2016年7月25日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(102)「続・戦争の惨禍」(2) 『戦争の惨禍』三三番の詞書「これ以上何が出来るか」というゴヤの問いを背に負って、われわれは”絶望”などということばでは間尺のあわぬ、惨憺たる人間の惨禍に、ゴヤとともに直面して行かねばならなくなる。

(以上は1808年末~1809年初めの第二次サラゴーサ包囲戦に関する叙述。
ここでは、「少し時日をさかのぼって」、ナポレオンの動きを見てみる)

 一八〇八年一〇月一二日は、ナポレオンの生涯にあってもその頂点をきわめた日であった。
 皇帝はドイツのエルフルトにあって、まず詩人ゲーテにレジョン・ドヌール勲章を授与し、ついでバヴァリア、ザクセン、ヴュルテンベルグの諸王とロシア皇帝アレクサンドルを召集し、英国に対しての和平提議を協議していた。そこで合意された議定書の第六項に、「(対英)平和のための絶対的条件として、英国はスペインにおいてフランスが樹立した新秩序を承認すること」という項目があった。
 この和平提議に対する英国王ジョージ三世の返答は、「英国王は、ポルトガル、シチリー及びスウェーデンの各王、及びスペイン政府と交渉中につき」云々という否定的なものであった。
 ここにスペイン政府として言及されているものは、前記アランホエースの中央評議会のことである。スペインにはいまや政府がいくつあるのか誰にもわからない。・・・

 この”政府”は、一〇月二六日に声明を発表し、英国に対して五〇万の歩兵と五万頭の馬を提供する、と約束した。しかしやがてスペインに上陸して来るジョン・ムーア卿はその半分も見出さないであろうし、それも全スペインに散らばっているものであった。それに一番頼りにしていたアラゴンのカスターニォス軍は、やがてフランス軍に粉砕されてしまうであろう。

 一一月一一日、歴史のはるか以前に哲学者スピノザの祖先が住んでいたエスピノーサという町で二万一〇〇〇のフランス軍とイギリス人に指揮された二万三〇〇〇のスペイン軍が衝突をした。しかし会戦というほどのことも行われなかったのに、スペイン軍は三人のもっとも優秀な将軍を狙撃兵に狙い射ちで倒され、五〇門の大砲を放り出して逃げ出し、数千人が捕虜になってしまった。英国人指揮官はもちろん蒸発。また、このエスピノーサと大都市プルゴスの中間を扼していたスペイン軍も支離滅裂なことになってしまう。
 しかし指揮者を失って逃げ出し、支離滅裂なことになってしまった軍こそが、ゲリラとして化けて出ることになる。なぜなら彼らもまた生きなければならないからである。

 バイヨンヌを出発したナポレオンの増援軍は、その南下の途次、怖ろしい光景を次々と目撃しなければならなくなる。
 ・・・フランス兵たちの怒りは頂点に達した。・・・
 憤怒を発した軍隊のやることはきまっている。またしても虐殺と掠奪である。
ゴヤ『戦争の惨禍』33 「これ以上何ができるか」

ゴヤ『戦争の惨禍』33-「死体に対しての、何たる武勇ぞ!」

『戦争の惨禍』第三九番のような、考えられぬような、「死体に対しての、何たる武勇ぞ!」という詞書をもつものの、この三人の死者がフランス兵であるか、スペイン人であるか、誰が知ろう。・・・
三三番の詞書「これ以上何が出来るか」というゴヤの問いを背に負って、われわれは”絶望”などということばでは間尺のあわぬ、惨憺たる人間の惨禍に、ゴヤとともに直面して行かねばならなくなる。

 ナポレオンは言うまでもなくフランス軍が略奪をやったり、残虐には残虐をというやり方でお返しをしたりすることに深い憤りを感じていた。
 けれども、一度人間の内奥から放たれた魔を抑え込むことはむずかしい。ブルゴスへ入城したフランス軍は、一万五〇〇〇人にのぼる敗残のスペイン兵と、あたかも競合するかのように掠奪して全市を滅茶苦茶にしてしまった。・・・ナポレオンは、掠奪を最初にはじめた兵を銃殺せよ、と命じ、各級指揮官の個人的責任を問うことにした。

 マドリードの北方約八〇キロのところに、標高一五〇〇メートルの峻険きわまりない、ソモシエーラ峠があった。それはそこに砲を備えつけたら難攻不落と言われたマドリードの守りであり、ここが落ちればマドリードはもはや危い。
 ・・・ナポレオンの軍事的天才はここでも余すことなく発揮され、ここで「余は不可能ということばを愛さない」という名文句、後には”余の辞書には・・・”ということになったものが発せられたのであった。騎兵を使うことがほとんど不可能と思われた地形であるにもかかわらず、彼はポーランド騎兵に全速奇襲を命じ、わずか七分間で攻略してしまった。

 一方、この時の手前で蹴散らされて解体してしまったスペイン軍はセゴビア街道へ逃げ出し、これはもう烏合の衆となって村々を掠奪しはじめ、それを止めようとする、すでに負傷をしていた自らの総司令官をセゴビアで虐殺してしまった。・・・

 包囲寸前のマドリードはどうなっていたか。
 アランホエースの中央評議会は、悪名のみ高いモルラ将軍 - ・・・ - にマドリード防衛を依嘱し、おそろしく景気のいい声明書を乱発して市民の士気を昂揚させようとした。各地での敗戦はすべて大勝利として発表され、劇場では「ナポ泥棒の死」だの、「怒れるナポレオン」などという芝居が上演されていた。フランス軍からの平和開城提案がホセ一世側の大臣を通じて、中央評議会議長のフロリダブランカ伯爵に示されたが、反応は、そんなものは死刑執行人の手で燃やしてしまえ、というものであった。そういう乱暴な返事をしておいて、この伯爵もホベリァーノスも評議会もろともにアランホエースから一目散に逃げ出し、トレドの西七〇キロのところにあるタラベーラという町に入り、ここで住民に裏切り者として吊るされかけさえしたものであった。
一切、支離滅裂である。
 ・・・マドリードではベラレス侯爵が虐殺され、その他の地方でも親仏派と民衆に見られた人々が血祭りにあげられた。
 後年、この時期の詳しい歴史を書いたトレーノ伯爵も、「ある都市(複数)は、もっとも完全無欠な無政府状態の様相を呈した」と書かざるをえなかった。・・・
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