東京 北の丸公園 2012-04-20
*承平2年(932)
1月
・藤原純友、父の従兄・伊予守藤原元名の推薦により伊予掾となる(承平5年12月帰京)
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4月13日
・疫病を払うため「奉幣諸社使」が派遣(『貞信公記抄』『扶桑略記』)。
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4月26日
・藤原忠平、疫気を払うため諸寺への読経を定める(『貞信公記抄』)。
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4月28日
・藤原忠平、「追捕海賊使」を定める(『貞信公記抄』)。
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9月
・丹波国文書に見る「名」(課税単位)と「負名」(税の納入担当者)の登場。
(9世紀後半~10世紀、国司(受領)がどのようにして徴税対象を把握し、納税させていたか)
東寺(教王護国寺)が丹波国(京都府中部~兵庫県北部)多紀郡に持っている荘園(大山庄)の現地荘官、僧の平秀(へいしゆう)・勢豊(せいほう)の稲を、税滞納を理由に丹波国が一時差し押さえたことについて、東寺が抗議し、これに対する丹波国側の返答(『平安遺文』240号、意訳)。
丹波国は、東寺の伝法供家に、以下のごとく通知する。
多紀郡大山庄の預(あずかり、担当者)である平秀・勢豊等の稲の件について、丹波国は東寺の伝法供家が、8月11日に出した通知を9月9日に受け取った。その文書で問題になっている多紀郡の調物使(ちようもつし)である蔭孫(おんそん)藤原高枝に事情を尋ねたところ、彼は「余部郷を専当している検校の日置貞良が『余部郷は、元来土地が少ないので、その郷に属している百姓の口分田は、その付近の他の郷々で班給しています。そういう訳で、当郷(余部郷)百姓が出すべき調の絹は、通例、口分田を設定されている郷々の「堪百姓(かんびやくしよう)」たちの「名(みよう)」から取り立てています。平秀たちは、俗人と同様に税を負担する能力があります。しかも、従来から例の調の絹を進上してきたので、「播本帳(まきほんちよう)」に記された平秀・勢豊等の「名」から、各二丈の絹を出させることにしました』と言ってきた。そこで例の絹を取り立てようとして、平秀たちの私宅に参ったところ、彼らは山野に隠遁して、全く支払おうとしません。そこでその絹を取り立てられない間、夫々の稲二百束ばかりを差し押さえた。もしその絹を取り立てることができたら、稲はお返しする」と言っている。そちらとしても、こういった事情を御理解戴きたい。
承平二年九月二十二日 権大目長岑
守藤原朝臣「忠文」(自署) 権掾山田
介藤原朝臣 大目秦
権介藤原朝臣
この頃、調は口分田に賦課されているが、これは律令の原則からは大変な逸脱。
その調を現地で取り立てる責任者は、多紀郡の調物使である。この人物は、郡司ではなく、「蔭孫」(祖父が三位以上になったが、自身はまだ官に任じられていない者)というだけで、国司のもとで国使として多紀郡の調の徴収の担当者になっている。
この頃の丹波国多紀郡では、従来のような郡司は、少なくとも徴税の面では姿を消している。
郡単位に置かれた調物使のもとには、郷単位に置かれた検校という肩書きを持つ人物がいて、調を取り立てるについての事務的な処理を行っている。これは郷単位に置かれた郡司とでも言うべきもので、その後、郷司と呼ばれることになる。彼は事務的な働きはするが、差し押さえの主体ではない。
郡調物使・郷検校が徴税しようとする相手は、この場合は東寺に所属する2人の僧侶であるが、調物使・検校は、相手が僧であるかどうかには頓着しないと言い、国司もそう考えている。
国側の主張は、「堪百姓」(現に収穫を挙げ、納税負担に堪えられる者)であれば、誰からでも税を取り立てるというもの。
納税額は、滞納分は、余部郷の百姓の口分田の面積を基準に算定されたもの。
その口分田は、平秀たちの「名」に算入されているので、平秀たちに納税義務がかかってきた。その納税義務は、「播本帳」(春の作付けの時の登録簿といった体の帳簿)に書き込まれているようである。
こうした堪百姓ごとに設定された徴税の単位が「名」である。
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12月16日
・備前国、朝廷へ「海賊」の事を奏上(『貞信公記抄』)。
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