2016年7月29日金曜日

誰にも正義は押し付けられない (小田島隆 日経BP) ; 「いずれも(曽野綾子も植松容疑者)、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。」 / 小田嶋さんの書いたものを読んで、一つ言い足したいことを思いつきました。それは「弱者を含んでいる組織の方が、集団として生き延びる力が強い」ということです。この人類学的教訓を古来無数の物語が伝えています。 — 内田樹


(略)

 思うに、彼女の「本音」を称揚する人々は、彼女が残酷なことを言うのは、「彼女が残酷な人間だからだ」とは考えていない。曽野綾子さんの読者は、彼女が残酷な本音を言うのは、何よりも偽善を憎み不都合であれ残酷であれ、目の前にあるありのままの真実を、あるがままに伝えようとする勇気ある正直な人間だからだというふうに考えている。

 で、そういう人たちにとって、「社会にとって役に立たなくなった人間は、社会から身を引くべきだ」という思想は、残酷である以上に、「真実」なのだ。

 とすれば、それら「曽野綾子さんが言う、この世の重いけれども直視しなければならない“真実”」は、植松容疑者の言う、「障害者は不幸を作ることしかできない」という断言と、そんな遠いものではない。

 植松容疑者のように、あえて障害者を殺すという積極的な行動に出ることと、老人にドクターヘリの不使用を促して、やんわりと不作為の死を促すことの間には、もちろん、巨大な違いがあるし、明らかな犯罪である前者と、単に底意地の悪い忠告に過ぎない後者を同一視することは断じてできない。

 しかし、いずれも、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。

 彼らは、「人間の生存を保障するために社会が設計されている」というふうには考えない。「社会を存立せしめるために人間の生存が許されている」というふうに考える。

 とすると、社会に役立つパーツとしての役割を終えた老人や、物理的な制約から社会に役立つことができない状態にある病人や、負傷者や、はじめから社会の役に立つことの難しい障害者は、社会に負担をかけないためにも、なるべく早く退場すべきだというお話になる。

(略)






参考記事
「弱者を抹殺する:優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのか」という Yahoo!知恵袋の質問に対する進化学な見地からの丁寧な回答。 → 我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

この子らを世の光に  糸賀一雄 (鷲田清一 『朝日新聞』折々のことば) : 「この子らに世の光を」ではない。逆である。・・・この子らと家族がもし不幸であれば、私たちの社会もまた不幸である・・・





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