鎌倉 本覚寺 2016-07-19
*保安4年(1123)
この年
・金の太祖、遼の天祚帝を追討途中で病没。
後継は弟太宗(位1123~35)、天祚帝を内モンゴル方面に追撃して捕らえ、遼を滅ぼす(1125)。
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・第1回ラテラノ公会議。教皇カリストゥス2世召集、参加:聖職者1千人。
初めて聖職者の独身制度は最も強力な霊的現実性と宣言。「聖職者の結婚はその叙階により無効」。その他の公会議同様、この公会議も聖職者の行状を改めさせず
1123年以降、歴代教皇は聖職者の結婚は無効と主張し続けるが、聖職者は結婚し続け、妻達は家庭を切り盛りし、子供達は祭壇を取り仕切る
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・アンジュー伯フルク5世、典型的強盗騎士モントルイユ・ベレ領主ギロー・ベルレを降伏させる。
大諸侯権力回復の表れ。
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・ベルナール、グルノーブル郊外にグランド・シャルトルーズ(カルトゥジオ会)を訪問。
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・ヴェネツィアのドージェ(元首)ドメニコ・ミキエル指揮ヴェネツィア艦隊(ガレー船40、帆船28、ガレー商船4)、ヤッファに向け出帆(エジプト回教徒軍に攻撃されたため)。
1099年、ヴェネツィア、パレスティナに進出。後、約20年間(1099~1023)ヴェネツィアは、ハンガリのアドリア海西岸(ダルマツィア海岸)進出とアドリア海出口のノルマン人との戦いに追われる。
この二大敵の押さえ込みに成功、パレスティナに目を向ける余裕が出来る
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・皇帝ハインリヒ5世、ザクセン大公ロータル3世とマイセン・ラウジッツ両辺境伯授封で争い敗北。
「内戦の禍はザクセンから殆ど全ドイツ王国に拡がる」(年代記者エッケハルト)。
経緯:
皇帝ハインリヒ5世、グロイッチュ伯ヴィプレヒトをマイセン・ラウジッツ両辺境伯に授封。
ザクセン大公ロータル3世、皇帝を無視して、マイセン辺境伯領をコンラート・フォン・ヴェッティンに、ラウジッツ辺境伯領をアルブレヒト(23、熊公)に授与。激しいフェーデにザクセン大公が勝利。
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・ブレーメン大司教にアーダルベルト2世が即位(位1123~1148)。
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・イブン・トゥーマルト(41、1082頃~1130、ムワッヒド創始者、ベルベル人族長息子)、ティーンマールに逃亡、根拠地とする。
スペイン、エジプト、バグダード、ダマスクスで教育。モロッコ帰国後、マーリク派教義と不徳義を攻撃する説教(ぶどう酒の瓶や楽器を破壊、ヴェールを着用していないアミールの姉妹を馬から引きずり下ろす)。
1023年、弟子(後継者)アブド・アル・ムーミンと共にティーンマールに逃亡(マラケシュ南南西約75Km)、ベルベル人農民の改宗始める。
教義:信仰における理性の使用もコーランの字義通りの解釈も拒否。共同体の一般的合意に従いコーランを寓意的に解釈。自らをアリー(ムハンマド従兄弟、第4代正統カリフ)子孫と主張、1121年よりマフディー(神が信仰を広めるために遣わした不謬の指導者)と名乗る。暫くしてムラービト朝に対する戦争を開始。
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・ボローニャ、コンスル制成立。
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・カンタベリ大司教ランフランクスの「偽造文書」、ローマ教皇庁により却下。
「カンタベリがヨークより上位であること」を証明するための9通の「文書」を偽造。
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・スノリ・ストゥルルソン(1178~1241)、「新エッダ(散文エッダ)」。三部作の一部。北欧神話と古アイスランド語による詩の作法を述べる。
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・ルイ6世とヘンリ1世の戦争再発。ヘンリ1世、皇帝ハインリヒ5世と同盟(1123~1135)。
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1月28日
・鳥羽天皇(21)、白河法皇の意向により、譲位して上皇となり、その子(実際は鳥羽天皇の祖父・白河法皇の子と言われる)顕仁親王(5)、践祚。
2月19日、即位、崇徳天皇(第75代天皇)となる。
法皇と天皇の対立は解消され、専制的な白河院政は、その最終的な仕上げを終える。
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4月
・アスカロン沖の海戦。
ヴェネツィア艦隊がヤッファ到着直前、エジプト軍は包囲を解除。
元首は、エジプト艦隊を追跡。アスカロン沖でエジプト艦隊を奇襲、撃破。南下してエジプト商船隊を襲撃、次に北上し、十字軍と組んでティロス攻略に参加。翌年24年7月ティロス陥落。
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4月18日
