2012年8月6日月曜日

昭和17年(1942)8月7日 「盬焼にしたる鮎の腹の黄ばみたれは秋風立そめしに相違なきなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園 2012-08-03
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昭和17年(1941)
8月1日
八月初一。日中は却て涼しく夜暑し、氷また品切。
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8月2日
八月初二 日曜日 くもりて暑し。田村松魚氏來書。
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8月3日
八月初三。燈刻七時頃より驟雨雷鳴。一時間ばかりにて歇む。
荒川上流熊ケ谷邊一しきり電車の交通中止せしほどの大降りなりしと云。
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8月4日
・八月初四。晡下雷雨。金兵衛に夕餉を喫して後淺草を歩す。
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8月5日
八月初五。夜の明る頃四時過雨沛然として濺來れり。終日風吹き通ひて涼し。庭樹に法師蝉鳴き出しぬ。
今年より陰暦禁止せられて節序を知ること能はざれど毎年秋の來るは八月の四五日頃なれば今年も今日あたりより秋に入りしなるぺし。
〔欄外朱書〕報知新聞讀賣ニ合併シ國民ハ都新聞ニ合併セシ由
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8月6日
八月初六。曇りて凉し。日中華氏七十八度なり。
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8月7日
八月初七。人の語るをきくに今日より秋になりしと云。我庭の秋海棠三伏の炎熱あまりに激しかりしためにや其葉はたゞれ花の蕾も半萎れて落ちたり。夾竹桃の花は今にさかりなり。隣家の空地に玉萄黍高くのびて熟し、朝鮮牽牛花さかりに開くを見る。晡下士州橋に至り歸途金兵衛に夕餉を喫す。盬焼にしたる鮎の腹の黄ばみたれは秋風立そめしに相違なきなり。
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8月8日
・八月八日。くもりで蒸暑し。夜向嶋を歩す。
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8月9日
八月九日 日曜日 深更雨屢來る。
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8月10日
八月十日。先月頃より市中に塵紙品切なりしがこの度配給制となり一日一人分三枚當の由。
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8月11日
八月十一日。朝夕の風俄に凉しく晝過には傾く日脚秋も末ちかくなりし思あり。終日曝書。随園の新齋譜をよむ。
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8月12日
八月十二日。點燈禁止の令出でたりとて街上に燈影なく暗夜の空には飛行機の響頻なり。夕飯を喫せむとて金兵衛に至るに料理場の男二人 いづれお妻子あり年三十四五 徴用令にて二三日中に軍需工場へ送らるゝと云。
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8月13日
・八月十三日。今夜も燈火なし。
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8月14日
八月十四日。晴残暑華氏九十二三度に昇る。夜湯島新花町に大工岩瀬を訪ふ。偏奇館修繕の事につきてなり。
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8月15日
八月十五日。曝書昨日の如し。夜金兵衛に飰す。隣家亀寿司にて軍人酔ひて刀を抜き客二三人女中などを斬りたる騒ぎあり。宵の口人の出さかるころなれば近所一帯に大騒となりたり。
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電車が動けなくなるほどの大雨が降ったり、立秋を前後するあたりの季節感がよくでている。
昭和17年の立秋は8月7日で今年と同じようだ。
つくつく法師、キョウチクトウ、とうもろこし、朝顔、アユの塩焼き。
玉萄黍、朝鮮牽牛なんて書かないで欲しいネ。
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さて、この頃の戦争の状況。
8月7日の動きは下記。

昭和17年8月7日
・米軍反攻:ソロモン群島ツラギ・ガダルカナル島来襲上陸
日の出前、リッチモンド・ターナー少将指揮米豪艦隊、アレクサンダー・バンデクリフト第1海兵師団長指揮攻略部隊、ソロモン群島ツラギ・ガダルカナル島来襲上陸、日没迄に約1万1千上陸(1万9105名中)。「望楼(ウオッチタワー)作戦」開始。

<経緯>
5月3日、日本海軍はソロモン諸島政庁のあるツラギ(ガダルカナル対岸)とその隣小島ガプツを占領、小艦艇基地とし、第84警備隊を編成配置(本隊約200名がツラギ、約50名がガプツに、約150名がガダルカナル島ルンガ岬付近に配置)。

また、5月、ガダルカナル島に飛行場適地を見出し、7月初旬、第13設営隊1350名と第11設営隊1221名を送り込む(7月1日先遣隊上陸、6日本隊上陸、16日設営開始)。

8月5日飛行場第1期工事完成。
工事中から空爆あり、完成後は戦闘機部隊の進出を要望するが、ミッドウェーの痛手から恢復しきれていない事や、日本軍のポートモレスビー攻略阻止の為の前進基地に対する制圧攻撃と理解し、本格的奪回行動はまだ先(昭和18年以降)と考えており、この要望対応はせず。
実際には、米統合幕僚長会議は、6月26日、ツラギ、ガダルカナル奪回作戦発動を8月初と決定。7月10日、ニミッツは作戦を下命。
この時点でガダルカナルには、第11設営隊(門前大佐、1221名)・第13設営隊(岡村少佐、1350名)が居るが、大部分が工員で小銃・拳銃で戦闘能力ある者は、第11設営隊約180・第13設営隊約100に過ぎない。他に、第84警備隊としてガダルカナルのルンガ押付近に約150、ガプツ島(ツラギの隣島)に約50、ツラギに約200が配置されているに過ぎない。
<無血上陸できた理由>
①ラバウルからの距離が長遠な為に効果的攻撃ができず。
②ブーゲンビル島に配置の連合軍コースト・ウォッチャー(沿岸監視員)が、日本軍機の発進を目的地到着の1時間半前に通報。
③米重巡「シカゴ」のレーダーが日本軍攻撃隊の殺到を遅くも5分前に探知し、米空母「ワスプ」「エンタープライズ」「サラトガ」から60機が飛び立ち、邀撃。
④雲量多く視界不良。

