鎌倉 大巧寺 2016-07-19
*明治38年(1905)
12月1日
・河上肇、「社會主義評論」(「読売新聞」連載)を中断し、一切の敎職を辭して伊藤證信氏の無我苑に入る。
この日、河上肇は伊藤証信に逢うため巣鴨へ行くが、伊藤が籠っている大日堂を見つけることができなかった。河上は自分の生活に対する疑いを述べた手紙を伊藤に書くと伊藤から返信があった。その返信には、「社会組織の工夫などといふことは極々つまらぬ事で、人生の平和幸福といふものは、そんな廻り遠い事をせんでも、ただ『無我の愛』これ一つの実行で即時に成就できます。」とあった。
4日、河上は大日堂を訪を、夜10時まで語り合った後、「無我の愛」の伝道生活に入る約束をし、翌5日、関係している学校へ全部辞表を出した。また伊藤のすすめに従って、「読売」に連載していた「社会主義評論」を中止し、「擱筆の辞」と懺悔録を書いて載せた。さらに、何年もかかって買い集めた経済学関係の書物を全部売りはらってしまった。
かつて山口高等学校教授時代に、文科から法科に転じようとする河上を思いとどまらせようと努めた登張竹風は、これを読んで驚いた。農科大学教授の和田垣謙三は、「君、河上は気が変になったね。惜しいことだ。もっともあの男は羊のような目をしている。ああいう目の持ち主は大抵狂するものだよ」、と登張に言った。登張は「へえ、さようなものですかな」と答えた。
河上は無収入になり、東大の理科に在籍していた彼の弟は、学資の出どころか無くなって退学することになった。このことが世に伝わり、有名な千山万水楼主人が一人の乞食坊主の弟子になったと言って、大きな評判になった。
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12月1日
・幸徳秋水、シアトル日本人会堂にて講演「戦後の日本」。聴衆500。
渡米中の秋水の生活については、「渡米日記」(1905年11月17日~1906年6月28日)や「光」紙上の「桑港より」などで知ることが出来る。集会も言論も出版も自由で「彼己氏(天皇)の毒手の及ぼざる処」で、まさに魚が水を得たような躍動であった。
数多の講演会、読書、アナキスト・ジョンソン老、露国フリッチ夫人、露国革命党員らとの交遊、アメリカ社会党入党、社会主義研究会開催など。無政府共産制の一時的実現とみたサンフランシスコ大地震の体験。在米の日本人社会主義者約五十名による社会革命党結成、その宣言、綱領、党則は秋水が起草した。その宣言の中の、
一人をして其の野心虚栄の心を満たしめんが為に百万民衆常に侵略の犠牲になるの時に於て国家なるもの果して何の尊厳なりや
などの文中に、抽象的に天皇制批判があるとみられている。
たとえ抽象的であっても、「天皇の毒手」「彼己氏の毒手」 につづいての、秋水の天皇・天皇制批判を活字にした最初であろう。
渡米中の秋水が無政府主義により接近していたことは間違いない。
3日シアトル発。
5日サンフランシスコ着。
桑港平民社支部の岡繁樹、夫人敏子、岩佐作太郎、市川藤市、中沢次郎、倉持喜三郎らに迎えられ、無神論者のアルバート=ジョンソン翁や社会革命党員のフリッチ夫人らに紹介された。
平民社支部は、宏壮な洋館で、入口には和英両文字で「平民社桑港支部」という看板が掲げられていた。東京では平民社は解散したが、アメリカでは東京の旧本部よりも遥かに立派な建物にそれが存在していた。
会堂は、12畳ほどの室が2つ、外に食堂、会の支部長岡繁樹夫妻の住む狭い室、湯殿と玄関があった。
しかし、そこは人の出入りが多く落ちつかないので、12日には、病弱の幸徳は、そこから2、3丁離れた所に室を借りて移った。そこは、アルバート・ジョンソン翁とは背中合わせの近さであった。
家は、それはロシア系アナーキストのフリッチ夫人とその娘の家で、幸徳はそこに寝泊りして、平民社支部へ食事に通った。彼の借りた室は14,5畳の広さで、壁にはクロボトキンとバクーニンの肖像や風景画などが掲げられていた。
夫人はロシアから来た革命家エンマ・ゴールドマンの親戚で17歳位の娘をつれた産婆の未亡人で当時医学の勉強をしていた。
6日、運動方針打合せ。
9日、邦字新聞「日米」「新世界」両記者晩餐会に招待。
10日、有志茶話会。50名参加。
12日、フリッチ夫人の寓居の一室に移る。
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12月2日
・在英公使館を大使館に、林董駐英公使を大使に昇格。
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12月4日
・戸水事件。新聞に東大総長山川健次郎の依願免官が報じられる。
8月末、戸水休職の責任をとり辞表提出。文部省はこれを握り潰しておいて、この時期に免職させる。
帝大教授会総会、文相に抗議。戸水と親しい寺尾・金井・建部・岡田らの他、小野塚喜平次、穂積陳重・八束が、新総長松井直吉に辞表提出。7日、東京帝大法科大学教授190人連署で首相・文相に抗議書提出。
この日、新総長松井直吉、辞表提出。
11日、文相久保田譲、辞職。
翌年1月29日、新総長濱尾新が、辞表提出の教授、戸水を説得、この日の戸水の復職をもって事件終結。濱尾新の後継に山川健次郎が総長復帰。
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12月4日
・在日清国人学生、清国人留学生取締規則に反対して授業ボイコット。
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12月4日
・フィンランド議会、ロシア化措置を撤廃。公用語としてのロシア語使用廃止。
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12月4日
・ニューヨークのユダヤ人12万5千人、ロシアのユダヤ人の窮状に同情しデモ。
