2018年9月29日土曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(3) 1907年(明治40年)長谷川利行(16歳)~1911年(明治44)長谷川利光20歳

佐伯祐三《ガス灯と広告》 1927昭和2年 東京国立近代美術館蔵
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1907年(明治40年)長谷川利行(16歳)~1911年(明治44)長谷川利光20歳

6月、母照子逝去。(一説には1910年)

耐久中学の雑誌『三一会会報』4号(8月発行)に「快楽と悲哀」を掲載。

「 - 故に悲哀の裏には快楽潜み、快楽の陰には悲哀の伴うものなり、(略)彼の偉人傑士と世に尊崇せらるる者の多くは能く忍び難きに忍び、耐え難きに耐え、如何なる悲哀に遭遇すとも、決して屈撓せず、以って有終の快楽を購ひ得たるに非ずや、然るに今人の情として其の多くは目前の快楽を得むが為めに働きて自己の力尽き、根涸れ尚能く得る能わざるときには失望落膽して毫も当時の意気を覚むる能はず懊悩煩悶するなり、鳴呼彼の徒、口を開けば処世難を叫び、或は平等説を唱え、又は社会主義を鼓吹せむとす、されど所詮は蜜の如き甘き快楽をのみ揃へむとするなり、(略)」(「快楽と悲哀」)

「同級生間の噂では、全くの高踏派、水彩画は群を抜いて上手、短歌も作るとのことで、一見旧知の如しで、それからは全く心置きなく話し合うやうになりました。・・・長谷川君は、近くの広村の下宿から通学してゐました。小生は寄宿舎生活で、当時の舎費としての生活費は一ケ月四円五十銭から五円までと云ふ時代でした。その寄宿舎は、松林と芦荻の入りまじつたジャングルの中でした。・・・二年が終り三年になりましたが、甲乙二組に別れたままで、同じ教室ではなかつたので、学習の英漢数等の成績は私にはわかりませんでした。ただ一年に二回ほどある学業成績発表の折りの利行君の水彩画は、全く群をぬきん出て秀抜で、一級上の守野綱一君の書と好一対でした。長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてる(い)た小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」)。

1908年(明治41年)の長谷川利行(17歳)
 3年のとき、同学年生薗悌次郎、紀南新聞記者井上豊太郎、浜田峯太郎とで同人雑誌を発行。小説、詩、短歌など多作する。
「当時、長谷川君は繁児と云ふ奇妙な雅号で、その因縁を問ひただしても答えず、ただ恋人に因めるものを云つたやうに思ふ」(薗悌次郎「思ひの記」)。

雑誌を機縁に上級生金沢種美と交友。
「「人として彼(註・長谷川利行)を知ったのは、私達の中学時代、即ち明治四十年前後であり、彼は私より三つ程も若く、私が五年、彼が三年の頃である。絵を習つてゐるといふことであつたが、私達が知り合つたのは共に文学少年としてであつた。彼が紀州の耐久中学生でゐながら小さな雑誌を出してゐたのに、友人の紹介で歌や評論を寄せたのが、私と彼との繁りである。彼は時に歌も詠んだが、最もその才能をみせたのは創作であつた。これが田舎の中学生の作品かと思はれるほどコクのある作品を書いたが、文章には可成り飛躍性があつて晦渋に陥つてゐるとおもへるものもなくはなかつたが、彼が順調に素養を積めば恐るべき作家にならうと思つたのだが、何時の間にやら雑誌も廃刊して爾後消息を不通にしてしまつた」(金沢種美(高崎正男『長谷川利行画集』明治美術研究所刊))。

 夏休みには帰郷せず、同人雑誌仲間と浜田峯太郎の実家、日高郡和田村和田に遊ぶ。

1909年(明治42年)、長谷川利行(18歳)
冬休みの後に耐久中学を中退か。
「かくして明治四十二年になったが、其冬休みを境にして、利行君は全く学校に姿を見せなくなつた。友人たちとも、いろいろ話し合つたが、失恋のためとかの噂が流れて、そのままに利行君の記憶は、同級生の誰からも消えて行つてしまひました」(薗悌次郎「思ひの記」)。

1910年(明治43年)、長谷川利行(19歳)
■画家 - 芸術家になるのは天職だと信じるようになる
中学中退後、29歳で上京するまで利光は何をしていたのか、経歴の多くが空白になっている。

利光の姪、弟・利邦の2女の邦子によると、利行は幼い頃から利其の勧めで絵を習い、高名な画家とも接触があったという。
明治43年8月、水彩画家大下藤次郎が主宰する講習会が滋賀県膳所で開催された折の記念写真がある。その中の利行は端正な顔立ちで存在感を漂わせて写っている。
大下藤次郎はわが国の水彩画発展に多大な貢献をなした画家で、明治34年、技法書『水彩画之栞』を出版し、全国に水彩画ブームを巻き起こした。萬鉄五郎は郷里岩手で同書に接し、制作を始めた。すでに洋画を描いていた坂本繁二郎も写実の基本を学んだという。
当時11歳の利行は、写生大会で藤島武二から画紙を貰ったり、鹿子木孟郎の指導を受けるなどしているから、大下の同書に目を見張らせたと推測できる。利行は大下を崇拝し、彼が41歳で急死する前年に、彼から画筆の年賀状を貰い感激している。
大下は美術雑誌『みづゑ』を創刊させ、また水彩画講習会を組織的に開催するなど事業家としての貌も持っている。
中学中退後の利行は『みづゑ』の熱心な読者で、水彩画を描き、投稿をしている。

明治43年春、利光は「おのれの告白」という文章を投稿。
正月の雪の降った風景に接し、詩をつくり歌を詠み、絵を描き、そして芸術家を志す決意を示している。

「 - するとおのれはどうしても自然画の側にたちてゆく人だ。画家 - 芸術家になるのは天職だと信じるようになる。(略)歌も詩も文も作ったが、描いた絵画が痛切におのれに見ばえがしたのである」(『みづゑ』明治43年3月号)

1911年(明治44)長谷川利光20歳
 8月21日から1過間、『みづゑ』主催水彩夏期講習会に参加。
「幼い時敦賀で兩親と一年程生活したといふ、しかし私にはそんな記憶はさらさらない。畫を描く人の幸福は、敦賀の町と敦賀の海と懐かしい海のトレモロを聞くことを、北國のローカルカラーを景色の曲線美と色彩に富めることを賞美措く能はずであらう・・・」

「水彩畫の講習の成蹟はどうであらうと、私には敦賀の風景畫を讃美せずには居られない、私にデッサンを充分ならしめよ、おまへには必と握手してやると再會を約束したのである、自然に忠實であるはづの私に少くとも檜筆を持つことのいま少しく親しみたく思ひ到つた、未熟な畫生はいたづらに奔走するよりも檜畫の根本的研究をやり、色彩を離れて自然の肖像を畫き。とる丈の素養を養成して置きたく切に思つた。アマチュアで結構、凡人畫工で結構、或はペンキ屋の畫工でもよい、私には尊重すべき品性問題より口考した水彩畫そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をもの新らしく知覺したのである」(利行「敦賀の所感」)。

なお、「敦賀の所感」中に短歌5首が載り、そこでは「繁児」という雅号を使っている。

つづく

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
https://blog.kenfru.xyz/entry/2017/03/09/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%80%8C%E4%BB%8A%E3%81%8C_%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%81%97%EF%BD%9E%E9%AC%BC%E6%89%8D_%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%88%A9%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%9B


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