2018年9月14日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その1)〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉「午後8時、腰に一刀を挟し手に抜刀手槍等を持てる多数の警官及鳶職等に護られ、荷車に載せられ来院す。皆異口同音に、鮮人なり殺せ、打て、蹴れ等罵詈百出開門を遅しと玄関の前に曳き入れ敷石の上に投ぐるがごとく下ろさしたり。.....果して本人は鮮人に非ずして、.....背部致命傷の刺創のため、午後8時45分死去す。ああ惨なるかな、悲なるかな。」

【増補改訂Ⅲ】の9月1日の項は終わったので、9月2日の項は【増補改訂Ⅱ】の9月2日からつづく
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【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その7) 江東区/深川、品川区/荏原・戸越の証言 「...かくて民衆の手に依りて逮捕し、本署に同行せるもの少なからざりしが、概ね沖縄又は伊豆大島の人なりき、然れども人心はこれが為に興奮して自警団の横行を促せり。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月2日午後5時、府下荏原郡平塚村下蛇窪にて木剣や棍棒を以て鮮人洪弘禰(26)を袋叩にして重傷を負わせた犯人同村266煙草小売人高山寅吉(24)同336人夫請負業道瀬源次郎(47)同336花商森田源吉(47)に令状執行収監す。

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月2日午後6時府下平塚村蛇窪228先にて、不逞鮮人なりと称し李鉉模(24)に棍棒で重傷を負わした犯人同村244湯屋業矢部米吉(42)同714材木商伊藤榮(36)同682農伊藤繁太郎(38)に令状執行収監す。

『東京日日新間』(1923年10月16日)
「府下蛇窪の2人殺し 犯人は消防手と自警団」
去月2日午後5時半ごろ、府下平塚村下蛇窪古川研究所前に20歳位の男が、また同所368伊藤武五郎方裏手道路に27歳位の男が日本刀で殺害されているのを発見し〔略〕同村消防5番組小頭伊藤芳太郎(42)同矢部末吉(42)伊藤由太郎(46)筒先楠芳太郎(35)纏持ち伊藤榮(33)消防手伊藤繁太郎及び下蛇窪355自警団員角谷森田高山その他5、6名を犯人として検挙し予審に付した。

〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉
秋谷勝三〔現在の北品川1-22辺にあった貸座敷屋「山幸楼」で被災〕
テント生活を始めた次の日〔2日〕、今度は朝鮮人騒動が持ち上がった。テントの中には女子供がいる、ここじや危ないとなって、女たちと子供たちは、蔵の中にいったん移ることになった。そうしておいて、父は私に一振りの刀を渡した。そして私に言い付けた。「お前は総領だ。蔵の入り口に坐って、怪しい者が来たらこの刀で防ぎ、蔵の中の者を守るんだ。いいな」
家のどこにそんなものがあったのか私は知らなかったが、刀を腰に差すと、ぐんぐん食い込んで来るような嫌な重さを感じた。私はその刀を差して蔵の前で番をする羽目になってしまった。
見世の周りは、店の者や若い衆が警護しているとはいうものの、蔵の前は真っ暗やみであった。私の持っている提灯が、わずかに辺りをほの明るくしているだけだあった。「あっちイ行ったぞ」 「こっちだ」
闇の中で、時折りそんな声が聞えてくる。蔵は余震でギシギシ揺れていた。ただでさえ心細いところに、余震と叫び声である。私は余計、不安が募ってきた。
ふと濡れ廊下の方を見ると、人とも物ともつかない黒っぽいものが目に入った。それがいきなり「入れてえ、頼みまァす」としゃべったのである。びっくりしたのなんの、私は飛び上がって驚き、持っていた提灯を思わず落としてしまう有り様だった。
よくよく見ると、それはうちの見世の隣にあった矢崎楼という貸座敷のおばあさんであった。何か忘れ物を取りに帰ったところで朝鮮人騒ぎに巻き込まれ、家族ともはぐれてしまったらしい。最初は縁の下かどこかに隠れていたのだろうが、うちの見世の蔵の方に明りが見えたらしく、それを頼りに、やっとの思いで這いずって来た - それが真相であったが、あんなに驚いたことはなかった。総領に生まれたぽっかりに、こんな怖い思いもしなければならないのかと、自分の立場が恨めしくなった。
(秋谷勝三『品川宿遊里三代』青蛙房、1983年)

太田延子〔品川町で被災〕
2日目の午後1時頃、暴徒が六郷土手まで来たから、女や子供は避難して、男の人は外に出てくれといわれた。5丁目通りには、小さなお稲荷様があり、そこに火の見矢倉が立っていて、釣鐘がジャンジャンと鳴っている。おそろしくて、どこへ行ってよいのかわからず、体の置きどころがなかった。足が宙に浮くとはあのことであろう。近所の人と押入れに隠れていた。赤ちゃんも母親がほんとうにこわくてふるえているときには泣かないもので、おんぶした肩にしっかりつかまってじっとしている。いま思い出しても泣けてくる。男の人は、後ろはちまきに竹やりを持ってものものしい。こわくて心が動揺しているとき、ジャンジャンと半鐘の音を聞くと、本当にどうしていいのかわからなくなる。いまならサイレンだろう。
2日目の夕方、軍隊が出て、戒厳令がひかれ、東海小学校に避難してくださいといってきた。夜にはむろん電気はつかず真っ暗だ。間断なく来る地震で、校庭には「南無阿弥陀仏」をとなえながらの合掌でいっぱいだった。
(「デマに翻弄された二日目」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1918年)