・イェルサレム王ボードゥアン2世、オルトク家藩主バラクに捕らえられて幽閉。
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4月24日
・愛宕寺、焼失。
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5月
・越前国敦賀郡、刃傷沙汰から殺人事件発生。
越前守平忠盛は犯人(日吉神人)を検非違使庁に引き渡すが、これに不満の比叡山天台の悪僧らが京都移送中の犯人を奪取。朝廷が延暦寺に張本人の悪僧を禁固させると、大衆は蜂起。
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6月
・バラク、アレッポに凱旋。故リドワーン王娘と結婚。アレッポ周辺の所領を回復する。
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7月15日
・天台の大衆ら、日吉三社の神輿を先頭に西坂本に下向、阻止される。
18日、日吉四社の神輿を加え京に乱入、武士と合戦。多数の死傷者が出て、僧徒は神輿を京都の鴨河原に捨てて遁走。
一方、別動の大衆300が祇園に篭もり、神輿を担ぎ出そうとする。
越前守平忠盛・左衛門尉源為義が派遣され合戦。死者多数。
白河法皇は珍しく毅然たる態度、衆徒の要求を容れず。
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8月22日
・大風洪水。
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9月12日
・越前守平忠盛が東大寺領伊賀国玉瀧本山を押妨した件につき勘文が出る。
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12月20日
・正四位下源雅兼を右大弁兼越前権守に任じる。
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保安5/天治元年(1124)
この年
・スコットランド、アレグザンダー1世(46)、スターリングで没(1078頃~1124、位1107~1124、24代、エドガ弟、マルカム3世息子)。
末弟デイヴィッド(マルカム3世と王女マーガレットの6男)、デイヴィッド1世として即位(44才?、1080頃~1153、位1124~1153、25代)。
「スコットランドを国家と呼ぶに値する国に仕上げた最初の偉大な王」。
(デイヴィッド1世治世)青年期をイングランドで過ごす。
1113年ミドランズ伯娘マティルダと結婚、ミドランズ伯爵領を相続(ヘンリ1世の封建的家臣)。
①ノルマン人の登用。ロバート・ドゥ・ブルース(1141没)、国王付秘書ウォルター・フィッツアラン、バーナード・ドゥ・ベイリュール、ドゥ・コーミーン。
②ロウランドに封建制度による土地所有システム導入。
③国王直属官僚制度確立。中央;歳入長官、国璽尚書、最高司令長官、司教上席者。地方:法務官、地方執行官。
④スコットランド史上初のコイン鋳造。度量衡統一。
⑤自由都市の開設。
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・ノルマンディ東部ヴェクサン地方の諸候ムーラン伯ウェーラン、ルイ6世の策動によりヘンリ1世に対して反乱
ムーラン伯軍、居城ブルグテンロールを出て王党派のヴァテビルに向かう。
王党派(ヘンリ1世直属の下級騎士達)はムーラン伯と彼の居城ブルグテンロールの間に布陣してムーラン伯の連絡路を遮断する作戦を採る。
ムーラン伯は直ちに反転して王党派軍へ向かいブルグテンロール近郊で対陣。
王党派は前衛に40弓兵を配し、後衛に下馬した騎士達を配置、左翼の離れたところに騎馬弓兵数十騎を伏せ、全体で100人前後の兵力。
ムーラン伯は100騎以上が全軍乗馬して敵中央へ突撃。すぐに弓兵隊に射竦められ突撃は失敗。そこへ左翼の伏せている騎馬弓兵隊が射撃、ムーラン伯軍は混乱し敗走、ムーラン伯と同盟者25人が捕虜。
ヘンリ1世も行動を開始しムーラン伯領の城を悉く占領。
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・前ノルマンディー公ロベール息子クリトー、アンジュー伯フルクの娘を娶り、アンジュー伯の全面的支援の元でノルマンディー公綱領奪還の行動開始。
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・イングランド、歴史家・修道士エアドマー(60)、没(1064?~1124)。聖アンセルムスの親友、私設秘書。著書:「アンセルムの伝記」「イギリス現代史(1060~1122)」。
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・ルイ6世、ブロワ伯チボーと戦う。
ハインリヒ5世、和を結ぶよう内政干渉。ルイ6世拒否。
ハインリヒ5世、ランスに遠征。
ルイ6世、封臣にランスへの長期遠征召集、ブロワ伯も含め諸侯が国王に軍隊を提供。逼塞していたカペー朝の威信が高まる。
ルイ6世、サン・ドニに赴きシュジェより 「聖(サン)ドニの旗」を受領、軍旗とする(フランス君主制の象徴、「赤色軍旗」)。
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・フランス、シャルトルのベルナール(ベルナルドゥス)、没。
哲学者。プラトンの影響を強く受け、特に「ティマイオス」から学ぶところ が大きかったと言われる。1114年よりシャルトル学院を運営、教鞭をとる。
中世のプラトニズム。
中世はプラトンよりアリストテレスに共感(12世紀にプラトンの中世における「主だった復活」が見られ、プラトニズムの流れは細々ながら中世を通じて絶えることはない)。
