2018年9月25日火曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(2) 長谷川利行、福沢一郎、佐伯祐三、靉光、生まれる 

靉光《眼のある風景》1938年(昭和13年) 東京国立近代美術館
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若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(1) 《画家たちと彼らが生きた時代の概観》
からつづく

1891年(明治24)7月9日
長谷川利行、京都府久世郡淀下津町四番地で出生(現在の京都競馬場の近く)。父は利其、母はテル。5人兄弟の3男。
祖父軍二は淀藩稲葉家に召しかかえられた(6石5斗2人扶持)俳諧師で南陽の俳号をもつ。安政4年生まれの父利其(としその)も俳諧に生きた文人で京都伏見警察署に勤務していた。
長男は生後すぐに死亡したため事実上の長男・利一は利行より4歳上で、数学、スポーツが得意だった。母方が代々淀藩の御典医でその血筋を引いたといわれている。
利一は家督相続権者としてそれに相応しい環境を与えられ、その下の利行は早くから書物に親しみ、父親を喜ばせ、父の溺愛を受けた。
利行は自らの出自や過去について多くを語っていない。父・利其の葬儀の際にも知らせを受け取りながら帰郷しなかった。
利行は絵を描くこと以外の一切を放擲した。
淀下津町の高等小学校を終えた利行は1907年(明治40年)、和歌山県有田郡広村西浜(現・湯浅町)にある私立耐久中学(現・県立耐久高校)に入学した(入学年を1906年(明治39年)とする資料もある)。何故自宅を離れて和歌山の中学へ進学したのかは不明だが、祖父・軍二がその土地と緑があり、彼の南陽という俳号が紀州で知られていたことと関係があるのだろう。

1896年(明治29年)
東京美術学校に西洋画科を設置
「戦後に東京芸大になった官立の東京美術学校が、フランスがえりの黒田清輝を嘱託教員に、若手の藤島武二、和田英作、岡田三郎助を助教授にむかえて西洋画科をもうけたのは明治二十九年であった。普通、絵といえば日本画だと思われていたそのころ、新設の西洋画科をはじめから希望するものはごく少なく、ほとんどの生徒は日本画科からの転科生であった。」(『池袋モンパルナス』)

1898年(明治31年)1月18日
福沢一郎、群馬県北甘楽郡に福沢仁太郎の長男として生まれる。福沢家は富岡の旧家で、祖父は富岡製糸場に関係し製糸業を営み、また富岡銀行を興した事業家であった。父仁太郎は明治学院で島崎藤村と同窓で、家業を継いだが西洋の事物に明るくハイカラな人物であったという。
県立富岡中学校から第二高等学校英法科へ進み、在学中ドイツ語教授登張竹風に芸術に対する感化を受け、また、彫刻に興味を抱き彫刻や油絵を独習した。

1898年(明治31年)4月28日
佐伯祐三、大阪府西成郡中津村(現在の北区中津2丁目)の浄土真宗本願寺派光徳寺の次男として生まれる。父は祐哲(ゆうてつ)、母はタキ。
1912(明治45・大正元)14歳
4月、大阪府立北野中学校へ入学。野球・水泳・ヴァイオリンに興味を持ち、ずぼらな性格から「ずぼ」とあだ名された。
1915(大正4)17歳
4年生頃から油絵を描き始め、赤松麟作(りんさく)の洋画塾に学ぶ。父から医者になることを期待されたが、画家を志望する。

1902年(明治35年)頃
「・・・・・上野の画材屋「払雲堂」主人、浅尾丁策は、先代金四郎の思い出をつぎのように記している。

当時金四郎を何かにつけて可愛がってくれた太田六痴と言う書家があった。(中略)「オイ金さん、(中略)近頃日本の絵描きが西洋の油絵を真似てかくのがだいぶ流行ってきたようだ。ところが油絵と言うやつは、聞くところによると、絵の具はとてもネバネパしていて今までの日本筆ではどうにも具合がわるく困っているらしい。そこでダ、君は何でも工夫するのが好きな性質だから、どうだい、一番油絵筆をやってみないか」といった。
(浅尾丁策『谷中人物叢話 金四郎三代記』芸術新聞社・一九八六)