<各島の個別の状況>
○ガダルカナルの状況。
第11設営隊宿営地は海岸に近く、米軍来襲の衝撃も大きく、混乱状態に陥り、指揮官掌握下から離れジャングル内に逃亡する者が多い。
第13設営隊宿営地からは海岸は見えず、米軍来襲も知らず。
4時30分頃、警備隊から米軍来襲の報がもたらされる。岡村隊長は、第11設営隊や警備隊とも連絡がとれず、独力での長期抵抗は不可能と考え、西方へ撤退。
7日夜、門前第11設営隊長以下10数名が合流、西方マタニカウ川を渡り、グルツ岬西方に指揮所(後に海軍本部と呼ぶ)を置き、事態の推移を待つ。
第84警備隊ガダルカナル派遣隊も少人数であり、高角砲6門・山砲2門しか持たず、圧倒的に優勢な米軍に抗し得ないので、これも西方へ退避、設営隊と合流して門前第11設営隊長(大佐)指揮下に入る。
8日夜半、彼らは陸上からツラギ海峡夜戦を望見し、友軍の来援上陸を信じる。
米軍来襲時の被害は、第11設営隊55%・第13設営隊35%と云う(判然しない)。
○ツラギ方面(ガブツ島、タナンポコ島を含む)の状況。
ガダルカナルと違い日本軍は洞窟陣地に拠って激しく抵抗(戦闘経過は米軍側資料にしか記録されていない)、在島日本軍は、少数の脱出者・捕虜を除き、いずれも玉砕。
ツラギでの抵抗は、一部少数のゲリラ的抗戦を別に、8日夕頃に終る。
横浜海軍航空隊約400・第84警備隊約50がいたガプツとタナンポコでの抵抗は激しく、タナンポコ上陸の米軍は7日夜、一時ガプツ島方面。
しかし、8日夕頃にガプツ・タナンポコの大部分は米軍の手中に陥ち、一部の抗戦は翌9日遅くまで続く。

<時系列でみた戦闘状況>
午前06時03分、第84警備隊等約250名、通信を断って玉砕。
ツラギ島には米軍2個大隊が上陸。

午前6時25分、ツラギより「敵艦船二〇隻接近、我砲撃ヲ受ク」の報入る。第11航空艦隊司令長官塚原二三四中将、ラバウル第25航空戦隊(司令官山田定義少将)に反撃命じ、自分もテニヤンからラバウルに飛ぶ。
山田25航戦司令官は、艦爆隊の片道攻撃敢行を決意し、搭乗員救助の為に水上機母艦と二式大艇を予定海域に配備し、第8艦隊には駆逐艦急派を要請。
午前07時10分、巡洋艦3隻と駆逐艦4隻、多数の飛行機による砲爆撃下、ガダルカナル上陸開始。不意をつかれた日本軍は混乱、ジャングル内に離散、通信所は破壊され島外との連絡は途絶。第13設営隊長岡村少佐はルンガ川の線で米軍を阻止しようとするが、第11設営隊長門前大佐は困難と判断、8日朝までに後退。携行糧食は1週間分のみ。
・午前07時35分(5時35分)、第8艦隊司令長官三川軍一中将、ラバウル所在の艦艇に出撃準備完成を命じ、この早朝ブナ輸送作戦(ニューギニア)支援の為にカビエンからアドミラルティ諸島に向かう旗艦「鳥海」と第6戦隊(「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」)に南下を命じる。
・正午頃、ラバウルからの陸攻27・艦爆9・零戦17機、ガダルカナル上陸用船団を攻撃。陸攻5・艦爆5・零戦2が撃墜。米濠側損害は駆逐艦「マグフォード」大破のみ。翌日の日本機の攻撃も日本機の損害大。オーストラリア人沿岸警備隊の通報により、事前に空襲を掌握。
・(午後2時30分)、ガダルカナル島支援艦隊、ラバウル発(重巡「鳥海」を先頭に、ラバウル所在艦隊(五藤存知少将第6戦隊「青葉」「衣笠」「加古」「古鷹」、松山光治少将第16戦隊「天竜」「夕張」)率いガダルカナルに向かう)。
第8艦隊は、陸軍部隊の応急派遣がなくても、所在の海軍陸戦隊を投入するべく、佐世保鎮守府第5特別陸戦隊(佐5特)・呉鎮守府第3、5特別陸戦隊(呉3特、呉5特)から計519名を抽出(指揮官遠藤海軍大尉)してガダルカナルへ派遣を部署する。
・(午後9時)、支援陸戦隊遠藤部隊(遠藤海軍大尉)、ラバウル発。
(8日正午)、海軍陸戦隊(遠藤隊)519人、ガダルカナル支援中止命令。ラバウルへ反転。
(8日午後8時)、米潜水艦攻撃で373人戦死。
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