2016年7月31日日曜日

天正2年(1574)5月1日~6月30日 伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良が追放される 秀吉による長浜城・城下町建設 武田勝頼が徳川方の高天神城陥落 越前が加賀と同じく「一揆持」の国となる [信長41歳]

皇居東御苑 2016-07-28
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天正2年(1574)
5月1日
・北条氏政、上杉勢の関東における前線基地上野厩橋城に進軍。
東上野の由良氏が北条氏に従う。
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・信長、伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良を追放。
三淵藤英は細川藤孝の実兄。将軍義昭に最後まで忠誠を尽くし、二条城に信長軍の攻撃を受け降伏。しかし、伏見城を安堵され淀城攻撃にも参加する。
その後、信長の逆鱗に触れ(詳細不明)伏見城を追われ、子秋豪と共に明智の坂本城に預けられ7月6日親子共切腹。
細川信良は細川家嫡流。槇島追放後は僅かな知行に甘んじる。
伏見城破却後、塙直政を山城守護に補し、槇島城に駐留する。

山城の支配体制:
①京都(村井貞勝)、
②西岡(細川藤孝)、
③北山城(明智光秀)、
④南山城(塙直政)。
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5月5日
・賀茂祭(葵祭)。
信長、自身の馬を競馬神事に参加させる(信長公記)。
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5月8日
・武田勝頼2万4千、遠江侵入。
12日、高天神城(小笠原長忠、静岡県小笠郡大東町)包囲。小笠原長忠は浜松(高天神城30km)の家康に救援要請、家康は在京中の信長に対して救援を求める。家康は浜松に留まる。
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5月11日
・伊達輝宗、最上義光・義守・義時の内紛に介入、最上領に侵入。
20日、輝宗、最上義光と出羽村山郡千石で戦う。
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5月15日
・信長、京都で勝頼の遠江出陣知る。
16日、京都発。大和へ下国。
28日、岐阜城に下向。
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5月17日
・秀吉、河内の遊佐盛へ、保田知宗(紀伊在田郡八幡山城主)に人質提出督促を命令(「寸金雑録」)。
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5月19日
・真田幸隆(62)、没。幸隆の嫡子信綱が家督を継ぐ。
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5月20日
・信長、秀吉に、若狭・丹後の船を敦賀郡先端の立石浦に着ける準備をさせる。越前(一向一揆)侵攻の準備。
この月、越前織田の朝倉兵庫が謀反。
七里頼周・本覚寺・専授寺が兵を率い攻撃、朝倉兵庫は秀吉が敦賀の立石浦より救援のために遣わした船に乗って逃れる。
一揆勢は、大谷寺・永平寺など国内の非本願寺派寺社を次々と焼き討ちという。
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5月23日
・村井貞勝、明智光秀とともに、賀茂社中に、結鎮(みけち)銭代米を安堵する(賀茂別雷神社文書)。

賀茂別雷(わけいかずち)神社は上賀茂神社の正式名で、起源は7世紀天武天皇の時といい、平安時代初期には賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)が分かれている。
賀茂別雷神社は賀茂六郷を神領として保ち、そのほか東は三河、北は能登、西は周防・伊予にまで社領を持っていた。しかし、戦国時代になると、現地の武士たちに押領されて実質的にそれらの社領は失われていく。賀茂六郷にしても、大徳寺の塔頭や新興商人である土倉などが名主職・作職の権利を買い取っていき、次第に追いこまれていった。

元亀3年頃のものと思われる大徳寺宛ての信長の朱印状
「賀茂境内の当寺買得分の儀、相違あるべからざるの由、今度重ねて朱印を進ぜ候。これに依りて使僧を差し下され候。殊に銀子百両御懇情に候。猶(松井)友閑申すべく候。恐惶敬白
六月廿三日                                  信長
大徳寺尊答

大徳寺と賀茂別雷神社との間に、土地の権利をめぐって争いがあり、信長の裁決を必要とした。
有利な裁決を得るために、大徳寺から百両の銀子が信長に届けられ、それに対する礼状。
この後、文面にある通り、同日付の松井友閑副状が大徳寺宛てに発せられる。
さらに2日後、上賀茂神社にも申し伝えられている。
現地で事を処理する奉行は、塙直政と木下秀吉。
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5月25日
・上杉謙信、西上野の武田方属城を攻略、由良成繁・国繁と戦う。
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5月25日
・仏、ガブリエル・ド・モンゴメリー、ドンフロンの包囲戦でマティニョン元帥に捕らえられ、「反逆罪」でパリ・クレーヴ広場で斬首。
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5月26日
・~10月、スペイン軍、ライデン包囲再開。
ライデン、ルイの来援で包囲が解けてる間に補給を怠る。飢餓・疫病、6~8千病死。
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5月29日
・仏、懺悔火曜日の陰謀の罪でダランソン公フランソワ(シャルル9世弟)に仕える貴族ラ・モール伯(マルゴの愛人、プロヴァンス地方出身伯爵)、ココナス(ヌヴェール公爵夫人の愛人、イタリア出身伯爵、フェリペ2世の諜報工作員)、逮捕、処刑。
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5月30日
・仏、シャルル9世(24)、没。
ポーランド国王ヘンリク(23、シャルル9世弟ダンジュー公アンリ・ド・ヴァロア)、アンリ3世として即位するため密かにポーランドを去る(6月19日)。
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6月1日
・房総の里見義堯(63)、本拠久留里城で病歿。
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6月1日
・信長、上杉謙信に豪華な京の風俗画「洛中洛外図屏風」を贈る(異説あり)。
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6月5日
・信長、武田勝頼の高天神城(静岡県城東村)包囲中の報うける。
尾張の佐治左馬允へ、「遠州在陣衆」の兵粮米を「商買之八木船」で搬送するので商人へ順路等の連絡を命令(「反町十郎氏寄贈武家文書展覧会解題目録」)。
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6月6日
・秀吉、新しい今浜城と城下町の建設にとりかかる。
この日、平方の名主・百姓に、8日の長浜域普請の人足役を課す。
7日、下八木郷に命じ、9日の城普請の人足を課す。
7月16日、唐川、布施、高田(伊香郡)へ、長浜城築城の人足、1軒に1人課す。
8月22日、長浜町人宛書状。
小谷より、徳勝寺、妙法寺、善隆寺、願養寺、浄琳寺、城の鬼門の守護として知書院を移転させる。城下町を49町に分割、これを10組に分け、町年寄を決め世襲とする(長浜10人衆)。この10人から3人づつ互選して自治させる(長浜3年寄)。