明治三十五年ごろの話で、金四郎はそれから豚の毛をもとめて鎌倉ハムの工場をおとずれた。・・・・・」(『池袋モンパルナス』)

明治40(1907)年6月24日
靉光、広島県山縣郡壬生町字梅之木(現在の北広島町壬生小字梅之木)の農家に生まれる。父初吉、母ツネの次男。

窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』より引用
■「信濃デッサン館」「無言館」と靉光
「私は長野県上田市で小さな二つの美術館を営んでいる。
一つは大正時代の半ば、あるいは昭和の初め頃に肺結核などで若く亡くなった、いわゆる夭折画家とよばれる絵描きたちの作品を展示する美術館「信濃デッサン館」(昭和五十四年開館)で、もう一つは先の太平洋戦争や日中戦争に出征し戦死した画学生たちの遺作や遺品を展示する戦没画学生慰霊美術館「無言館」(平成九年開館)である。・・・・・」

「二つの館に共通するのは、いずれも「夭折画家のコレクション」であるけれども、いっぽうは人間としての天命、生あるものの必然ともいえる「課せられた死」によって生をとじた画家であるのにくらべ、いっほうは不条理な戦争という時代のなかで、好むと好まざるとにかかわらず「強いられた死」を受け入れなければならなかった画学生であるという点が大きく異なるといっていいだろう。
だが、この二つの微妙に性格のちがう私設美術館の、そのどちらの館にも展示されている画家が一人いる。戦前戦後の洋画壇に異彩を放つ秀作を次々発表し、今も多くの美術ファンを魅了しつづけている画家であり、同時に太平洋戦争に応召し、終戦後の一九四六年に上海で三十八歳で戦病死した「戦没画家」でもある靉光である。」

■靉光の生涯、概観
「靉光 - アイコウともアイミツともよまれるこの画家の本名は石村日郎(にちろう)といって、一九〇七(明治四十)年六月二十四日広島県山縣郡壬生町に生まれ、大阪の天彩画塾に学んだのち上京、井上長三郎や野村守夫ら同時代の画家がかよう太平洋画会研究所に入所した。十九歳のとき二科展に出品した「ランプのある静物」で初入選を果たし、以後一九三〇年協会展や槐樹(かいじゅ)社展、独立美術協会展などを中心に活動、当時若い個性ある画家や詩人が多く蝟集(いしゅう)していた通称「池袋モンパルナス」とよばれる豊島区東長崎のアパート「培風(バイフー)寮」の二階に三年余り住んだ。第八回独立美術協会展に代表作「眼のある風景」を出品して独立美術協会賞を受賞し、一九四三年には麻生三郎や松本竣介、糸園和三郎といった気鋭画家たちと「新人画会」を結成するのだが、翌四四年五月に召集をうけ、一九四六年一月上海の野戦病院でマラリアとアメーバ赤痢のために三十八歳で戦病死するのである。」

■二つの靉光像
「多くの研究者は靉光に「抵抗の画家」「反骨の画家」、あるいは「異端の画家」といった称号をあたえてきたようだ。近年になって、そうした一方通行的な画家の捉え方に疑問を呈する意見も多くみられるようになったが、総じて靉光という画家が(あるいはその絵が)、当時の画壇や社会のなかできわめで孤高の位置にあったことに不同意の人は寡(すく)ないようだ。戦前戦時を通して、時代の抑圧や統制の荒波にもまれながら、一貫して画家としての矜持(きょうじ)や誇りを失わず、自らが信ずる作品の制作に没頭しつづけたその生涯には、いかにも「孤高」という呼び名が似合ったからであろう。」