金子佐一郎〔神田で被災。北品川の自宅へ帰る〕
2日ごろだったろうか、朝鮮人の暴徒が襲来するというデマが流れはじめた。3日夜になると、町会長から、婦女子は全員高輪南町の毛利公爵邸に避難するようにといってきた。男たちは竹槍をこしらえて自警団を組織し、毛利邸周辺を警戒した。その後、女中が、「いま怪しい男がうちの井戸をのぞいていました。毒をいれたのかもしれません」と言い出した。きっそくいろいろ試験をしてみたが、異常はない。あとで、これは近所の家で地震のため水道が止まったので、井戸掘り工事を頼まれた井戸屋がうちの井戸のようすを見にきたということがわかった。まことにデマはおそろしい。
(金子佐一郎『組織人のこころ ー 私の歩んだ七十七年』中央経済社、1976年)

後藤文夫〔当時内務省警保局長〕
警保局の職員で大崎から通っているのがいましたが、それが2日の夜でしたか顔色を変えて入ってきました。朝鮮人が暴動を起して大崎までやってきているというんです。〔略〕品川の警察署に電話して連絡してみたが、そんなことはないという状態でした。
(中村宗悦『評伝・日本の経済思想 後藤文夫 - 人格の統制から国家社会の統制へ』日本経済評論社、2008年)

田河水泡〔漫画家〕
〔2日朝、大磯を発って東京深川へ徒歩で向かい、夜、暗くなった頃に品川警察署前まで辿りつく〕品川警察署に寄ったところ「五反田方面は火災もなく心配はないが、夜遅く君のような長髪で歩いていては、自警団に怪しまれて危険だから、今夜は警察で保護する。今夜は刑事部屋で寝て行くほうが安全だ」と親切な態度で泊めてくれた。〔略〕夜が明けて、きのうの巡査に礼を言って警察を出だが、道々に、自警団が日本刀の抜身をぶらさげて、通行人をうさん臭そうに睨んでいる。私は長髪なので社会主義者だろうと思われて、抜身をぶらさげた男たちに呼びとめられた。「どっから来た。どこへ行く。職業は?」といろいろ聞かれるので、ズボンに少し油絵の具がついていたのを見せて、絵描きであることを納得させて放免されだが、これが夜だったら自警団も気が立っているから、どんなことになったか、危ないところだった。
(田河水泡・高見澤潤子『のらくろ一代記 - 田河水泡自叙伝』講談社、1991年)

鄭然圭〔作家。1922年に来日。朝鮮語・日本語で創作活動を行う〕
〔連合会の人の話〕「現に品川辺では、今まで自分の家に名刀だと祖先伝来伝わってきた刀が1本あったそうです。この際この刀を持ちだして試し斬りをしてみたいと、早速河岸に立って片っはしから川からあがって来る奴を斬ってしまったというに至っては全くいやになってしまうじゃないですか」。
(連載「同胞の遺骨を訪ねて」『報知新聞』1923年11月28日~12月15日)

柘植秀臣〔大脳生理学者。震災当時、父親が品海病院(現・北品川病院)院長〕
〔2日〕朝鮮人騒ぎの流言が伝わってきた。夕刻4時頃には、朝鮮人が大挙して川崎方面から押しかけてきたという流言にはじまり、大森に近づいているから朝鮮人を警戒しろと自警団員が叫び回り、ある者は抜刀し、ある者は竹槍、鳶口をもって道路を右往左往していた。
夜ともなると、ますますその狂乱ははげしくなっていった。尾崎〔秀実〕も私達も、付近の空地や墓地などに朝鮮人がひそんでいるかも知れないから見回りしろ、と自警団員や在郷軍人に命じられるままに付近の警戒に歩き回った。この時も尾崎は「朝鮮人がこんなことをするなど考えられない」と、ひそかに私に話していた。多分日本統治下の台湾で台湾人に対する同じような経験をもっていたからだろう。
2日夕刻から伝わってきた朝鮮人暴動の流言による犠牲者がぞくぞく病院に運び込まれてきた。
(『サンデー毎日』 1976年9月12日号、毎日新聞社)

長尾健策〔当時高輪警察署署員〕
翌日〔2日〕だったと思いますが、大崎駅付近に大量の朝鮮人が押しかけてくるということで、〔高輪署〕署長の命で若い者達で決死隊をつくり、検挙すべく派遣されましたが、結局何もなく単なるデマということで戻ってきましたが、そのほか朝鮮人についてのデマには、随分無駄なカを使ってしまったものです。
(目白警察署編『関東大震災を語る - 私の体験から』目白警察署、1977年)