長浜城:
3層の天守閣は小谷城鐘丸を移築。天秤楼は新築、石垣等その他の城楼は小谷城より移築。小谷より、大谷市場・伊部・郡上・呉服の商人を移住させる。 

天文年間、近江六角氏が城下石寺新市を楽市として、旧座商人をはじめ新儀商人・手工業者招致に努めるが、秀吉はこの方向で城下町経営を一段と進める。
長浜築城に際し、城下に新しく町を区画し、近在の市場聚落小谷町民(浅井氏城下)を移住させ、町場の年貢・諸役を免除し、領分内散在の商工人や「よそのりやうちのもの」に対しても来住を奨励。
しかし「われわれりやうぶんのざいゝゝの百しやうを町へよびこし申候事」は「くせ事」とし、領分内百姓の町人化は厳しく禁じる。
在=農村の百姓と町のまち人とをはっきり身分的に分離し、百姓の町人化は厳禁する。農民を土地に緊縛し、中世社会の経済発展の生みだした商工人を農村から引離して、城下町に集住させ直接の統制下において、新しい領主経済発展の担い手たらしめようとする、後年秀吉によってほぼ完成されたといえる農商分離政策の基本的志向は明確に打出されている。
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6月9日
・信長、美濃の根尾右京亮・根尾市助・根尾五郎兵衛へ、高天神城救援出陣に際し、「越州一揆」蜂起がありえるため防御を堅固にすべきと命令(「高尾宗豊氏文書」)。
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6月10日
・武田勝頼2万5千、小笠原長忠の遠江高天神城を総攻撃、塔尾曲輪を落とす。
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6月11日
・村井貞勝、伊勢内宮の仮殿遷宮について、神宮伝奏柳原資定より尽力を依頼される(柳原家記録)。
16日、再度柳原資定より、神宝や装束調製の命令を催促される(柳原家記録)。
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6月12日
・信長、信忠・佐久間信盛を遠江高天神城救援に向かわせる。
14日、信長、嫡男信忠殿と共に高天神城救援に向け岐阜城出陣。
17日、三河吉田城(徳川家家老酒井忠次、豊橋)着陣。
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6月17日
・カトリーヌ使者シェムロー、ポーランド王アンリの許に到着。
19日未明、ポーランド王アンリ、秘かに王宮脱出。ウィーン→ベネツィア→サヴォイア→フランス(リヨン)。 
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6月18日
・高天神城陥落
武田勝頼、徳川方の遠江の高天神城(織田信忠(17)後詰め)猛攻。小笠原長忠は投降し開城。
高天神城は天正9年まで勝頼の侵攻拠点としてその機能を果たす。
城兵の一部は浜松に退去、一部は長忠と共に勝頼に仕える。
勝頼滅亡後、長忠は北条氏の許に走るが、信長の命で殺害。
9月、(高天神城攻略の恩賞として)勝頼、信濃の金山衆に遠江の榛原郡内300貫文を宛行う。
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6月18日
・信長、遠江今切の渡し(浜名湖の渡し)に着陣、高天神落城の報に吉田城に引き返す。家康に黄金を皮袋2つ分寄贈。
21日、岐阜に戻る。
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6月23日
・信長、九鬼嘉隆に命じ、長島一向一揆に対し安宅船により海上封鎖させる。
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6月29日
・信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を発す。
謙信からの来秋の信濃・甲斐方面への出撃要請を承諾、9月上旬頃の出陣を予定(詳細は協議の上で決定)、武田勝頼は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ない、など。
また、信長の戦略は、大坂表は畿内軍勢に委任し、「東国」へは近江・尾張・美濃・三河・遠江の軍勢で出撃(「上方之行」と「東国」の件は「懸組」ではない)とする。詳細は山崎専柳斎が伝達。(「上杉文書」)。
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6月30日
・オラニエ公ウィレム、スペイン軍のライデン占領を阻止するため堤防を設けることを提案。
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6月下旬
・越前一揆勢、信長より木ノ芽城守備の阿閉貞征を攻撃、本願寺門徒の武装講集団鑓講や北ノ庄勢の奮闘により貞征は城を捨てて退去。
一揆は、越前嶺北地域を支配下に収めほぼ越前全域を制圧、越前は加賀と同じく「一揆持」の国となる(「信長公記」)。
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