「私もそんななかの一人で、靉光が時局からの要請にひるまず、いわゆる「戦争協力画」「戦意昂揚画」を描かなかったこと、貧窮のドン底にありながら、絶えず絵画表現の自由と改革をもとめつづける制作姿勢をつらぬいたことなど、知れば知るほど靉光の不動一途な生き方に胸をうたれた。出征後も軍隊生活における非人間的な上意下達の規律に反撥し、臨終の床にあっても食料の配給を拒否したという逸話にも胸をゆきぶられた。あの何もかもが軍国主義一色にぬりつぶされ、表現者の自由がないがしろにされていた時代、ビクとも自らの生の根幹をゆるがさなかったその強靭な意志力に、私もまた、画家が一生抱きつづけた「抵抗」「反骨」「孤高」の精神をみる思いがしたのだった。
しかし同時に、若い頃から靉光は政治的なことには興味が薄く、どちらかといえば「純粋な愛国者」のほうに近かったという説もある。戦時中には軍需工場に徴用になった画友を訪ねて、「お国のためにがんばってくれ」と励ましていたというし、出征するときも、見送った井上長三郎に「オレは家族のためにがんばってくる」と真顔で語っていたそうだ。また、戦争画をまったく拒否していたわけではなく、本人はむしろそうした絵を描くことにも意欲的で、「兵隊を描きたいのだがうまくゆかない」とこぼしていたともいわれている。
いったい、この二つの「靉光像」のどちらが正しいのだろうか。」

■だれも知らないもう一つの靉光の姿
「作品あつめのために全国のコレクター宅を訪ねあるき、また多くの靉光のご遺族や友人知己に会って話をきくうちに、私は何となくそれまで語られてきた、そういった二律背反的な「靉光像」に疑問をもつようになった。疑問をもつというより、靉光という画家にはもう一つ、画家の「生きる姿勢」と「描く姿勢」をささえた隠された何かがあったのではないか、だれも知らないもう一つの靉光の姿があったのではないかという思いがつよくなったのだ。」

■キエ夫人の言葉
「貰い子だったせいか、石村には生まれつき人間に対する用心ぶかさ、疑りぶかさ、それに、自分は自分で生きてゆくといった強い独立心があったようです。たとえば、結婚してまもない池袋時代、郷土(くに)もとからの送金を郵便局にうけとりにゆくたびに、きちんとその額を帳面につけていたことをおぼえています。そうしておかないと、どうも気持がおちつかないのたといっていました。養父母とはいえ、親子の間柄なのに、石村にとってそれは、あくまでも自分が他人からうけた借金と同じようなものだという意識があったのではないでしょうか。石村には幼いころから、そうやって肉親の愛情すらも、まっすぐにうけとることのできない悲しい性分みたいなものがあったような気がします」

「けっきょく、石村はそんな素直でない自分の性格を自分でもよく知っていて、それを忘れるために絵を描いていたような気がするんです。絵にうちこんでいるときには、そうした肉親に対する思いや、自分の出自にまつわることを考えないでいられましたから、やはり一番自由で素直な自分の姿になれたのじゃないでしょうか。絵を描いているときの石村の顔は、たしかに思った通りに筆が運ばないときなど、苦し気に歯を食いしばったり眼をとじたりしていましたが、ある意味でそれだって絵と自分だけの幸せな時間だったのかもしれません」

「そこには、人の善意、親の慈しみをもどこかで心の秤(はかり)にかけて生きねばならぬ靉光の孤独というか、どこか屈折した自我のようなものがあるような気がしてならない。ものごとにもう一つ素直になりきれぬ靉光のさみしさとでもいったらいいだろうか。私の眼には、その生いたちがもつ微妙な屈折もまた、やはり画家靉光の芸術をうちがわからささえていた大切なエネルギーだったのではないかと思われてくるのだ。
いや、屈折が芸術をささえていたというより、そういった自らの宿命に対する精神的な身構えのようなものが、靉光の絵をあれほど妖しく奥ふかいものにみせていたといえるのではないだろうか。」

■遺作に最も高い値がついている
昭和6年頃、「すずめケ丘」に貸アトリエがたち並んでから、池袋モンパルナスをにぎわした若手貧乏絵かきのうち、遺作にもっとも高い値がついているのが靉光である。美術公論社の『美術名鑑』('89年度版)には、号あたり、つまり葉書1枚大の値が120万円とある。2位が松本竣介で70万円、例外的に、当時すでに一家をなしていた熊谷守一は550万円、その熊谷に評価され、池袋モンパルナスに出没したボヘミアン長谷川利行は300万円である。(『池袋モンパルナス』)

つづく

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
https://blog.kenfru.xyz/entry/2017/03/09/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%80%8C%E4%BB%8A%E3%81%8C_%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%81%97%EF%BD%9E%E9%AC%BC%E6%89%8D_%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%88%A9%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%9B






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