2018年9月19日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その6)「鮮人襲来はいうまでもなく根も葉もない流言に過ぎなかったが、当時不逞鮮人の嫌疑を受け、各地自警団の手で非業の最後を遂げた人の数は決して少なくないものであったと思う。現に私たちの町内でも或る洋食屋の主人が、猟銃で不逞鮮人の疑いある一青年を射殺、それが長野県出身の大学生と判明して大問題を惹起した。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その5)「翌日は、「放火」の噂が益々ひどくなり、町内の顔役の人々から、いろいろと警告をして来ます。井戸の中に毒を入れられるから井戸の警戒をも申して来ます。 〔略〕日は次第に暮れて行きます。町の角には号外がいくつも張られていて、それの中には秩父連山噴火というのが、いちじるしく恐怖をそそります。八ヶ岳も活動している、大島には7ヵ所煙が出ている、その他××主義者の扇動による××の襲来、横浜の全滅、その他いろいろの号外が、世界の終りの日もこれに近い事を想像させます。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉
落合茂
〔筑土八幡で〕”朝鮮人が井戸へ毒を投げ込んでいる” ”昨日からの火事は鮮人の放火だ” といった風説を耳にしたのは、2日の昼ごろだった。町にはこん棒を持った在郷軍人服の自警団が巡回していた。通行人でも朝鮮人くさいとみると”15円50銭”といわせ、ガ行、バ行の発音がおかしければ、朝鮮人と見なされてリンチされるという。〔略〕”流言蜚語”とか”戒厳令”という聞きなれない言葉を耳にしたのも2日のことであったが、何とそれはどぎついひびきを持っていたことだろう。
(「十五円五十銭」関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)
木下正雄〔本郷湯島4丁目4番で被災〕
弁天町〔牛込区〕の家に着いた翌日〔2日〕、午前中から武装した一般民間人が巡査や軍隊にまじって徒党を組み、外国人らしい者を見つけると不審尋問をしはじめ、夜になると、いっそう激しくなった。闇夜の中を追いつ追われつの光景さえ見た。翌朝早く、東京を逃れ、練馬のおばの家へ向う。途中、〔略〕水でもと思って農家に救いを求めると、外国人が毒を投げ込んだといって、どこでも断られた。〔略。翌朝、西台へ向かう〕途中、2度、一般民間人徒党に訊問された。〔略〕ほこりだらけの白パンツにちじみの半そで姿ではとがめられてあたりまえだが、無事通過できた。
(「無我夢中で脱出の記」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる ー 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

金鍾在(キムジョンジェ)〔麹町で被災、四谷駅わき外濠土手に避難〕
〔1日夜〕6時半ころだが、麹町7丁目の市電通りに、大勢の青年たちが群がり、朝鮮人労働者をとりかこんでいた。当時、四谷見付のトンネルのはずれの位置に、朝鮮人労働者の飯場があった。その労働者は外出中に地震に会い、飯場へ帰る途中でつかまったのである。青年たちは、ものものしい雰囲気で、とりかこんで何かしているうちに、「アイヤー」という朝鮮人の悲鳴がきこえてきた。
このころにはまだ、朝鮮人虐殺というようなニュースはなかった。しかし、この光景を見て、そのころまで付近に残っていた7人の仲間たちは、にわかにいいようのない恐怖感をおぼえ、各自がそれぞれの居所へ帰っていった。
その夜のあいだに、「朝鮮人が放火したので大火災になった」「朝鮮人が下町方面の井戸に毒を入れた」「朝鮮人が爆弾をもって暴動を起こした」といった流言が、どこからともなく伝わりはじめ、不安におびえた人びとの口から口へと伝えられた。

〔略。2日朝、薬を買いに四谷塩町の薬局・灰吹屋に入ろうとすると〕たちまち大勢の男たちが、私をとりかこんで尋問をはじめた。そのときには、すでに四谷区、麹町区の各地域に、自警団組織が生まれていた。彼らは、四谷塩町の自警団の一班らしい総勢15、6名の屈強の男たちだった。おもだった30歳くらいの男が、「君はどこからきたか。国はどこだ。何の薬を買いにきたか」と、矢継ぎぼやに尋問してきた。
私は、あまり恐れもせず、「外濠の土手の上に避難してきている。国は朝鮮です。薬は、子どもの腹痛をなおすためだ」と、歯切れよく答えた。ところが、群がってきた群衆の中から「この野郎ウソをついている。井戸に入れる毒薬を買いにきたにちがいない。引ったてろ」とわめくものがあらわれた。
私も、腹がたったから、大きな声で、「みなさんは、何をカンちがいしているんだ。朝鮮人はみな善良なものばかりだ。とんでもないデマに躍らされないでくれ」と叫んだ。すると群衆の中から、さらに激昂して、「この野郎、なま意気だ。ふんじばってしまえ」という声が飛んだ。私は、これに対して「それほど疑うんなら、この先にある警察へ行って、そこで白黒をつけよう」と叫んだ。
このときは、私も興奮していたせいか、ふしぎに勇気がわいて、一歩もゆずらなかったのである。すると、自響団の中の45、6歳の年配者が、一同をなだめはじめた。「せっかく、この青年が真剣に叫んでいるんだから、警察へ行ってはっきりさせようじゃないか」
この説得がきいて、一同も納得した。午前9時半ころのことである。2名の男が、犯罪人でも引ったてるかのように、私の両手をうしろ手にまわさせ、塩町と信濃町のあいだにある四谷警察署までつれていった。
四谷警察署につくと、すでに留置場の前に、15、6人くらいの朝鮮人が、血だらけの姿で保護されていた。私は思わず「何と無力であわれな民族であることか」と涙が出た。ともかく、特高課の部屋にはいると、以前から顔見知りの特高巡査が対応に出た。〔略〕この特高巡査は、私を見るなり、大きな声で自警団の連中に向かい、「貴様たちは、何の権限で、この青年を引っ張ってきたか。グズグズしていると、お前たち全部を引っくくつて、留置場へぶちこむぞ」とどなった。びっくりした自警団は、クモの子を散らすように退散してしまった。
(金鍾在述・玉城素編『渡日韓国人一代』図書出版社、1978年)

