2017年6月4日日曜日

横浜・川崎・平塚 襲った焼夷弾 「消せない火災」被害甚大 米軍周到 家の構造・保険料率も調査 (『朝日新聞』2017-05-27) 「焼夷弾は消せる」キャンペーン 実際は「一瞬に家全体が燃え上がる」

横浜・川崎・平塚 襲った焼夷弾
 「消せない火災」被害甚大
 米軍周到 家の構造・保険料率も調査

500機というB29爆撃機の大編隊が横浜の街を襲ったのは、米国との戦争も局面が押し迫った1945年5月29日だった。米軍の記録によれば、攻撃は午前9時22分に始まり、10時30分に終了している。
1時間余の爆撃により、横浜の中心部はほとんどが焼け落ちた。「県警察史」は死者3789人、全焼7万9399戸、罹災者31万3144人と記している。44年から敗戦まで県内で記録されている52回の空襲の中で最大の被害だった。
ほかには4月15日の川崎・鶴見、7月16日の平塚の被害の大きさが目に付く。この3件を合わせると県内全体の空襲被害のうち、全焼(14万3963戸)の97%、罹災者(64万4044人)の95%、死者(6279人)の80%を占める。

3件はともに焼夷弾による爆撃だったが、それほど被害が大きくなったのはなぜだったのか。
その背景が「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の工藤洋三事務局長(山口県在住)の研究で見えてきた。
「米軍の狙いは、消せない火災を作り出し都市全体を焼き払うことでした」と工藤さんは指摘する。
日本攻撃の指針として米軍は43年10月に「焼夷弾レポート」をまとめていた。B29の出撃拠点となるマリアナ諸島はまだ日本が支配していた段階だが、「焼夷弾爆撃の基本方針を示したもので、最後まで変わりませんでした」と工藤さん。
攻撃対象として20の都市を選定。燃えやすい場所に集中的に投下するため各都市の構造や建物の配置、人口密度などを検討。保険料の高い地域ほど燃えやすいとして火災保険の格付けまで調べている。
横浜、川崎など10都市については「焼夷区画図」が作られた。最も燃えやすい区画1号は「中心商業地域と密集した住居地域」で、横浜では大岡川と中村川に挟まれた地域のうち現在のJR線の西側一帯など。区画2号は「より密集度の小さな地域。倉庫、工業地域を含む」で、「攻撃に不向きな地域」が区画3号。
爆弾の改良を進めると同時に、ドイツとは違う日本家屋の特徴を研究。建材や構造だけでなく、家具や障子など内装まで忠実に日本の住宅を再現し実験を繰り返した。消せない火災を作るために重視したのは焼夷弾の貫通力で、屋根を突き抜けるが屋根裏で止まり火を噴くものを目指した。
44年11月には東京に焼夷弾を投下。次いで名古屋、神戸と試験を重ね、本格的な焼夷弾爆撃に乗り出したのが45年3月10日の東京大空襲だった。その後は名古屋、大阪、神戸と連続して街を焼き尽くす。そうした経験を踏まえ、襲ったのが川崎や横浜だった。

米軍は周到だった。日本はどうだったのか。
日本軍は37年に始まった中国との戦争で都市を空襲していた。その破壊力は当然知っていた。
焼夷弾も持っていた。40年9月の横浜貿易新報には「焼夷弾の威力実験」の記事が見える。横浜での防空訓練で焼夷弾の性能を知らせる公開実験をしたことを報じ、「観衆多数あって盛況を極めた」とある。
空襲に備えた「防空法」という法律もあった。41年に改定されると、「逃げずに火を消す」ことが国民の法的義務となった。「焼夷弾は消せる」という宣伝にも力が入れられた。
43年11月の県議会ではドイツの空襲被害の深刻さが話題になっている。横浜でそのような心配はないのかとの質問に、知事は「県トシテハ十分ニ考へテ居リマスカラ、此ノ点御安心願ヒタイ」と答弁している。高高度を飛ぶ爆撃機対策として監視員に双眼鏡を持たせたらといった議論があったと「県史」は記している。「十分ニ考へ」の内実を示しているのだろう。
空襲被害をたどると川崎・鶴見の後は1ヵ月余、大きな空襲が見当たらない。つかの問の平穏だった。
調べてみると、理由は明白。米軍の爆撃部隊は沖縄戦に殺人されていた。川崎と横浜の大空襲の間には沖縄の悲劇があったのだ。何となく知っているつもりだった歴史が、一面でしかなかったことを教えられる。
日本人の戦争をめぐる記憶の多くは被害者としてのものであり、空襲はその核となっているが、見つめて記憶するべきは被害の悲惨さだけではないのだろう。
(渡辺延志)

『朝日新聞』2017-05-27

▼5月29日前後の横浜大空襲関連ツイート





▼「焼夷弾は消せる」キャンペーン






▼実際は「一瞬に家全体が燃え上がる」
『空爆の歴史』(新井信一 岩波新書)










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