2012年8月14日火曜日

元亀2年(1571)6月~7月 京都上京の町人1,600人の風流踊り 将軍義昭らも見物 [信長38歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-08-04
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元亀2年(1571)
6月
・松永久秀、三好三人衆と河内守護畠山氏の高屋城攻める。
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・大友宗麟、義輝母慶寿院に黄金30両などを献上し、次々と守護職に補任され、この月、6ヶ国の支配者となる。
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6月10日
・和田惟政、松永久秀・三好義継らの摂津吹田城を攻略(「言継卿記」4)。
三人衆方池田知正の池田城を三方向から封じるため。
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6月11日
・三好三人衆の軍勢、畠山昭高の河内高屋城より撤兵。松永軍は、河内藤井寺に入る。
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6月11日
・信忠、美濃崇福寺へ信長判形により一切の諸役を免除(「崇福寺文書」)。
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6月12日
・阿波篠原長房、備前児島侵入。毛利勢に撃退される。
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6月13日
・信長、猪子高就へ、信長上使として尾張下輪川付近の長島一揆糺明を命令。
一揆ならばたとえ誰の家来であっても生害させること、高木貞久(駒野城主、南濃町駒野)家中にも一揆勢が存在するので糺明の上、高木貞久に成敗させるよう命令。
やがて、高木の息子兵次郎や氏家卜全家中の柴原勘次郎など信長分国のい揖斐川流域を本拠とする部将の家臣が一揆側に立つ。
18日、尾張一揆糺明戦果報告を賞し、6月22日の上洛随行前に一揆勢掃討を厳命。
20日、尾張大田の一揆勢撃破を賞し、更なる一揆勢掃討を命令。(「猪子文書」)
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6月13日
・本願寺顕如の長子教如と朝倉義景の娘との婚儀成立。
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6月14日
辰刻、毛利元就(75)、郡山城内で食道癌により没
24日、葬儀。
9月17日、信長、特使を派遣し追悼の意を表わす。
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6月20日
・信長、尾張瑞泉寺へ寺再興のための材木蒐集にあたり河並諸役を免除(「瑞泉寺文書」)。
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6月23日
・信長、尾張の鉄屋大工の水野範直へ、鉄屋大工職と家屋所有を安堵(「鉄屋水野文書」)。
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7月
・信長、美濃関兼常の助右衛門へ鍛冶職等を安堵(「武藤助右衛門氏所蔵文書」)。
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7月4日
・松永久秀、箸尾為綱への攻撃を解き、大和国法隆寺・龍田に移陣。
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7月5日
・信長、朽木元綱へ、使者を派遣して「内存」を報告した忠節を賞し、近江須戸庄の「請米」を安堵し、新知行については磯野員昌に指令した旨を通知(「朽木文書」)。
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7月16日
・朝廷、武田信玄に東大寺大仏殿再建を援助させ、家康にも奉加を命ずる。
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7月16日
・山科言継、室町の町衆友田八郎二郎・浮島平次郎・久河与七郎ほか3人の町衆を招き「微音音曲」を楽む(言継卿記」同日条)。
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7月18日
・筒井順慶与力土豪箸尾氏、松永久秀勢の川合城攻撃。箸尾氏退却。
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7月23日
・幕府衆三淵藤英、摂津国へ出陣(「言継卿記」4)。
和田惟政の援軍として細川藤孝も高槻方面へ入り、藤孝・池田勝正と合同で、三人衆方池田城を攻撃、池田の市場等を放火。
結局落とせず、8月2日、後退。
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7月25日
・筒井順慶、白土に要害を構築(「多聞院日記」2)。
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7月25日
京都上京町の町民、風流を行う。下京町民もこれを演じ、足利義昭らが見物

「上京中の躍(オドリ)」が「武家」(義昭の御所)へ参るという噂を聞き、急いで御所へ参上し、義昭と共に「南の楯」でそれを見物。
「上京中の躍」は、「一条室町」「西陣廿一町与(チョウグミ)」「立売」「絹屋町小川」の4集団(町組=町与)から構成されている。

「各(オノオノ)結構金銀・金欄・段(緞)子・唐織・織物・紅梅・綺羅を尽くす。先代未聞なり。」(「言継卿記」同日条)。京都の伝統工芸の粋を尽くした華美が横溢している。

『言継卿記』7月29日条には、「下京衆四鼻(ヨツハナ)」「二百余人ずつ」が「武家」へ参ったとあり、この時の上下京の風流踊が総勢1,600人に及ぶものだったことがわかる。(「鼻」=「花」は、風流踊の輪の中心に立てられた花笠を意味する)
上下京という惣町が複数の町組に形成されていると考えられる。
また、「町々の見物の衆十余万人これある」とある。見物するしかなかった町人の数もまた彪大であった。"
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