2018年9月24日月曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(1) 《画家たちと彼らが生きた時代の概観》

靉光《シシ》1936昭和11年 東京国立近代美術館
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若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)

大正末期から昭和初期にかけて人生を絵画(西洋画)に賭けた若い画家たちの生きざまを編年体(年表風)に綴ってみた。
彼らの多くは、決して名家や金持ちの子弟ではない。
その頃、そんな若い絵かきたちが洋画家を目ざして東京に集まってきていた。
彼らのうちから、年代と生きざまの異なる3人(長谷川利行、靉光、松本竣介)を核として彼らとの関わりのあった絵かきたちの生きざまを編年体に綴ってみた。
ちなみに利光、靉光、竣介は遺作に高値がつくベストスリーであるといわれている。
(テレビ番組「鑑定団」で発掘され東京国立近代美術館に1,800万円で購入された利光作品のエピソードはよく知られている。後出)

参考にした資料は以下である。

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

《画家たちと彼らが生きた時代の概観》
対象とする画家たちと彼らが生きた時代の概観を下記の長い引用で示す。

■大正時代後半の西洋画の人気
宇佐美承『池袋モンパルナス』より

柿手(春三)の家は地主であったが、そのころは、決して豊かでない家の子が、洋画家を目ぎして東京にあつまってきていた。池袋モンパルナスの絵かきにかぎっても、井上長三郎は大連の石職人の、靉光は広島の貧農の、丸木位里はおなじく広島の船宿の、古沢岩美は佐賀の身上をつぶした地主の、寺田政明は八幡製鉄所末端職員の、吉井忠は福島の菓子屋の、それぞれ倅というふうにである。それは、たとえば里見勝蔵佐伯祐三のように、よほどの名家や金満家の子弟でなければ絵かきになれなかった、とくに食えない油絵かきにはなれなかった大正なかはごろまでとは、あきらかにちがっていた。」

「・・・・・東京美術学校西洋画科の志望者は年とともにふえはじめ、大正二年には百人を、十四年には二百人を、昭和五年には四百人をこえ、競争率は十倍以上になった。まちにも、葵橋洋画研究所、太平洋画会研究所、本郷洋画研究所(のち本郷絵画研究所と改称)、川端画学校、同舟舎、日本美術学校と、民間の画学校や画塾がつぎつぎにできて、地方からの若ものでにぎわい、そのいくつかは東京美術学校受験の予備校の役をはたしていた。
こうした油絵流行は、第一次大戦による好景気や関東大震災後の首都改造と関係があった。つまりそのころ、本格的な西洋ビルディングや富豪の豪華な西洋館がたちはじめて、装飾用に油絵がもとめられたのだった。
当時建った一連の西洋ビルディングのうち東京中央電報局と、それにつづくいくつかのすぐれた建築は、大正九年に東大建築科を出たばかりの山田守ら〝分離派〞の若手気鋭建築家の作品であった。”分離派”は、それより以前の明治末、ウィーンの芸術家がはじめた建築上の新運動をうけたもので、過去の様式との分離を目ざしていた。そしてそれは、すでにのべた絵画の新傾向や、ロダンを超えようとしたアントワ-ヌ・ブールデルの彫刻の流入とおなじ流れのなかにあった。
新興ブルジョワジーのなかには、こうした芸術上の流れをうけとめ、その財力で、わかい芸術家を支援する人たちが続々とあらわれていた。そのひとり、イギリスで教育をうけた今村銀行頭取の今村繁三は、成蹊学園を池袋に創設するなどして文化に関心をしめした人であり、中村彝(つね)など、おおくの絵かきのパトロンをつとめたばかりか、今村繋三賞を設けるほどの熱のいれようであった。新宿中村屋の相馬黒光など、油絵かきを庇護する金満家はほかにもいて、こうした動きもまた、地方の青年を西洋画に駆りたでていた。」

