く相互に名乗合い、高名不覚は一人宛の勝負と思ふ処、此の合戦は大勢一度寄合て、足手の動く処に我も我もと取付て押殺し生捕けり、是の故に懸入る程の日本人として漏るる者こそなかりけれ」(「八幡愚童記」)。
「(蒙古の)兵船ともははるか沖の方なる鷹島へこそハこきよせにけれ、此時大軍を以ておしよせりとおもへとも、皆三十五十のよりあつまりにて、これといふ大将もなく、たか指揮すといふ人もあらさりけれは、強きやうにておの々々文永の手こりに恐れたれハ、いきおひうすし」(「八幡愚童記」正応本)。
小集団の寄せ集まりで、大将もなく、統制を欠いている様子が窺える。
少弐・大友を始め、白杵・戸次・松浦党・菊池・原田・小玉党以下神社・仏寺の司に至るまで数万。
総指揮官少弐景資が第一線に立ち、矢合せのにより戦闘開始。
敵軍の大鼓・銅鑼・喚声で、日本軍の馬は驚き進撃を躊躇。敵の矢は短いが矢の根に毒が塗布。
相互に名乗り合って一騎打を挑む古来の戦法は全く用をなさず。
松浦党などは多く打たれ、原田の一類は深田に追いこめられる。
蒙古軍は勝ちに乗じて攻め入り、今津・佐原・百道原・赤坂の各地が乱闘の地区となり、日本軍の損害は甚大、次第に退却の態勢となる。
菊池重基は130騎を従え、侘磨頼秀は100騎を具して、敵中を蹂躙、奮闘。
大将軍少弐景資は自ら郎従を督して奪戦、蒙古方の大将軍とおぼしい大男とわたり合い、終に馬上より射落。
この日の戦闘は巳ノ刻に始まって日没に及ぶ。日本軍は防衛力を喪失し、水城を指して引き上げる。
【活躍した武士達】
①大友頼泰(1222~1300、79):文永9(1272)年初、豊後守護・鎮西奉行として豊後に下向、少弐氏と共に両役で鎮西の地頭・御家人を指揮。以後、相模大友郷の本貫から豊後に移住、土着、豊後の豪族的領主としての性格を強める。
②武藤資能(1198~1281、84):安貞2(1228)年父資頼没後、寛喜2(1230)年5月迄に筑前・豊前・肥前・対馬守護を兼任。文永10(1273)11月以前に壱岐守護にも任ず。父に続き大宰府に守護所を置く。右衛門尉・豊前守・筑後守を歴任して正嘉2(1258)2~4月頃大幸少弐、文永元年頃出家。文永5年閏正月、高麗使節潘阜のもたらした元の国書を鎌倉幕府に取りつぎ、以後大宰府守護所は元使来朝の窓口として機能。襲来に備え大友頼泰と共に鎮西防衛責任者として幕府から軍事統率権を委任される(鎮西西方奉行と呼ばれる)。文永11年の襲来では三子景資を大将とし子の経資と共に戦う。文永12年初、三前二島守護職を経資に移譲、大宰少弐も辞す。弘安4(1281)蒙古再来にも参戦、壱岐島の戦闘による負傷がもとで同年閏7月13日没(84)。
③武藤経資(?~1291):武藤資能の子。大宰府執行として活動。文永11(1274)年の襲来に参戦。同12年初、三前二島守護職を父資能から相伝、大宰少弐を兼ねる。弘安4(1281)年の再来では壱岐で指揮。弘安7年、大友頼泰らと共に鎮西特殊合議制訴訟機関の合奉行。同9年鎮西談議所頭人として鎮西の訴訟を取り扱い、蒙古合戦恩賞地配分に携わる。弘安7年北条時宗没を機に出家。正応4(1291)年没。
④河野通有(1250?~1311、62?):伊予守護。父は通継。父の所領伊予石井郷を継承し縦淵城に拠る。弘安4(1281)年の来襲では、叔父通時・嫡子通忠と伊予の地頭以下・御家人を率い筑前博多に向かい箱崎に着陣。博多海岸に河野の後築地(うしろついじ)といわれる高い陣地を築く。通時と小舟2艘に乗り、夷国船のように姿を変えて敵船に近づき急襲、将1人を捕膚とし敵船に放火。瀬戸内海水軍頭領としての経験を生かして戦果を上げ対馬守となる。応長元(1311)年7月14日没。
⑤河野通時(?~1281):通久次男だが、実際は通信の子、通久・通継の弟。本領の伊予久米郡石井郷を巡り兄通継・その子道有と相論。建長3(1251)年1月8日、将軍家の弓始めに射手として参加、翌4年4月にも射手に選ばれる。正嘉2(1258)年1月の垸飯(おうばん)に参列、弘安4(1281)年の来襲には甥通有と筑前博多に参陣、敵船を奇襲して軍功を立てるが、負傷のため船中で没。