手塚信吉〔評論家〕
鮮人襲来の噂が四谷方面に伝ったのは2日夕頃の事であった。「横浜方面は全都鮮人のため破壊され、勢いに乗じた3千名の一団は早くも代々木の原まで攻め寄せて来た」というのである。今から考えれば馬鹿気切った話ではあるが、予想した事もない大震災を喰って度を失い、かつ報道機関無き当時の人心にこの噂が真実として受け容れられたのは巳むを得ぬ事であった。警察官までが「女子供は危険だから新宿御苑へ避難さすように」と触れ回ったんで、市民の恐怖心はいやが上にも募ってしまった。鮮人の発砲だという爆音を気にしながら私も近所の人々同様、荷車に一家眷属を乗せ新宿御苑へ避難させた。〔略〕私達は時を移さず町内の有志を糾合して所謂自警団を組織した。ポロポロの古洋服の上に縄帯を締め、腰間に伝家の宝刀をぶち込み、右手には実弾を充填した護身用のプロウニングを握りしめたその扮装は雄々しくもまた物々しい狂態であった。他の諸君も思い思いの身ごしらえ堅固に、それぞれ部署を定めて通行人を吟味すると共に火気の注意に徹底従事した。
鮮人襲来はいうまでもなく根も葉もない流言に過ぎなかったが、当時不逞鮮人の嫌疑を受け、各地自警団の手で非業の最後を遂げた人の数は決して少なくないものであったと思う。現に私たちの町内でも或る洋食屋の主人が、猟銃で不逞鮮人の疑いある一青年を射殺、それが長野県出身の大学生と判明して大問題を惹起した。
(手塚信吉『体験を透して - 新日本青年に告ぐ』雄信社、1932年)

中島健蔵〔フランス文学者〕
〔2日の昼下がり〕ともかく神楽坂警察署の前あたりは、ただごととは思えない人だかりであった。〔略〕群衆の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に2人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしやにされながら、警察の方へ押しこくられているのだ。別に抵抗はしないのだが、とりまいている人間の方が、ひどく興奮して、そのためにかえって足が進まないのだ。
群衆の中に、トビ口を持っている人間がいた。火事場のことだから、トビ口を持っている人間がいても、別にふしぎではない。わたくしは、地震と火事のドサクサまざれに空き巣でも働いた人間がつかまって、警察へ突き出されるところだな、と推測した。突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、カまかせに、つかまった2人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぷい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きさきったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。
ふしぎなことに、その凶悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりしてしまった男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた。
警察の中は、妙にひっそりしていた。やがて大部分の人間は、殺気立った顔でガヤガヤと騒ぎながら、どこともなく散っていった。ひどいことをする、と非常なショックを受けたわたくしは、そのときはじめて「鮮人」という言葉をちらりと聞いた。
〔略〕人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起そうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。
場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の9月2日昼さがり。明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。
(中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年)

奈良武次〔陸軍大将。四谷左門町で被災〕
2日〔略。赤坂離宮から〕帰途戸田方を往訪せるに庭に在り、雑談少時にして帰る。この時鮮人放火頻発、目下多数の鮮人を逮捕せり云々の談を聴く。この夜自警団の警備厳重を極め、隣家の家族は余の庭園内に避難し夜を徹せり。
〔略〕4日〔略〕市中暗黒、自警団警戒厳重なり。
(波多野澄雄・黒沢文貴編『侍従武官奈良武次日記・回顧録 第1巻』柏書房、2000年)

間室亜夫〔当時松山高等学校生徒〕
「在郷軍人や青年団は竹槍や日本刀で武装して不逞漢に対抗した」
私の付近では早稲田大学と陸軍士官学校が崩壊して焼けた。2日の明け方頃から○○○○が各所に放火するという事であったが○○等は石油を所持し又は爆弾を持って盛んに火を放って廻ったらしく牛込の付近でも2、3の○○が殺されて居るのを見た。
(『愛媛新報』1923年9月8日)

三宅邦子〔俳優。牛込北町で被災〕
2日日でしたか、夜の8時、憲兵が2、3人馬に乗って来て、大声で戒厳令がしかれたとふれて回りはじめました。また町会からの伝令で、井戸にフタをし各家で見張りをし、寝る時に戸板を敷いて町会ごとに寝るようにとのお達しがあり〔略〕。
(『週刊読売』1983年9月11日号、読売新聞社)

つづく





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