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12月5日
・徳富蘆花、兄の蘇峰を訪ねて、これまでの自分の行動を謝罪。また、石川三四郎へは「懺悔」という一文を届け「新紀元」に発表するよう依頼。この文章は、兄に対して自分が長い間不当の仕打ちをしたということを述べたもの。
しかしすぐ後で、彼はまた考え直した。自分が率直に謝罪したのに対して、兄は少しも己れの非を認めず、政策的な返事をしかしなかった。そのような兄に対し「懺悔」をするのは早まってはいないか?蘆花は、前田河広一郎(18)を連れて石川三四郎のところ出かけて、原稿を取り返した。
前田河広一郎は仙台の出身。父は木工。仙台の第一中学校に学んだが中途退学。蘆花を崇拝し、小説家になる志を立て、この1月ほど前に上京して、蘆花を訪ね、指導を仰いだ。
蘆花は、「新紀元」との関係を絶ち「黒潮」第二篇の続稿掲載もやめた。
蘆花はこの時、生涯の大きな迷いの中にいて、そこから抜け出す道を見出せなかった。
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12月5日
・[露暦11月22日]モスクワに労働者ソビエト成立。
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12月5日
・キャンベル・バナマン、英首相に就任。~1908年。
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12月6日
・清国、学部設置。
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12月6日
・加藤時次郎・木下尚江ら、普通選挙連合会結成。
翌年1月以降も演説会を何度も開き、2月には普通選挙全国同志大会を開催。この大会で、堺利彦、山路愛山、加藤時次郎らが代表委員に選ばれる。
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12月7日
・満州軍総司令官大山巌元帥・総参謀長児玉源太郎大将、凱旋。新橋着。参内。宮中で立食午餐会。
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12月8日
・陳天華、日本の新聞記事に憤慨して大森海岸で投身自殺。
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12月8日
・関西水電株式会社設立。1922年6月東邦電力と改称。
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12月9日
・アリスティード・ブリアン仏首相、国家と教会を分離する政教分離法を公布。1801年の政教条約(ナポレオンとローマ教皇ピウス7世が締結)を破棄し、カトリック教会の特権を廃止。
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12月9日
・(露暦11/26)露、ペトログラード・ソヴィエト議長ノサリ(通称フルスタレフ)逮捕。
トロツキー議長就任。
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12月10日
・前尾繁三郎、誕生。
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12月10日
・(露暦11/27)露、セント・ペテルブルク、ゴーリキー家で社会民主労働党中央委員会開催。
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12月11日
・清国の考察政治大臣載沢ら、各国の政治視察に出発。
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12月11日
・テヘラン、砂糖業者に体罰の市の役人に宗教学僧反発。立憲革命の口火。
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12月11日
・グレー、英外相に就任。
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12月13日
・テヘラン住民約2千、市長の圧制に抗議、シャー・アブドゥル・アズィームに座り込み抗議行動(バスト、小聖遷)。
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12月14日
・ロシア、トロツキーとヘルファントが手中にした「ルースカヤ・ガゼッタ(ロシア新聞)」、50万部に達する。
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12月14日
・幸徳秋水、社会党小集会に参加。アメリカ社会党桑港支部に入党手続き。
16日、日米合同演説会、秋水参加。聴衆400。秋水は「戦後における日本国民について」で演説、普通選挙と社会主義について述べる。
17日、フリッチ夫人が普通選挙無用を論じる。
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12月15日
・モスクワ、ロストフ連隊反乱、鎮圧(~17日)。
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12月15日
・(露暦12月2日)ペテルブルク・ソヴィエト、「財政宣言」(「イズヴェスチア」)。パルヴス起草、トロツキー修正。
ツァーリズムの財政的破産の不可避性と「ツァーリ政府が締結したいっさいの借款にかかわる債務の支払いを承認しない」と宣言
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