■若き画家たち
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』より

「明治以降の我が国洋画界は、黒田清輝を中心にした外光派(印象派)が台頭し、従来の明治美術会が白馬会と旧派に分裂し、外光派の白馬会が東京美術学校(東京芸大)の主流となり、残った旧派が太平洋画会を結成した。
太平洋画会は上野の公園の西隣、谷中真島町に研究所を設立し、戸張孤雁、中村彝(つね)、古賀春江など異色の美術家を輩出した。
大正末から昭和初期にかけて、ここで勉強に励んだ若き画学生に麻生三郎靉光吉井忠寺田政明我孫子真人井上長三郎柿手春三中村金作鶴岡政男松本竣介などがいた。
一九三〇年協会が代々木に創設した研究所には小野幸吉や大野五郎などがいた。彼らは二科や一九三〇年協会の公募展を通じて知己を得、同じ志を持つものとして昵懇を深めた。
仲間でモデル代を出し合ってデッサンの勉強会を開いたり、クラシックを聴くために一時間以上も歩いて神田の喫茶店へ行った。夜更けまで絵や文学、人生を語った。仲間の下宿で安い烏もつで鍋をつくり空腹を充たした。
不思議なほど彼らは仲がよかった
この当時、すでに二科の大家であった熊谷守一は「へたな絵もみとめろ」と広言した個性的な絵かきだが、彼も麗しい友情を経験している。
熊谷は三十歳の時、郷里の裏木曾へ帰り、ヒョウという伐り出した木材を急流を丸太乗りで運ぶ仕事をふた冬やったが、ある時、美術学校の同期生が訪ねてきて、熊谷に東京へ戻って絵を描くことを強く勧めた。
友人は、重い腰を上げて上京した熊谷のために生活費として纏まった金を毎月届けてくれた。友人がパリに留学するまで五、六年も続いたという。
その熊谷は音楽家の卵の仲のよさを羨しがっている。
芸術で身を立てることの厳しさと、同じ志を持つ者たちの純粋な友情と相互扶助のもとで彼らは切磋琢磨を重ね、それぞれが自己の個性を完成させたのである。
熊谷の一時代あとの昭和になると、裕福な家庭の子弟ではなくても画家を志す若者が徐々に増えていて、いっそう彼らの生活から貧乏が消えることはなかった。
シュルリアリスム風の作品を残し、終戦直後、上海の兵端病院で病死した靉光は、修業時代の貧乏が語り草として残っている。
広島の農家育ちの彼は早くから画家を志したが周囲に反対され、高等小学校を卒業すると図案職人として職を得た。働きなから絵を習い大阪のデザイン会社へ移ったが、志を諦めることができなくて親には内緒で友人と二人でこっそり東京へ向かった。途中で旅費が不足し、野宿を重ねた。
東京へ着いたものの西も東も分からない上に金もなく、電柱に登る日雇仕事に就いたが、商売道具の地下足袋を盗まれ、とうとう両親に助けを求める手紙を書き送った。
諦めた親が折れ、乏しい仕送りを約束されて靉光は太平洋画研究所へ通うようになった。
彼の志と執着はすでに外観の恰好に現われていた。「あれは何者なんだ」「プロの絵かきかもしれない」
教室が騒然となった。
頭の髪を黄色に染めた靉光がすまして椅子に腰掛けていた。
靉光は黄色に飽きると、今度はまっ赤に染め直して周囲のド肝をぬいた。
ドブ板を渡って上る下宿には道端で拾い集めた工事用のランプや動物の骨、羽をむしり取った雉が吊されていて、靉光は腕を組んで鑑賞したり絵を描いたりした。
麦飯と大根の葉っぱのみそ汁ばかり食べていた。麦飯を炊かせると彼の右に出るものはいないといわれ、仲間は一目置いた。
靉光と同郷の柿手春三は上京する三等車の座席で、涙で別れた母親に「将来は大芸術家になるのだから…」と慰めの手形を書いていると、見知らぬ男が二度三度覗きこんだ。ムッとして見返すと、男は黒い手帳を示して車掌室へ同行を求めた。全部の持物検査を受け、書きかけの手紙も読まれ、「フン、大芸術家か、芸術家にロクなのはいない」とイヤ味を言われて開放されたものの、絵かきの修業の出端に暗い時代の現実を突きつけられ、柿手は体を震わせたという。共産党大弾圧の三・一五事件があった昭和三年のことである。
大野五郎は病気のため中学を落第したことが絵の道に進むきっかけになった。父は鉱毒事件で知られた足尾の村長で、大野は一家が村を捨て東京へ出てから生まれた。父親が他界する二十歳までは不自由のない生活が板に付いていた。
藤島武二の川端画学校で学び、やがて一九三〇年協会の里見勝蔵に引き合わされた。大野は川端画学校で友達になった小野幸吉を誘って里見勝蔵の指導を受けることになった。
(略)
仲間から「赤羽の美少年」と呼ばれていた大野五郎は二十歳の時、神楽坂のユレカというバーに移り住んだ。。
この店は大野の兄で詩人の逸見猶吉が早大生のときから経営しており、高橋新吉などのちに『歴程』の創刊メンバーに連なる詩人が多く出入りしていた。昼はコーヒーを出し夜は女給が十五人もいた。
兄は詩人仲間との遊興で借金をつくっていて、大野が店の後始末をすることになった。兄は弟にあとを託して満州放浪の旅に出た。
ユレカの先の芸術倶楽部という洋館風の古めかしいアパートに靉光が引っ越してきた。
ここは松井須磨子が島村抱月のあとを追って自殺をしたアパートで、靉光の部屋は三階の屋根裏だった。部屋のまん中を梁が走っていて、動くのに立ったりしゃがんだり窮屈な思いをしなければならなかった。
(略)
やんちゃできかん気の少年だった井上長三郎は大連の中学を終えると、一人で四日かけて東京へ来た。
誰もが絵を学ぶことを喜び気持ちを昂らせていた。
古着屋で見つけた前ポケットがいくつも付いた上着を、井上は気に入りいつもそれを着ていた。
彼は石費デッサンの授業にあきたらなくて消しゴム用のパンを食べて仲間を呆れさせた。腹の足しにするものもいたが、井上のそれは早く次の教課に進ませてくれという抗議だった。
井上は行動力が際立っていた。二科展に出品する作品を靉光や大野と大八車で搬入している時大福餅を食べて受付時間に遅れたことがある。この日が最終日で仲間は呆然としたが、井上は二科会幹部の石井柏亭の自宅へ走り、翌日特別に受け付ける約束を取り付けみんなを喜ばせた。
北九州生まれの寺田政明は幼い時に足の怪我で長い入院生活を送った。彼は日曜日に中庭で絵を描いている若い医師を病床の窓越に目にし、心を弾ませ美術に関心を持つようになった。
十六歳で上京し、別の美術学校へ通ったが、ここは東京美術学校を受験するための予備校のようであったため、太平洋画研究所に移った。
寺田は河童絵で知られる文人画家・小川芋銭の絵が好きで、ある時、麻生三郎古沢岩美を誘って探索かたがた手賀沼へ行った。
彼らは枯れ葦の密集する沼沢に着くと、日が暮れるまで写生やスケッチにいそしんだ。かっばは現われなかったが、通りかかった百姓が怪訝な顔で絵を描いている彼らに何をしているのかと問い掛けたという。まだ絵かきを見たことがないものもいた。」

つづく




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