⑥菊池武房(1245~1285);肥後の武士。菊池隆泰の次男。文永11(1274)年10月の襲来で弟有隆らと共に、その上陸を退けて活躍。弘安4(1281)年の再襲来では元軍を一族と共に防塁により迎え撃ち功を立てる。弘安8年12月26日没。
・【竹崎季長絵詞】
肥後国下益城郡豊福村竹崎の住人。文永11年の蒙古襲来に際し、一族郎等を率いて博多に出陣、麁原・鳥飼等の各地区で奪戦、功を立て、建治元年(1275)10月、竹崎東南の海東郷の地領職を拝領。
弘安4年(1281)の来襲にには、肥後国内の先頭で戦い、夜襲して敵船に突入、敵将を仆す等の戦功を立て、この功により左兵衛尉に任ぜられる。
竹崎季長とその姉聟三井資長等の主従5騎、一門の軍勢から離脱し単独行動をとり赤坂へと向かう。赤坂方面の蒙古軍は、菊池武房に打ち破られて二手に分かれて麁原・別府の塚原にあった。塚原の部隊は小勢で、季長は鳥飼潟でこれを捕捉・追撃、但し干潟は馬を馳せるには適さずとり逃す。季長は麁原に向かい、蒙古の大軍に向かう。
季長は、まず、射程距離にまで近づき、「敵の急所を狙い矢継ぎ早に」射掛けながら馬を小走りさせて接近。敵を追い散らし、幾つかの敵を討ち取るが、敵は多勢、主従は猛烈な反撃を受け、季長主従は手傷を負う。
そこへ、肥前の御家人白石通泰100騎が加勢に駆けつけ、魚鱗の陣形を組んで蒙古軍に近づき、射程距離に入るや集中射撃と進退を繰り返し、弓による波状攻撃を仕掛ける。蒙古軍はこの攻撃によって撤退し、竹崎季長主従は難を逃れる。←上記『絵詞』はこの部分
・赤坂は台地であり、高所に陣取った武士は、蒙古軍へ矢を撃ち下ろしその威力を増す。
両軍とも主力武器は弓矢であり、戦闘のほとんどが「楯突戦」に費やされた。これにより、蒙古軍は矢の不足という事態を招く。
日没になると、武士達は「水城に拠って防戦しよう」とささやき合い退却。日本軍の防戦、副司令官・劉復亨の負傷もあり、蒙古軍はこれ以上の侵攻を断念、博多中心部へ侵入することなく軍船に引きあげ。太宰府占領を阻んだという点において日本側の勝利。但し、元側の見通しの甘さに助けられる。
当時の戦法:
初期段階は楯突戦(対峙した両軍が、突き並べた巨大な楯で身を守り遠矢を射掛けあう矢による集団戦)。両軍の距離は50~70m程度。矢による狙撃を行いながら接近していき(急所や鎧の空き間を狙う)接近戦に移行。騎馬は逃げていく敵の追撃が主となる。接近戦も、一騎打ちとは限らず、「轡を並べて駆け入る」「敵を中に取り籠める」という戦法が多い。
当時は、「蒙古襲来絵詞」の武装に見るように、南北朝時代・戦国時代とは異なり、小具足(諸籠手・脛当・膝鎧など鎧兜で保護できない部分の防具)が発達していないため、主力武器は弓箭であった。
1333~1387年軍忠状百80点(延べ574人分)の戦傷を調査したところ矢疵が86.4%、切疵9.2%、石疵/礫疵2.8%、鑓疵/突疵1.4%(鈴木眞哉「謎解き日本合戦史」)。戦の形勢は楯突戦で殆ど決定する。
・本陣にて軍議。高麗軍の将・金方慶は主戦論、蒙古軍総司令官・忻都は慎重論。衆議は忻都に傾き、一旦撤退に決定し軍議は終わる。
・夜、大風起こり蒙古船200余漂没。
・日本側の当時の記録には、「蒙古軍が姿を消した」とのみ記され、暴風雨のことは後日の伝聞・報告として記述。但し、蒙古軍が海没した場所・日時は載っていず、暴風雨は引上げ途中で、日本側が蒙古軍の行動を把握できない海域で起こった(らしい)。元軍の半数は海没、将兵は溺死。遭難者のうち220余が志賀島に漂着し生け捕りにされる。
(略)
文永12/建治元年(1275)
11月1日
・肥後の竹崎季長、幕府に博多での戦功を上申、恩賞を与えられる。竹崎の東南の海東郷の地領職を拝領。
弘安4年(1281)再度の来襲に際して、肥後国内の諸将士の先頭で敵軍と戦い、夜襲して敵船に突入して敵将を仆す、等の戦功を立て、この功によって左兵衛尉に任ぜられる。
季長は、自ら関東に赴き、恩賞奉行安達泰盛を訪問。
泰盛は、委細に事情を聴取、季長の不備点を見出す。季長はいささかの隙をもみせぬ泰盛の油断なき応待ぶりを示す(「蒙古襲来絵詞」)。
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