長谷川君江〔北品川736で被災〕
〔2日〕表へ出たら、前の奥さんたちが話していて、私を見るとそばに来てあわただしくいう。「今、外国人が千名ばかり、大井町から抜刀してパルチザンのような行為をしながらやって来ますって。井戸には毒薬を入れるそうです」
すじ隣の奥さんに話し、主人に話す。いずれも「エーッ」と顔色を変える。すると、品川方面からどんどんその話をもってくる。私たちは大あわてにあわてて主人に相談する。主人はそれでもいくらか落ちついている。「岩崎さん〔岩崎家別邸の関東閣〕へ逃げるんですね。そしてあの門を警官に守らせればいいでしょう」
〔略〕やっと岩崎さんへ来た。〔略。知り合いに会い〕「ここでごいっしょにおりましょう」といったが、「こんな大きな家は危険だ。こういうところに集めておいて爆弾を投げるんだ」と誰ともなく囁いてまた逃げてゆく。〔略。知り合いも逃げて行った。私は門内に入った〕。
遠くで太鼓の音が聞こえ出した。半鐘もさっきから鳴りつづげである。火事ではなく、暴動の警鐘である。つづいて、わあっ!というときの声。ボンボンと小銃の音が聞こえる。さあ来た、とばかり耳をそばだてて身をぶるわせている。途端にまたもや大きな地震である。〔子ども〕2人を抱いたまま地面の上へすわってしまった。
夜はだんだん色濃くなってゆく。そこへ刑事らしい人が入って来て、7、8名の朝鮮人をつれて出て行った。彼らも保護を願ったのだろう。「ご安心なさい。軍隊が出動しました。今、自動車で行ったのが早発隊で、あとから一師団くらい来て、品川を警戒します」という。やがて主人も迎えに来てくれて、ご近所の方々といっしょに家に帰った。
(「大震災日記」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

松井三彦〔当時品海病院(現・北品川病院)医局助手〕
今ここに特筆すべきは、9月2日に於ける鮮人狂暴多衆団をなし品川方面に襲来するの警報有りたるを以て、新設国道(現・第一京浜国道)及その他に避難せし多数の老若男女院内の屋内庭中に逃込みたるもの無慮100名位に及び安き思い無かりしに、夜に入り不穏の状は益々その度高め来れり、果然為に負傷者を生じたり。
午後1時頃に至り来院せしその第一を岡田とみ女とす。
その第二は畠山文雄氏にて、四囲の光景険悪に陥り来り、人心恟々驚鐘を乱打し危険を告ぐるの他、甲走り乙戦(おのの)き皆風声鶴唳(ふうせいかくれい)、虚か実か死者あり傷者多大なり等喧伝するその時も時午後8時、腰に一刀を挟し手に抜刀手槍等を持てる多数の警官及鳶職等に護られ、荷車に載せられ来院す。皆異口同音に、鮮人なり殺せ、打て、蹴れ等罵詈百出開門を遅しと玄関の前に曳き入れ敷石の上に投ぐるがごとく下ろさしたり。これを一見するに全身血に染み負傷多大なるがごときも、電気はなくただ携帯電気、蝋燭位の微光により点検するに、(1)前頭部、後頭部、側頭部の切創 (2)左右上膞部各2ヵ所の切創 (3)背部刺創 (4)背部2ヵ所の切創あり、出血淋漓(りんり)頻りに水をもとめ、まさに死期近し。とりあえず血を洗い去り、縫合止血を企つ。院長その服装により日本学生にして鮮人に非ざるを発見せられ、種々説明す。果して本人は鮮人に非ずして、実に品川町猟師町92番地畠山正雄の男畠山丈雄氏(20年)なりき。背部致命傷の刺創のため、午後8時45分死去す。ああ惨なるかな、悲なるかな。
その第三を大井町立会川福田狂二氏方竹下了君(20年)となす。前期畠山君の手当未だおわらざるに青物横町において負傷云々、前記の所のこれまた多数の人に囲まれ荷車に載せられ来り。開門々々と叫ぶ時、まさに午後8時40分頃なりき。これは (1)右手第二、三、四指の切創 (2)右前膞外側切創(約2寸) (3)前額横走せる切創(約2寸) (4)右臀部刺創等にして、直に手当を施す。本人は意気衰えず大いに高言を吐き、傍らの畠山君を呼び、朝鮮人君しっかりしたまえなど、何となく不穏の言語を発しおれり。
その第四は同様来院開門々々と怒号す。これを見るにやはり荷車上に在りて最早絶命に近さ状体なり。頭部に創傷あり、全身各所に打撲傷あり。これは周囲の状況により全く鮮人らしき点多かりき。後に聞けば翌朝死亡せりとの事なり。
〔略〕その第六は張徳景(?)といいて(43年)、品川町明治護謨会社の職工にして 既に4年間会社の職工となり居るものなるも、如何せん鮮人なるの故を以てその住宅を襲い背部を打撲せらる。その長子張先堂(19年)父を助けんとして同じく打撲せらる。時に午後十時なりき。(当時の記録)
(『サンデー毎日』1976年9月12日号、毎日新聞社)

つづく

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