1156年頃、カタニアのアリスティップス(シチリアのヘンリクス・アリスティップス)がプラトンの「メノン」「パイドン」を翻訳、大きな影響力なし。
12世紀のプラトン的イデア論は主としてシャルトル学派に代表される。
アリストテレスの影響。
中世初期、ボエティウスがギリシア語よりラテン語に翻訳した「オルガノン」の6編の論理学書のみ(実際には「範疇」と命題」のみで、この二つの本は「旧論理学」と呼ばれる)。
1128年以降、「新論理学」はシチリア当局援助の下でギリシア語から翻訳。
1159年、「分析論後書」が既に同化の過程にあり、12世紀の終わりにはアリストテレスの「論理学」は全てヨーロッパ思想に吸収。
1200年頃、「形而上学」がまず簡略版で、次に完全な形であらわれる。
13世紀、アリストテレスの全作品の残りが加わる(1260年頃、残存する全てのアリストテレスの作品が勢揃い)。
アヴェロエスのアリストテレスの注釈の影響。
1210年、新着のアリストテレスの自然哲学書と注釈、パリ管区教会会議で禁止。
1215年、特に「形而上学」が、禁止の再確認。
1231年、教皇、パリで特別委員会がこれらの著作の誤りを全て削除するまで研究を禁止。
1255年、パリ大学学芸修士の科目に新アリストテレスの全作品が指定。アヴェロエスのアリストテレスの注釈は17世紀まで常用。
ダンテは「地獄篇」でアヴェロエスに古代の哲学者に並ぶ地位を与え、「大注釈書の作者」の名を奉じる。
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・ピカルディのノジャン修道院長ギベール、没(ギルベール・ド・ノジャン、任1104~1124)。著書:「聖者のあかし」、「わが生涯」(自叙伝)。
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・フィエーゾレ、傭兵に頼りフィレンツェに対し独立を守り戦う。傭兵の初期の例。
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・初代トレード大司教ベルナール・ド・セディラック、没(任1086~1124)。
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・エルサレム王ボードワン2世、聖地の騎士総員集合命じる。集まったのは1,100人。聖地の軍事力の欠陥示す。
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・暗殺教団(シーア派イスマーイール派の分派)設立者アル・ハサン、没
(1090年アラムートに城塞入手。1092年セルジュクトルコ 宰相ニザーム・アル・ムルクの暗殺を皮切りに暗殺活動開始。1099年シリアに地歩を築く)。
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・遼滅亡の直前、遼皇族・太祖から8代目子孫・耶律大石(1087~1143、西遼初代皇帝、位1132~43)、天祚帝が内モンゴルに逃亡したとき、外モンゴルに逃れ、自立して王位につく。
後、西方に移動して西遼を建国。
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2月
・ヴェネツィア、ティール港を封鎖。フランク軍が町の東に布陣。
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閏2月1日
・大地震。余震は8日に至る。
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4月3日
・ 「天治」に改元。
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5月6日
・アレッポのバラク、アレッポ家臣の反乱鎮圧中に戦死。ティール救援に向う寸前の出来事。
バラク没後、息子ティムルタシュが後継。彼はエルサレムのボードワン2世を釈放。逆に彼に包囲されるに至る。
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7月
・以後彗星が見られる。
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7月7日
・ティベリアス領主とヴェネツィア海軍、エジプトからティール(ティルス、ティロス)港を奪取。住民は安全に亡命。アスカロン以北のエルサレム王国の港は全て安全港になる。
ヴェネツィア、「アドリア海の女王」から「東地中海の女王」となる(対抗できるのはジェノヴァ海軍のみ)。
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10月21日
・上皇、高野山に参詣。
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11月24日
・中宮藤原璋子(24)に待賢門院の院号宣下。
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11月26日
・五節参入。越前守平忠盛ら奉仕(「中右記」)。
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12月13日
・教皇カリストゥス2世、没(位1119~1124、ブルゴーニュ出身)。
21日、ホノリウス2世、即位(位1124~1130、イモラ出身)。オスティアのランベルトゥス、ウォルムス協約の交渉担当者。
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